20231210

It was dark in the hall. It had been a rule for years never to disturb father in the morning, whatever happened. And now they were going to open the door without knocking even.... Constantia’s eyes were enormous at the idea; Josephine felt weak in the knees.
“You—you go first,” she gasped, pushing Constantia.
But Constantia said, as she always had said on those occasions, “No, Jug, that’s not fair. You’re the eldest.”
Josephine was just going to say—what at other times she wouldn’t have owned to for the world—what she kept for her very last weapon, “But you’re the tallest,”(…).
(Katherine Mansfield, The Daughters of the Late Colonel)


  • 9時ごろの一度目が覚めたのだが、どうしてなのかわからないが気分がクサクサしており、このままずっと不貞寝してやるというような変な意地が寝ぼけたあたまのなかで働いていた。きのう別に嫌なことがあったわけでもない。どうしてメンタルが下降気味のときにありがちな不貞寝衝動がこの朝じぶんに取り憑いていたのかはわからないが、とにかくそういうモードで、結果として11時に活動開始するまでに何度も、何度も何度も何度も、現実とほぼ地続きの写実的な夢の数々を見た。しかしその内容はほとんどおぼえていない。学生たちがいろいろに出てきたのはたしかだ。
  • 12時をまわったところで第五食堂をおとずれて炒面を打包した。食堂はまずまず混雑していた。季節外れの20度オーバーはいよいよ終わったらしく、予報によれば今日から冬らしく冷え込むようす。それでもまだ暖房をつけるほどではない。明日は雨降りということもあってか最高気温6度まで一気に下降するようだ。
  • 食後、13時半前から16時半前まで「実弾(仮)」第五稿。シーン9をかたづけ、シーン10を通す。このあたりはそれほどむずかしくない。
  • 夜食および朝食のパンを切らしていたが、小雨が降っていたので(…)まで出張るのはめんどうくさい。第五食堂近くのパン屋でクロワッサンをふたつ買う。そのまま第五食堂で夕飯を打包。食後は仮眠をとらず、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2013年12月10日づけの記事より。

 たとえば、或る人殺しがいるとします。それは、法的・道徳的に非難されますが、同時に、それは趣味判断の対象です。映画や小説では、しばしば犯罪者やヤクザが主人公となります。人々は、日常では嫌悪するはずなのに、映画や小説では、彼らを支持し、自己同一化したりします。これは美的判断です。その根拠を、カントは「無-関心」性に求めました。それは、道徳的・知的関心を括弧に入れることです。人がこのような映画や小説を楽しむというのは、――あるいは時には、現実の事件に関してもそのような見方ができるということは、――実は、そのように文化的に訓練されたからです。
 漱石は『文学論』の中で、こういう例を挙げています。シェークスピアの『オセロ』という劇で、有名な悪役のイアーゴーという人物が出てきますが、怒った観客が俳優を射殺した事件があったそうです。その観客は、それが演劇であることをわきまえていなかった。しかし、それが芝居であることをわきまえるには、なかなかの文化的訓練がいるのです。その証拠に、今でも、テレビの俳優などを、彼らが演じた役の通りの人物だと思いこむ人たちが大勢います。犯罪者をヒーローにするのは怪しからんという人は今でもいますし、また、事実、映画や小説の真似をしたりする人もいるわけです。漱石は、さらに、裸体画を例にあげています。裸体画を、性的な関心を括弧に入れて見ることは、当初は難しかった。漱石自身もかなりショックを受けたのではないか、と思います。
 くりかえすと、カントは、美的判断を、関心を括弧に入れることにおきました。ある物が芸術であるか否かは、それについての諸関心を括弧に入れることによってのみ決められる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れてみるということ、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです。これは少しも古い考えではありません。たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのですが、それはまさにカントが提起したポイントの一つでした。それは、芸術作品は、物を「関心」を括弧に入れて見る態度において成立するということです。
