20231212

 仏哲学者ドゥルーズは、社会が「規律社会(均一な労働者や主体を、国家が責任をもって育成する社会)」から「管理社会(主体の育成を放棄し、少数のエリートのみを必要とする。その上で『多数となるコンマ以下の主体』を、テクノロジーを駆使した警察権力によって監視して統治する社会)」へと移行していることを指摘する。
 社会の中で規律を確立し、皆がそのルールに従うというこれまでの統治方法はコストがかかる。規律に進んで従えるような、ルールを内面化する主体の形成——教育が必要だからである。それゆえ現在、犯罪者はどんどん刑務所にぶち込み、犯罪予備軍は情報の収集・分析と、テクノロジーによる管理で、あらかじめ社会から締め出してしまう。
 ドゥルーズは、権力には「君主型」「規律型」「管理型」の三つの実践形態があると述べる。先述のように、現在、権力は「規律型」から「管理型」へ移行しつつある。
 「管理型」は「コミュニケーション」を操る権力で、言論や想像力をも支配しようとする。「管理社会は監禁によって機能するのではなく、不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている」。
 ドゥルーズは、瞬時しか存在しない「コミュニケーション」と、長期的時間をもつ「創造」を対立させ、管理を逃れるために「非=コミュニケーション」的な空洞や断続器を作り上げる必要があると指摘する。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「はじめに」 p.17-18)


  • 10時から二年生の日語基礎写作(一)。期末テスト第二回。先週同様、授業開始10分後にプロジェクターの電源が勝手に切れてスクリーンが閉幕するというトラブルが発生。ちょうど(…)さんのテストをしている最中だった。その後はプロジェクターもスクリーンも再起動できず。しかたがないので教卓のコンピューターの画面を学生に見せるかたちでテスト続行。今日は(…)さんのほかに、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんのテストを実施。最高得点は(…)さんと(…)さんのふたり。(…)さんは授業ではあまり目立たないが(劣等生グループにまじって後方に着席しているので)、テストでは毎学期高いスコアを獲得している印象。意外だったのが(…)さん。ぎりぎり「良」というレベル。のちほどモーメンツにこちらが以前配布した期末試験対策の資料の写真とともにハートの割れた絵文字を投稿していたので、じぶんでも手応えなしだったのだろう。彼女は授業態度もまじめであるし、これまでの成績も決して悪くはないのだが、今学期は最愛の「おじさん」が亡くなったことで相当メンタルにダメージをくらっていたようであるし、英語の六級試験の準備も忙しかったようであるし、それでこうした不本意な結果に終わったのかもしれない——と書いたところで、彼女の歴代の成績をチェックしてみたところ、日語会話(一)のときに81点という「良」ぎりぎりのスコアをとっていることに気づいて、ちょっと驚いた。最初から最後までずっと「優」の子だと勘違いしていた。
  • 第五食堂で打包。食後は午後にそなえて授業準備。14時半前になったところで寮を出る。門を抜けた先で(…)から声をかけられた。奥さんも一緒。(…)はたしかアメリカ人、奥さんのほうはロシア人だったと記憶しているのだが(コロナ発生前の最後のクリスマスパーティーでおたがいに自己紹介しあった記憶がある)、現在の国籍がどうなっているのかは不明。アイコンにロシアと中国の国旗を掲げているくらいなので、(…)と同様、西側陣営に懐疑的な西洋人ということにおそらくなるのだろう——と書いていてふと思ったのだが、以前(…)から(…)は(…)の(…)大学に移る、なぜならそこにgirl friendがいるからという話を聞いたおぼえがあるのだが、いやあれは過去のことか? 英語のやりとりだとこちらの能力不足のせいで細部の事実関係がやっぱりずいぶんあやしくなる。ま、それはそれで記述の対象として独特の手応えを感じさせてくれて悪くはないのだが。(…)はこちらがdisappearしたと思っていたといった。