20231111

 ここで先の議論に戻ると、主体を退行させる宗教は現実的なリスクに対する麻痺を起こさせるのだが、宗教は、相手から攻撃を受けるリスクさえ予め倒錯的な意味空間の中に回収し(「汝の敵に与えよ!」)、自己を相手へと開く行為は神さえ承認していればよいのであり、現実的な結果は問わない。これに対しセミナーでは、対他関係での退行化は現実認識の麻痺に基づくものの、眼前の他者を自己と同様退行させるという目標は現実的に保持されており、しかも対他者関係の失敗を回収する超越的場がないため、行為は相手に対する攻撃的・強迫的なものとなりやすい。さらにこれらの退行/強迫は、後に見るように、最終的には自己実現というもう一つの目標と結びつき、それによって手段化される可能性が高く、他者を退行させることは自己との融合や自己実現と結合するため、宗教と比べて、各人は他者への働きかけとその成果に対し、より強迫的な体制にたつ。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「自己啓発セミナーの困難」 p.186)


  • 9時ごろ起床。一気に冷えこんだ。最高気温は9度。アホか。一週間前は30度やったんやぞ。今日は11月11日、すなわち、独身の日。淘宝では破壊的なセールが行われているはずだが、特に興味なし。
  • 11時に第五食堂で打包。食後はきのうづけの記事の続き。スピーチコンテストのグループで打ち上げの相談。火鍋をおごると約束していたのだ。明日の夕方に(…)街の店で食うことに決まる。北方の寒さは「物理」、南方の寒さは「魔法」という言い回しがあると(…)くんが教えてくれる。中国南方は冬でも湿度がぼちぼち高い。そのせいでいわゆる底冷えのする寒さになるということだろう。(…)くんからは『ビーロボカブタック』のおもちゃを買ったという報告。先生知ってますかというので、去年のスピーチコンテスト代表らから中国でとても人気があるという話を聞いたと受けたのだが、のちほど一年前の日記を読み返したところ、まさにそのときのやりとりが記録されていたので、こういうシンクロほんまに多いなァと思った。

 いつも使っている教室のとなりの教室に移動する。(…)さんが先着している。オンラインになって残念だったねと話す。ほどなくして(…)くんもやってくる。とりあえずテーマスピーチを先輩から順番に一度ずつやる。その後は即興スピーチであるが、明後日の日曜日に四級試験をひかえている(…)さんにはそっちの勉強をしていていいよと告げる。で、残ったふたりとは即興スピーチを二本ずつやったり、雑談をしたりする。中国で人気のある日本のアニメといえば、まず第一にあがるのがコナンであるわけだが、そのほかによく聞くのが『カードキャプターさくら』で、だれだったか忘れたが、インターンで日本をおとずれた学生がこのアニメのフィギュアを買っていたはず(この話をすると(…)さんは私もほしいと騒いだ)。あとは『一休さん』もみんな知っているというので、あれぼくが子どものころによくやっていたアニメだよ、正確にいえばぼくより上の世代が見ていたやつだよというと、三人とも子どものころによく見たとのこと。あと、特撮ものとしてはマジで『ウルトラマンティガ』をはじめとするウルトラマンがめちゃくちゃ人気なわけだが、それ以外に『ビーロボカブタック』というのにも熱中したという話があった。全然聞いたことがない。画像を見せてもらったが、まったくピンとこない。日本では97年から98年にテレ朝で放送されていたらしい。こちらが小学校6年生か中学校1年生のころ。

