20231211

The fire had gone red. Now it fell in with a sharp sound and the room was colder. Cold crept up his arms. The room was huge, immense, glittering. It filled his whole world. There was the great blind bed, with his coat flung across it like some headless man saying his prayers. There was the luggage, ready to be carried away again, anywhere, tossed into trains, carted on to boats.
(Katherine Mansfield, The Stranger)


  • 10時から一年生1班の日語会話(一)。第8課。毎度のことであるが、先週の2班とは大違い。まず教科書を開かない学生が多い。そして復唱する学生の数は半数ほど。それでもいじるべき学生をいじれば相応には盛りあがるし、やる気のある数少ない学生にむけていちおうテンションをあげてやるわけだが、個人指名の場面で高校一年生のときから日本語を勉強しているはずの(…)さんを指名した際、こちらが事前に学習委員の(…)さんに印刷をお願いしている資料を多くの学生が印刷していないことに気づいて愕然とした。(…)さんには故郷の料理の味について質問したのだが、味をあらわす単語については教科書第8課に掲載されておらずこちらの作成した資料にまとめてある、しかし彼女は質問に答えるのに資料を見ず教科書のページをぺらぺらとめくりはじめて、いやいやプリントのほうを見てくださいと伝えたところで、彼女がそのプリントを持っていないことが発覚。で、確認してみたところ、学生の大半が事前に資料を印刷せずに教室に来ていることが判明し、いやそりゃ授業もまともに成立せんわとなったのだった。ほかのクラスについていえば、学習委員がクラスメイト全員分の資料を事前に印刷し、それを当日クラスメイトに配布するというかたちをとっているのだが、(…)さんは各自が印刷するようにと伝えていたらしい。そうすると忘れてくる学生もある程度は出てくるだろうし、だからこちらとしては学習委員に全員分の印刷をお願いしたいわけだが、それにしても印刷してこない学生の数が多すぎるんではないかという感じで、ひとりひとりチェックしたわけではないが、三分の二以上の学生は印刷していなかったと思う。このときはさすがに絶句した。そしてキレそうになった。もう授業は中断して教室を出ようかなとすら思ったが、ここでキレてしまったらまためんどうなことになるだけなのでこらえて、そのまま後半のアクティビティに移った。しかし腹が立つ。2班とくらべてやる気もないし、能力も圧倒的に低い。(…)さんのような既習組ですらこのていたらく。頼むから来学期までにやる気のない学生は全員よそに移ってくれ。
  • 休憩時間中、(…)くんから女装している写真を見せてもらった。JKファッションに身を包んでいるもの。メイドカフェで働きたいというので、日本には女装カフェもあるしそこでいつかバイトすればいいと応じた。
  • 授業の途中、廊下から「先生!」と声をかけられた。ダウンジャケットのフードをかぶった学生ふたり。四年生の(…)さんと(…)さんだった。
  • 授業を終えて外に出る。ケッタを停めてある場所で今度は三年生の(…)さんと(…)さんと(…)くんと(…)くんの四人から声をかけられた。みんな紫色のビブスのようなものを着用している。そして(…)くんの手にはマジックハンドのようなものが二本握られている。ゴミ拾いのボランティアだろう。(…)くんにうながされるがままビブスを身につけてマジックハンドを握る。そのこちらの姿を(…)くんがスマホで写真撮影する。おなじことを(…)くんにもやらせる。これってつまり形式主義ってこと? と(…)さんにたずねると、そうです! 先生よく知ってますね! という返事。たぶん学生会関連の活動だろう。実際にゴミ拾いなどしない。ただゴミ拾いしているふりをし、それを写真に撮って、しかるべき部署に送信するだけ。女子ふたりはほどなくして去った。男子ふたりは(…)さんを待つといった。彼女が掃除をしているところをたぶん写真に撮る必要があるのだろう。
  • (…)に行こうと思ったが、大量の学生によって道が混雑していたので、あきらめて帰宅。出前一丁を食す。(…)さんから微信が届いた。例によっていろいろ悩んでいるので、いちど(…)さんや(…)さんや(…)さんもまじえて電話できないだろうか、と。木曜夜日本時間21時から通話することに決まる。一年生1班に心底うんざりしていたので、もし(…)さんがまた中国に来ることになったら、彼をたよってこちらも別の大学に移ろうかなとちょっと真剣に考えた。