前回のvolunteer workにはback acheのせいで参加できなかった、disappearしたわけではないと応じた。冬休みはどうするのだ、日本に帰るのかというので、来月13日の便で帰る、一ヶ月以上むこうで過ごすつもりだと応じると、妻は日本に行くのが夢なのだ、いつか日本をおとずれるつもりだ、そのときはむこうで会おうというので、guideするよと安請け合いした。このやりとりとまったく同様のやりとりを先ほど言及したクリスマスパーティーで交わした記憶がある。そのときはガイドするからたっぷり金を払ってくれよと冗談で言った。(…)はおまえはまるでChineseみたいだなと、ほかでもないそのChineseがたくさんいる場で笑いながら放言し、こちらはちょっとおいおいと思ったのだった。
  • 国語学院では一服中の(…)とも遭遇した。(…)は残りの授業はほぼテストだけなので楽ちんだといった。最近どうしていたのだというので、前回のactivityはback painで休んだのだ、二日ほど歩けなかったと堂々と嘘をついた。muscleなんちゃらか? というので、たぶんそれかなと適当に応じると、それともslipped discかというので、ああ、それそれ! となった。以前ネットでぎっくり腰はなんていうのかなと調べたときに候補としてあがった単語のひとつがslipped discであることをおぼえていたのだ(ネーミングから察するに、ぎっくり腰というよりは椎間板症ヘルニアっぽいが)。(…)と会話しているわきを(…)くんともうひとりの男子学生が、先生! といいながら通り抜けていった。こちらが英語を話しているのに少々驚いているふうだった。一年生の前で英語を話したことはたぶんない。
  • 14時半から一年生2班の日語会話(一)。第9課。アクティビティは弱かったので作り直しをする必要があるが、まあ盛りあがった。ほんまになんべんでも書くが、なんでおなじ一年生でも1班と2班でこんなに空気ちゃうんや? 毎回おんなじ教案で授業やっとんのに、忘年会と葬式くらいちがうんやが! 授業中の態度だけではなく学生同士の関係も1班と2班では全然ちがう気がする。(…)先生も言っていたように、2班は学生同士の関係もいい。だから休憩時間中もあちこちで話し声がきこえてくるわけだが、1班の休憩時間中はみんな黙り込んで手元のスマホをいじるのが常だ(そんな空気のなかでただひとり(…)くんだけが空気を読まない明るさを放っているのがちょっとおもしろかったりもするが!)。
  • 授業が終わっても(…)さんと(…)さんのふたりは教室を去らなかった。黒板にこれからチョークで英語のpoemを書くという。どうして? 宿題? とたずねると、返答に窮したのち、activityだという。どうやら好きな英詩を黒板に書いたのを写真に撮って担当者に送れば成績に加点されるというアレがあるらしい。せっかくなのでふたりが黒板に四苦八苦して詩を板書するのをながめた。(…)さんは日本語のみならず英語もとても上手という話だったが、彼女の書く字は実際なかなか堂に入っていた。この子はたぶん絵もうまいだろう。(…)さんは(…)さんとくらべるとちょっと見劣りする。本人も自覚しているのか、何度も何度も書き直していた。(…)さんの詩は中国の古詩の英訳だった。古詩らしく自然の風景を読んだものだったが、中国の古詩というのは英訳してしまうとこんなにもチープになってしまうのかとちょっと愕然とした。東浩紀柄谷行人の著作の英訳にはじめて触れたとき、日本の批評文というのは英語になるとこんなにうすっぺらく見えてしまうものなのかと驚いたというようなことをどこかで語っていた記憶があるが、その衝撃にちょっと近いかもしれない。