  • 記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年11月11日づけの記事を読み返す。

 食事のマナーは文化によっても時代によっても変化する。たとえば、日本料理では麺を音を立ててすすったり、お椀やお皿を手に持ったりすることがしばしばあるが、それを無礼と感じる文化もある。ちなみに、福井県永平寺に参禅した際に、最も感心したのは食事の儀礼で、お椀の持ち方とか食べ方が詳細に定められていた。道元が『清規』において定めた戒律を、実践することがそのまま修行であった。
論語』のこの箇所にも、実に細かい規定があり、何ともややこしいと感じることだろう。しかしポイントは、食べるという最も基本的な行為が、仏教的に言えば殺生なしには成立しないことにある。根本的な暴力をむき出しにしてはならない。それを何らかの仕方で飾ること。これこそが礼なのだ。
中島隆博中国哲学史—諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』)

  • 2013年11月11日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。謎のじんましんに見舞われた夜。

(…)症状が改善されつつあるとはいってもかゆいものはかゆく、それにさきほどまで症状のなかった首回りがだんだんとかゆくなりはじめたという変化もあったので、こんな状態では眠りにつくのも簡単ではないだろうというアレからひとつ酩酊の力を借りて入眠しようかと思ったのだけれど、これが間違いだった。かゆみがいや増し、というよりもいや増したかゆみをかきむしる快感が倍増し、結果、首もとを引っ掻く手の運動が止まらず、五感は停止し、ただかゆみをかきむしる快感と手の運動だけが知覚を支配する閉鎖的な環世界が構築されてしまいそれに幽閉されてやばいやばい止まらないと思いながらもつきたてられた指先は暴走しつづけ、それがいったいどれほどの時間だったのかてんで見当もつかないが、ある瞬間不意に吐き気を催し、次いでめまいのきざしにゆらぎほどけていくものがあり、ここでようやく(…)の存在に思い到り、やばい、ごめんおれちょっと気絶するかも、とそう口走ってアーロンさんから立ち上がり、というところまでは覚えているのだが、次の瞬間は畳に右頬をついて倒れており、(…)!(…)!とこちらを呼ぶ(…)の声だけがぼんやりと聞こえ、おい!だいじょうぶか!(…)!鼻血出とる!とそういわれてはじめて顔面の左側がやけに熱くぼうっとしているその感触の正体が打撲のためでありその打撲を引き金にしたたりおちるもののあるらしいことに思い到り、けれどもそうした一連の意識が働いたのは横倒しになったこちらの視覚がとらえる風景が状況を把握するにたるだけの意識をともなわぬ純然たるイメージそのもの、意味とも記号とも無縁のただのイメージそのものとして知覚されていたかのようにも思い返されるひとときのしばらく後のことであって、あ、おれ気絶したんだ、と自覚したのもつかのままたすぐにそう状況判断した意識がすっぽり抜け落ちてあるのはただ奇妙な遠さの感覚だけとなって、(…)!(…)!と呼ぶその声がきっかけになったのかどうかはわからないけれどまた、あ、おれ気絶したんだ、と自覚し、そしてまた忘れ、また自覚し、というぶつぎれの往復運動があり、まるで生と死の境界線上でかわされるゆるやかな反復横飛びのようであったように思い返されるのだが、尋常ならざるあのひとときを言葉を素材に組み立てるのはしかしとてもむずかしい。状況を把握しようとする意識の蘇生とその消失のたえまないくりかえしのなかで、死んだと思った、という想念があたまのなかでざわつきはじめ、ついで、死の瞬間にはいままさに死をむかえることを確認し自覚する余裕などないのだ、という閃きがしだいにクリアになりつつある頭のなかで展開されていき、やがて、死ぬかもしれないと思うときはすでに死の淵からよみがえりつつあるときであり、死ぬところだったという挫折のかたち(未遂の過去形)でしかわれわれはわれわれの死を認識することができないのだというかたちで結実し、しかもそれはおそらくブランショの語った死とはまた別の死の側面だとも思った。いまこうして書いていて当然のごとく腑に落ちるのだけれど、臨終間際の言葉というのはおなじ臨終間際でも比較的意識の明瞭な瞬間に語られる言葉であって本当に死の領域に足を踏み入れてしまったら言葉を発する余裕も能力もない、そのような機能の失われてしまう領域こそが死であり、そこではうわごと以上の言葉が口にされることはない。臨終の言葉とは生と死の境界線上を行き来する過程、それも死→生へのかぎられた帰還のひとときにのみ発されるものであり、要するにその言葉は原理的に蘇生と回復の色調に染め抜かれた、ある意味では死を回避した安堵感とともにもらされる溜息と産声であり、けっして死者の言葉でもなければ死にむかいつつあるものの言葉でもなく、たとえそう聞こえたとしても何度もくりかえすようにその言葉の磁力は、その意味=力は、死→生の一方通行の影響下にあってそれを逃れることはできない。