  • 一時間ほど昼寝する。15時から国際交流処のオフィスへ。(…)と合流し、書類に必要事項を書き込む。それから(…)の運転する車にのって、まずはdistrict police stationへ。必要書類に記入。その後一年前もおとずれた、ほとんど空港のようにみえる巨大な役所へ。移動時間はけっこうあったが、(…)さんの自殺宣言と一年生1班に対するいらだちという頭痛のタネふたつのために(…)とおしゃべりする余力はまったくなかった。ただ車窓越しに景色をながめた。途中から景色をながめるのにも疲れた。唯一交わしたのは(…)先生に関する話のみ。(…)先生とcommunicateするのはむずかしかったという。中国語はまったくできないし、英語もあまりできなかったらしい。それで思ったのだが、(…)が以前こちらにボランティアに参加するように訴えたのは(…)先生の通訳をお願いするためでもあったのかもしれない、本当はdutyでもなんでもないのだが、そうでもいわないとこちらが参加しないことを見越してそういう方便を使ったのではないか。ま、こちらは仮病のぎっくり腰でまんまとサボったわけだが。しかし(…)先生、英語も中国語もろくにできない状態であのような活動に参加するというのは、なかなかけっこうしんどかったろうなと思う。通訳として力を貸してほしいと言われていれば、こちらは仮病など使わずに参加していたと思う。
  • 役所では写真撮影と書類記入。思っていたよりもはやく片付いた。パスポートが受け取り可能になるのは来月2日以降。2日はholidayかもしれないから、3日にもういちどここに来ましょうと(…)。前回同様てっきり彼女のほうでパスポートの回収に出向いてくれるものと思っていたのだが、回収後にふたたびdistrict police stationのほうで手続きをする必要があるらしい。なるほど。
  • 帰路の車内でも黙って過ごす。(…)は途中でガソリンスタンドに立ち寄るといった。そこでタクシーを呼ぶからそれに乗って大学にもどればいいというので、こちらのだんまりを妙なふうに解釈したのかなと思った。あるいは単純にちょっと気まずかったのかもしれない。ここは大学に近いのかとたずねると、まっすぐ行くと万达があるというので、それだったら歩いて帰るよと受けた。
  • それでガソリンスタンドで(…)と別れた。あるかなしかの小雨の降るなか、コートのポケットに手をつっこんで道なりに歩いた。ほどなくして万达がみえた。その手前の交差点を渡っている最中、シェア自転車に乗っているおばさんがふりかえりながらこちらになにか話しかけた。完全にこちらのことを認識している顔つきだった。おばさんは横断歩道を渡った先であらためてこちらに話しかけた。外国人だろう? 何人だ? というので、日本人だと応じた。(…)の外教だろう? とかさねてたずねるので、そうだと応じると、そのままなにやら口にして去っていった。だれや? ぜんぜんわからん。食堂のスタッフか?
  • (…)先生らと先日いっしょに歩いたルートをそのままなぞるかたちで(…)公园を抜けた。(…)で食パンを三袋購入し、セブンイレブンで弁当と手巻き寿司とサントリーのウーロン茶と塩だれの焼き鳥を一本買った。焼き鳥を食いながら寮にもどった。弁当をレンジでチンして食った。(…)さんに「(…)さん、気分はどうですか? だいじょうぶですか?」と微信を送った。17時半だった。一時間後に「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」と届いた。それ以上はやりとりを続けなかった。
  • また寝た。しんどいことが重なったので不貞寝モードになってしまい二時間ほど眠った。起きてからシャワーを浴び、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いた。きのうづけの記事の続きを書いているうちに気持ちが安らいだ。一年生1班についてはこれ以上あれこれ考えてもしかたない。おれはあの学生たちに100%を捧げる必要はないのだと、(…)さんについて書いた言葉がそのまま自分自身に反射するかたちで得心されたのだ。
  • しかし残された人生、軸足をやっぱりちゃんと小説に置きたいなとも思う。いまはノイズが多すぎる。ワンオペの(…)でアルバイトしていたときは本当に読み書きのことだけ考えていればよかった、あれは幸福だった——と書いたところで、いや当時の日記にはそんな生活ではダメなのではないか、もっといろいろな人生経験を重ねるべきなのではないかという焦慮がしょっちゅう書きつけられていたことを思い出し、ケーッ! 結局はないものねだりっちゅうやつけ!
  • きのうづけの記事に、じぶんは他人に悩みを訴えたり相談したりすることが本当に全然ない(ひとと会話する機会があれば愚痴だのなんだのをこぼすことはあるが、たとえば今日の(…)さんのように、相談したいことがあるからとあらたまって会話の席を設けるというようなことをしたことがたぶん一度もない)ということを書いたのだが、それってでも、こんなふうに毎日日記を書いているからなのかもしれないなと思った。日記はじぶんにとって一種の療法なのかもしれない。ひらたい生活をただただ記述するという療法によって、じぶんはじぶんの正気を生きながらえさせている、あるいは、じぶんの狂気に折り合いをつけているのかもしれない。
  • ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の日記を読み返す。以下は2022年12月12日づけの記事より。