 しかし、さらに重要なのは、括弧に入れるだけでなく、その括弧を外すことを知っていなければならないということです。このような括弧入れは、芸術にとどまりません。産婦人科医は、妊婦を美的に、あるいは性的に見ることを括弧に入れる訓練をつんでいます。また、外科医は、手術のあとで、血の滴るビフテキを平気で食えるほどに、美的・道徳的関心を括弧に入れるような訓練をつんでいる。そもそも、近代の科学は、物を、道徳的・美的な関心を括弧に入れて見ることにおいて成立したのです。それは自然科学だけでなく、マキャベリ政治学もそのように成立しています。それは、あることを政治的に判断するには、それを道徳的に見るのではなく、それが結果において何をもたらしたかという観点から見ることだという考え方です。あとでいうように、これは「政治的責任」という視点をもたらします。
 しかし、同じような認識が、なぜ倫理に関して行きわたっていないのでしょうか。人々は、道徳的な領域が独立してあると思っています。しかし、そんなものはない。先に述べたように、われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもちます。それらは混じり合っていて、截然と区別されません。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るわけです。そのときにのみ、認識の「対象」が存在するのです。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。それは自然になされるのではありません。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のです。たとえば、デュシャンの便器は、美術館に出されているがゆえに、人はそれをアートとして見ることを強いられるのであって、道路においてあれば、そんなことはありえない。だから、ここにも暗黙に「命令」が存在するのです。
 しかし、人はそのことになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまいがちです。倫理的領域に関しても同じです。それは、認識的な、美的な次元を括弧に入れるところにのみ成立するのです。通常、人は、人間はさまざまな原因に規定されているが、同時に自由な選択もあるのだと考えています。それに比べると、カントの考えは両極的に分かれています。彼のいうアンチテーゼは、一切の自由を認めていないし、テーゼは逆に、自由を認めている。しかも、カントはそれらが両立するというのです。この謎を解く鍵は、カントが美学に関して述べたことにあります。すなわち、括弧に入れることと括弧を外すことです。われわれは、このような態度変更を学ばなければならない。
柄谷行人『倫理21』)

  • 浪人生の(…)くんから依頼されていた作文の添削をふたつまとめて片づける。「共に生きる社会」というテーマについて書かれていたほうが、論旨もなにもない、テーマの周辺に浮遊するいかにもそれっぽい言葉だけをつぎはぎにしてこしらえたような、ちょっとどうしようもない作文だったので、ちゃんと構成を意識するようにと評に残しておいた。これは日本語能力ではなく国語能力の問題。うちの学生はこの点に問題を抱えている子がけっこう目立つ。一本大学の文系でこれなんだもんなァとときどきあたまを抱えたくなる。
  • シャワーを浴びる。以前三年生の(…)さんが買ってきてくれたものの、結局手付かずのまま冷凍庫に入っている冷食の汤圆を20個食う。日付が変わるよりもはやくベッドに移動。ひとつ書き忘れていたが、大谷翔平ドジャースという契約したという報道も日中目にしたのだった。
  • その後は『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック山形浩生訳)の続きを読み進めて就寝のつもりだったが、(…)さんから「先生、寝ましたか」というメッセージが0時半ごろ届いた。そこから2時過ぎまで延々とやりとり。「生きたくありません」「今は自分をコントロールできません」という。妹と交わしたやりとりがそのまま転送されてくる。(…)を風呂に入れるためにペットショップに連れていく予定だった。しかしその予定を忘れてしまった。しかるがゆえに別の日に妹にお願いすることにした。その後の経緯がごちゃごちゃしていてよくわからないのだが、とにかく妹は(…)をペットショップに連れていかなかった。その件で口論になり、妹からひどい言葉の数々を浴びせられたというのだった。送られてきたスクショのなかにはたしかに死ねみたいな言葉もある(とはいえ、こちらはそのニュアンスをくみとることができない)。(…)さんは以前感情が爆発したときもそうだったが、こちらの質問には答えず、ほとんど一方的にじぶんの言いたいことを連投した。じぶんは妹にいつも親切にしてきたのにどうしてこんなことを言われるのかわからないというメッセージとともに、その妹に外卖を送ってあげる約束をしたやりとりのスクショなども送られてきた。彼女が妹に親切に接してきたという事実を疑うわけではないけれども、その証拠として以前メシをおごったという件をもちだすあたり弱すぎるし、弱すぎるその証拠を証拠としてもちだす滑稽さを自覚するにいたらないほどいまは混乱しているらしいという別の角度からそのふるまいをこちらは理解したのだが、それはともかく、妹との関係はあまりよくないらしい。(…)さんが以前リストカットしたことも知っているし、なんだったらリストカットした直接のきっかけはやはり彼女だったというので、身内である分むずかしいかもしれないがなるべく距離をとれ、必要最低限しかかかわるな、こちらも兄とそういう距離感で接していた時期がある、そうしてじぶんの精神衛生を守るようにしたほうがいいという旨を書き送った。書き送りながらも、こんな論理的な解決案を彼女はもとめているわけではないだろうなと思った。だからといって情に訴えて情に揺さぶりをかけるのが、はたしていいのかどうかこちらにはわからない。