  • このときのことはよくおぼえている。かなりひどいじんましんだったので、くら寿司→(…)といういつものコースをたどって帰宅したのち、このままではきっと一晩中眠れないだろうというアレから一か八かで(…)を吸ってみたのだが、これが逆効果だったのだ、ヘッドホンを装着して音楽を流してみても意識をそっちに運んでいってもらうことができず、やはり首まわりのかゆみがどうしても気になる、それで少しだけ指でひっかいてみたところ、(…)のせいもあってかそれが尋常でないほど気持ちよく、掻いたらダメだとわかっているにもかかわらず掻く指の動きがとまらず、ヘッドフォンを装着して目を閉じ、虹色のハレーションがまなうらでめまぐるしく展開されつづけるなかで、あ〜! かゆい〜! かゆい〜! かゆい〜! でもきもちいい〜! と絶頂をむかえた瞬間に意識が途切れた——というふうに記憶しているのだが、記事には、「ある瞬間不意に吐き気を催し、次いでめまいのきざしにゆらぎほどけていくものがあり、ここでようやく(…)の存在に思い到り、やばい、ごめんおれちょっと気絶するかも、とそう口走って」とあるので、このあたりちょっと記憶違いがありそうだ。いずれにせよ気づけば鼻血を垂らしてぶっ倒れており、そしてその鼻血はのちほど(…)が語ったところによると、まるでベリーロールのような姿勢でアーロンチェアからぐるんっとすさまじいいきおいでたたみの上に倒れこんだこちらの顔面が、(…)が久米島のビーチで拾うだけ拾ってうちの部屋に置いていった貝殻のたくさん入ったビニール袋に叩きつけられた結果噴き出したもので、このときは(…)も(…)で相当あせっていた。(…)自身はたしかシラフだったように思うが、最悪の場合救急車を呼ぶ必要がある、しかしそうなると同時にパクられる可能性もある、だからどうすればいいのかわからないとパニクっていたのだろう、当時の日記にあるようにこちらのことをたいそう心配してくれたのだが、それと同時に、貝殻を部屋に置き去りにしていった(…)のことをめちゃくちゃ悪様にののしってもいて、そうしたやつの悪態はのちほど「ベリーロール」とおなじくわれわれのあいだでしばらく語りつがれる笑い話になった。
  • 今日づけの記事もここまで書いたのち、日語会話(一)の授業準備。第4課を詰める。それから「(…)」の清書を添削し、「(…)」も一部添削する。17時に作業中断。第五食堂で打包し、食し、仮眠をとり、シャワーを浴びる。
  • 20時から22時過ぎまで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン53、いちおう頭から尻まで通したが、もういっぺんチェックしたいので保留。
  • 夜食は以前学生らがメシを作りにきてくれたときにもってきた食材の残りもの(にんにく、白菜、たまご)をごま油で適当にいため、方便面にまぜて炒面風にして食う。寝床に移動する前に添削をもう少しだけ進めておく。ここ数日、中国国内の音源をいろいろにディグってみているのだが(告五人、万能青年旅店、Mong Tong、P.K.14など)、いまのところ(…)さんが教えてくれた福禄寿があたま三つか四つ抜けているなという印象。音大卒の三つ子の姉妹。