「ほかの人に影響されるのが怖くて、いつもそれから逃げようとして、誰からも影響を受けない場所に逃げようとしてたの。でもそんな場所なんて存在しない。世界のいかなる片隅でも、ほかの人間の影響から逃れるところなんてないの。数日前にふっとね、なぜ自分が間違えてたのかわかったの。実際には、自由はいろいろな影響を受けないのではなくて、どうやってそれを扱うかを自分自身で決めるものなの。自由は逃げて得るものじゃない。どこかに逃げていく必要もない。自分で引き受けて、自分で処理をすればいいだけ」
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)

  • 2022年12月12日は日本に渡る前の(…)さんとカフェでメシを食い、そしてその帰路にうんこを漏らしそうになった日だった。よくおぼえている。便意に見舞われて以降の記述はなかなか冴えており、大学の警備員にキレている場面などは読み返していて笑ってしまったが、それはそれとして、以下の記述が、きのうづけの記事に書いた(…)さんに対するこちらの印象と響きあった。そうか、一年前のじぶんは依存を一種の強さとして認識する視点をもちあわせていたのか、と。

彼氏は今年広州で就職する、じぶんはインターンシップで日本に行くつもりだしその後も日本で働き続けるつもりだ、でもじぶんは遠距離恋愛に耐えることのできるタイプではない、恋人とはずっと一緒にいたいという人間だ、だからまだ「感情はある」が別れることに決めたのだと、だいたいにしてそのような説明があった。なるほど。先生はまだ恋人がいないのというので、いないよと答える。さびしいと感じることはないのというので、全然ない、恋人がいたとしてもずっと一緒にいるのは絶対に無理というタイプだから、むかしそういうことで揉めたこともあると伝えると、先生は強い! うらやましい! というので、他人にそこまでもたれかかることのできる人間もある意味では強いと思うよと答える。小さな子どもや犬なんかを見ているとよくあそこまでじぶんをまるごと他人にあずけることができるよな、あの信頼はすごいよな、ああいう強さは自分には絶対にないよなと思うこともあるからと、ゆっくりとした口調で噛み砕きながら説明する。たぶん伝わったと思う。

  • 2013年12月12日は(…)の忘年会に参加した日。記述の上では「酔い」と表現しているが、忘年会に参加する直前にまず自宅で(…)を吸い、それから一次会が終わったあとに鴨川に移動し、そこで(…)さんと(…)さんと三人でふつうの煙草のふりをしながらさらに追い焚きしたうえで、バー→ワタミ→立ち飲み屋とはしごした夜だ。いろいろと印象深い場面があったはずなのだが、当時は日記を一般公開していたこともあり、危ない部分には触れない書き方をしている。もったいない。そのせいで失われてしまった断片的なできごと、細部の印象、使い道のないエピソードの類もあったはずなのだ(そしてそのような葛藤を当時のじぶんも感じていたからこそ、その後七年半にわたる非公開日記の営みもはじまるわけだが!)。しかしバイト先の上司だの先輩だのからかわいがられるという年下の特権を、四十路まぢかのじぶんはすでに失っているのだよなとしみじみ思って、ちょっと切なくなった。年下であるということ、若輩者であるということ、後輩であるということは、なんて楽だったんだろう!
  • 以下はその2013年12月12日づけの記事より。

 ここで、カントが倫理学において重要な転換をしていることに注意してほしい。それは自由という観点から道徳性を見たことです。彼にとって、道徳性は善悪よりもむしろ「自由」の問題です。自由なくしては、善悪はない。自由とは、自己原因的であること、自律的であること、主体的であることと同義です。しかし、そのような自由がいかにしてありうるのか、というのが彼の問いです。そして、彼はそれを「自由であれ」という至上命令に見出します。
 これまでの倫理学は善悪が何であるかを論じてきました。先に述べたように、それには二通りの考え方がある。一方に、善悪を共同体の規範として見る見方があり、他方に、それを個人の幸福(利益)という観点から見る見方があります。しかし、カントによれば、それらはいずれも「他律的」なものです。共同体の規範に従うということが「他律的」であるということは明白です。さらに、幸福主義――善を幸福から説明する功利主義的な考え――も、根本的に感覚や感情にもとづいており、諸原因に規定されるから、「他律的」なのです。それらに対して、カントは、道徳性を「自由である」ことにのみ見出します。自由がないならば、主体が無く責任がありえない。そこには、自然的・社会的な因果性しかない。
 カントが自由を「義務に従う」ことに見出したことは、大きな誤解を生んでいます。それは、一般に、義務が、共同体が各個人に課すものと見なされるからです。しかし、カントのいう義務は、「自由であれ」という義務です。くりかえしていうと、それは自然的・社会的因果性を括弧に入れよ、ということと同じです。自由であることを意志することによってのみ、自由が生じる。それ以外に、自由は生じない。「当為であるがゆえに可能である」というカントの言葉は、それを意味しています。
柄谷行人『倫理21』)

  • 細巻きを食し、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は0時半。昼寝と夕寝そろってたっぷりとったためにギンギンに冴えていたが、実際に寝床に移動してみるとこれがやはり冬の魔力というものだろうか、けっこうすぐに眠たくなった。
  • 今日は『Cutting Branches For a Temporary Shelter』(高田みどり)と『Horizon, Vol.1』(菅谷昌弘)と『Whistleblower (2022 Remaster)』(Vladislav Delay)をききかえした。