  • 「先生が何を言っても、私の今の気持ちを変えることはできません」というメッセージが割とはやい段階で届いた。こちらがなにか反応するよりもはやく、あらかじめ釘を刺しておくような言いぶりだった。「私はいつも孤独を感じます」「私は不愉快になったら、他人にはあまり言わない」という言葉が続いたが、いやいま言ってるじゃんと思った。いや、そのいまこそが例外であり、日頃は愚痴らないということなのかもしれないが、しかしそれについてはこちらの基準がたぶんおかしいのだろう。こちらは日頃友人知人になにかを相談したり訴えたりするということがほぼまったくない、馬鹿話の延長で愚痴と罵詈雑言を垂らしまくるということはあるが、本気で「相談」というものをすることがなくだいたいじぶんで考えてじぶんで決めるというのが習慣となっている。そしてその習慣は決してめずらしいものではないという認識だったのだが、(…)や(…)など他者とかかわる機会の多い仕事に就いてみて、ひとはけっこう頻繁にひとに「相談」するものなのだなという驚きをおぼえたのだった。それはどうでもいい。「家族が幸せかどうか疑問に思い始めました」「私はいつも家族に理想化された依存感を持っているようだ」と続いた。これはたぶん、家族であればじぶんを100%理解してくれるはずだという理想が崩壊したという意味であると思うのだが(そしてその崩壊は去勢を果たすには必須の認識だと思うのだが)、だからじぶんは実は元カレと別れていない、「家族は私に安心感を与えてくれないと思うからです」とさらに続いたので、いや、それじゃあ依存対象の家族が彼氏に変わっただけじゃないかと思った。話をきいてみると、どうやら元カレとは最近復縁したらしい。たぶん前回彼女がじぶんをコントロールすることができなかったときがきっかけだろう、あのときに元カレにじぶんからコンタクトをとったと(…)さんは言っていた、元カレのほうはそれ以前からよりをもどそうと彼女にアプローチをかけていたようであるし、それで復縁するにいたったのだろう。不愉快なことがあるのであれば、元カレでも家族でも友人でもいいからとにかくいったん吐き出すようにしたほうがいい、きみの悩みや悲しみや苦しみを100%理解して引き受けて共有することのできる人間はいないけれども5%ずつであれば引き受けることができるかもしれない、だからまずは思い詰めるまえにだれか他人に伝えたほうがいいというと(「実際きみはいまそうしているでしょう?」とはさすがに言わなかった)、「今は生きたいという欲望が全くない」「私の苦しみは減っていませんが、ご迷惑をおかけしました」「やはり死でこの苦しみを終わらせたい」とあったので、これはさすがにまずいなと思ってコールした。しかし出なかった。たぶん寮にいるのだろう。時刻はすでに1時をまわっていた。
  • 「心配しないでください。学校で自殺することはありません」とあった。さらに妹とのやりとりのスクショが送られてきた。それにくわえて、(…)の治療費や世話代に何万元も使ったというメッセージが届いたので、ここでいったんちょっと冷静にさせようと思い、でもその話は関係ないねとあえて受けた。実際、(…)の世話にいくらかけたという話は今回の件にほぼ関係ない。そもそも(…)は(…)さんが飼おうと言い出した犬であるのだが、その世話は故郷の家族にゆだねているのが実際であるわけで、この点についてはこちらは前々からちょっと責任感がないというか、いやものすごく大切にあつかっているから責任感はあるのだろうが、じぶんの(…)に対する思い入れを家族全員にも押しつけているところがひょっとしたらあるんじゃないかという気がしていたのだ。犬の世話というのは実際大変なのだ。ボーダーコリーとなればなおさらそうだ。だからといってそんなことをこの状況で当然彼女に言うわけにはいかないし言うはずもないのだが、妹の暴言に傷ついたというのが悲嘆の核としてあったはずなのにその悲嘆に(…)の世話にかかる出費がさらっとまぜこまれた、ここはちょっとおかしいんじゃないかと思ったし、本人もそう告げたそばから「これらは重要ではないようです」と撤回していたのでそこにのっかるかたちでこちらもそれは今回の件には関係ないねと応じた、そうすることで悲嘆が奔流みたいにドバドバ垂れ流されていたところに一種滑稽な切れ目を設けようとしてみたのだ。