  • 次の授業に向かうふたりと別れた。いつものように湖のそばに移動し、そこで17時になるまで『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック山形浩生訳)の続きを読み進めたが、さすがに今日は寒かった。書見しつつ、一年生1班の授業を今後どうしたもんかなと考えた。いっそのこと授業に興味のない学生は教室後方、興味のある学生は教室前方に分かれて座ってもらうことにし、後方組は好きな科目を自習してよし、こちらは前方組だけに対象をしぼって集中的に指導するという方策をとったほうがいいのではないかと思った。もちろん後方に座したところで成績を減点することはしない、テストで高得点さえとれば「優」をつけることもあるとしっかり事前に説明しておく。そういう形式でやったほうがこちらにとっても学生にとってもいいんではないかと思うのだが、しかし残る授業はあと1回であるし土壇場でそんな新ルールを打ち出すのもアレか? 導入するのであれば来学期からにするか? 今週末は学習委員の(…)さんと『名探偵コナン』の映画を観に行く約束もあるし、そのときにちょっと相談してみるのもいいかもしれない。
  • 第五食堂で打包して帰宅。食後はまた二時間ほど眠ってしまった。熟睡しすぎて目が覚めた瞬間、いまが朝であるのか昼であるのか夜であるのかわからず、授業を寝過ごしてしまったのではないかとあせった。
  • シャワーを浴びたのち、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の日記を読み返す。以下は2022年12月12日づけの記事より。初出は2021年12月12日づけの記事。

 相関主義批判によって、私たち=人間と絶対的に無関係なもの、無解釈的なものの側に立つSRは、社会構築主義——をベースとする文化・批判理論——とは相容れないように思われるかもしれない。社会構築主義では、人間の様々に(とくに政治経済的に)偏った立場から事物がどのように規定されているのかを考察する。事物の本質主義的な規定が、実のところは特定の権力構造に強いられて硬化させられた規定であることを暴露し、事物の解釈を変えようとする。このように、人間の利害と事物との歴史的な絡み合いを問題とする社会構築主義は、相関主義の一形態であり、それゆえに、レヴィ・ブライアントの言葉を借りるならば、「相関主義を全面的に弾劾することには、正義と平等の名の下で苦労して達成されてきた解放の勝利の数十年を掘り崩してしまう危険性がある」。
 しかし、社会的構築の外部に立つことが、ただちに社会的構築に固有の実効性を否定することにはならない。ブライアントは、SRと社会構築主義を両立させようとし、社会的構築をもっぱら言説的と見なした上で、SRは、非言説的ないし非記号的な条件(地形や気候、資源の分布、テクノロジーの特性など)が権力をどのように編成するかという問題に注目させるものだ、と判断している。非言説的/言説的な領域を併せて考えようというわけである。しかしこれは、結局のところは、関係-解釈の外部がどのように関係-解釈に介入してくるかということであり、あくまでも関係-解釈指向的にSRを社会化しているのである。本稿ではむしろ反対に、社会をSR化するという方向での考察を試みようとしている。
 OOOは、オブジェクトの絶対的な他者性、特異性(または単独性)の擁護によって、社会構築主義に対する剰余を認める立場である。このことが、社会構築主義によって批判されるところの本質主義に対抗することにもなる。すなわち、オブジェクトは、別個に異なるポテンシャルを無限に有しているがゆえに、一般的に言って、関係-解釈の束に還元されず(社会構築主義では説明できない特異性を認める)、ましてや、何らかの特権的な規定=本質であるとされる規定の束に還元されることもない(このように本質主義が退けられる)。言い換えれば、そのオブジェクトがたんにそれであること——大まかには、固有名は確定記述には還元できないというクリプキの有名な主張と同じであると思われる——、たんにそれであるオブジェクトが複数別々にあること、OOOは徹底的に、たんなるこのことの強調に努めているように思われる。
 メイヤスーの場合についてはどう考えられるだろうか。メイヤスーは、数学的に扱われるべき世界に立脚する唯物論を標榜するにしても、そこへ主観的な領野を全面的に還元するべきであるという主張はしていない。『有限性の後で』は一種の科学哲学なのであって、主観性の学にコミットするものではない。けれども強く読めば、それは一種の消去主義として読めるのかもしれず、ならば、究極的には人間の歴史のすべても数学的な無人の世界から説明されるべきなのかもしれない。
 そこで本稿では、次のように一種の弁証法を仮設してみたい——すなわち、社会的構築の領野を存続させながら、同時にそのただなかに消去的なモニュメントを導入するのである。これは、関係-解釈のただなかで、無関係-無解釈的なものの実効性を認めることに相当する。
 このことは、秘密の、次のような二つの位置づけを問題にしている。第一に、秘密は、終わらない解釈のその焦点、解釈可能性の理念的な極限でありうる。こうした秘密は、解釈を増殖させる源泉のように機能している。解釈の増殖は、秘密の汲み取りとして秘密に関係する。最終的な解釈が定まることは決してないが、そのつどの局面での解釈が、一応の有効性を持つものとして仮固定され——また、その有効性を測る基準自体が一応のものとして仮固定され——、その状態の後に改めて他の解釈が試みられる、こうした繰り返しである。解釈の仮固定は、さらなる解釈を予定してなされる。
 そして第二には、秘密を、いくらかの解釈を施すにしても、絶対に踏み込めない岩盤のようなものとして位置づける可能性がある。第一の位置づけに対して、この場合では、解釈を増殖させることが、秘密の汲み取りとして秘密に関係することにならない。そうした絶対的な秘密のあり方を認めるのである。
 こうして二種の秘密が区別される。第一には、そこをめぐって解釈が増殖する〈穴-秘密〉であり、第二には、解釈をそこで絶対的に諦めさせるものとしての〈石-秘密〉である。石-秘密に突き当たっての解釈の中断は、さらなる解釈を予定しての中断ではなく、真正の、絶対的な中断である。
 石-秘密は、いかなる解釈を施そうと無関係に、ただそこで自らに内在的に存在している、無解釈的なものである。穴-秘密は、解釈を継続させる動因であり、これを〈解釈不可能なもの the uninterpretable〉と呼ぶことにしよう。問題は、解釈不可能なもの/無解釈的なものという区別である。無解釈的なものに対しては、思考停止で対峙する——この対峙は関係形成ではなく無関係な対峙である——しかない。これを、解釈的に汲み尽くせないことと混同してはならない。
 OOOについて、オブジェクトの秘密性を解釈不可能なもの=解釈の動因(ないし超越論的な条件)という意味で捉えるのならば、OOOは、社会構築主義の継続の条件として機能するレヴィナス的な他者論を改めて強調しているだけになるだろう。人間の予想を裏切るしかたで気候変動や地震やテクノロジーなどが社会に影響を及ぼすことに注目するというのは、結局のところは、関係-解釈指向的な妥協案であるにすぎない。こうした読みでは、無解釈的なものが、社会構築主義に対して、いやもっと広く言って人文学に対して持ちうるある種の挑発性が、無難にオミットされてしまうはずである。
 むしろ、問題は次のことである。他者の秘密が社会構築主義の継続の条件としてもはや機能しないモメント、そういうモメントにおける思考停止、これを積極的に人文学によって認めることである。それは、まったく解釈できない、理由づけられない=たんに偶然的なもの、意味がないもの、つまり、解釈を本務とする限りでの人文学にできることがそこで尽き果てるモメントを、強いて、人文学のような言説で——実在論的な自然科学の側に人文学的な仕事を引き渡すのではなく——取り扱うことだ。ラリュエルの非哲学をもじって言うならば、こうして問われることになるのは、いわば〈非人文学 Non-Humanities〉であり、それと人文学との並立なのである。
(千葉雅也『意味がない無意味』より「思弁的実在論と無解釈的なもの」 p.146-150)

  • 今日づけの記事もここまで書いたのち、夜食のトーストを食ってベッドに移動。『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック山形浩生訳)の続きを読み進めて就寝。今日は 『Asobi Seksu』(Asobi Seksu)と『Ignore Grief』(Xiu Xiu)と『Civilisation』(Kero Kero Bonito)と『Wake UP!』(Hazel English)をききかえした。Hazel Englishの“Combat”と“Like A Drug”という楽曲はすごくいいなと思った。