  • 悲嘆の対象は元カレから彼氏にもどった男にむけられた。やりとりのスクショがまた送られてきた。じぶんは明日死ぬつもりだ、死ぬまえにあなたに会いたい、あなたの顔を見たいと訴える(…)さんに対して、彼氏のほうは明日は朝から晩まで授業がある、だから時間がないと返していた。やりとりは簡単だったのでこちらでもニュアンスをくむことができたが、彼氏のほうは、こういう言い方をあえてするが、メンヘラの彼女を相手するのがめんどうくさくてうっとうしいという感じだった。「私は元カレに明日彼の最後の顔に会いたいと言いました。 でも彼は忙しくて私に会う時間がないと言いました」「これは愛だと思いますか」「彼が私の死を気にしないなら、彼は本当に私を愛していますか」などと続いた。「明日このすべてを終わらせます」という物騒な発言もあったが(こちらが物騒な発言と受け取っただけで、これはもしかしたら彼氏との関係を終わらせるという意味だったのかもしれない、しかし言語の壁があるせいでニュアンスがつかめない)、とりあえず彼氏に会いたがっているのはわかったし、明日死ぬとかそういうのはいったんなしにして、明日あらためて彼氏に連絡をとってみればいいのではないか、休み時間に電話するだけでもいい、まずはそうしてみればどうかといった。(…)さんはだれもじぶんに関心をもっていないのだといった。彼氏はじぶんより授業を優先する、父親は手首を切ったじぶんを病院まで迎えにきたあとじぶんをののしったと続けたのち、「彼らは私が死んだら、彼らはとても悲しいと言いました」「しかし、彼らが私に関心を持っているとは感じられません」とあった。他人に100%をもとめてはいけないと思った。だからしんどくなる。100%をもとめるということは結局子どもなのだ、去勢がうまく果たされていないのだ、だからいちいち過度な幻滅が生じてダメージを負うことになる、そうではなくそのような過度な幻滅が生じるそもそもの前提である幻想を認識するべきなのだと思ったが、もちろんそんなことを言っても通じるとは思えない(これは言語の壁の問題ではない、当事者と非当事者の壁だ)。
  • やりとりはいったんそこで終わった。こちらとしてはやりとりした中身よりも長時間にわたってやりとりしたという事実というか、そのやりとりのなかでいろいろな方面から言葉を投げかけてみて彼女のなかの一本化した感情に乱れやもつれをもたらすという戦法しかとれないわけだが、それが正しかったのかどうかわからない。(…)先生に報告して大学のほうに動いてもらったほうがいいのかもしれないとも思ったが、それは(…)さんが望むことでは絶対にない。あるいはもっとやりとりをひきのばすべきだったか? 女子寮の前にまで駆けつけるべきだったか? でもそれをすれば、結局、彼女がこちらに100%をもとめるようになるだけなのでは? そしてその変化は彼女のみならずこちらも苦しめることになるだけでは? むしろこちらのやるべきことは彼女に適度な幻滅を小出しにしてあたえることでは? つまり、辛いときに話に耳をかたむける人間としてふるまう、しかしいつでもどれだけでもという無制限を前提にはしない。相手の感情には寄り添う、しかしそのすべてを肯定するわけではない。あなたのそばには他者がいる、しかしその他者とは「(母子未分化状態にある)母」ではない他者なのだ。だから仮に100%をもとめるのだとすれば、それは複数の他者に分割した100%にしたほうがいい(分割された時点でそれは元の意味での100%ではないが、そういう数学的錯覚を認識に組み込むことでやり過ごすことのできるものもおそらくはあるはず)。
  • (…)さん自身にも問題点があるとすれば、やっぱりあの依存体質だよなと思った。彼女は「身近なひと」「信頼できるひと」と認定した相手には常に100%を求める。それで苦しんでいるところがやはり少なからずある。ひとが他人に寄せることのできる「関心」には限りがある。当たり前だ。身近な他者にいちいち100%の「関心」を寄せてひとは生きることなどできない(「無関心」は生きるのに必須の能力だ)。(…)さんは彼氏とは24時間ずっといっしょにいたいと以前言っていた。さらに親友の(…)さんについて、彼女が高校時代の友人と最近仲良くやっていることも気にいらないと言っていた。またこちらと学生との関係についても、だれがどの程度の頻度でこちらと接触しているかを知りたがり、プライベートな話をこちらがするたびにその話を知っている学生はほかにいるかと知りたがった。これらすべて根っこは同じなのだ。妹の暴言はひどいものだったのかもしれない(この点について、こちらは日頃の姉妹の関係を知らないし、言語の壁もあるせいで、うまく判断することができない)。ただ、思春期(高校生)の妹が荒れた言葉で姉を攻撃することなんて決してめずらしいことではないだろうし、「死ね」という言葉もある意味でありふれた罵詈雑言でしかないともいえる、それを彼女が家族とは妹とはこうあるものだろうという過度な理想(依存)のもとに受け止めて、その言葉を普通以上に意味づけして普通以上に傷ついている可能性も決してゼロではないと思う。
  • もちろん、暴言を口にした妹が悪い。姉が一度リストカットした事実を知っていてなおその姉に死ねと口にする点であたまがおかしいんじゃないかとすら思う(しかし同時に、こちらは妹の言い分を知らないし、日頃(…)さんが妹にどういうふうに接しているのかも知らない)。死にたいというメッセージが恋人から届いたのにもかかわらず、明日は授業があるから忙しいと開口一番返す彼氏もやはりあたまがおかしいんじゃないかと思う(と同時に、もしかしたら彼氏はこのようなメッセージを彼女からこれまで何度も何度も何度も受けとっており、うんざりしているという履歴があったりするんではないだろうかという推測もこちらのあたまをよぎる)。じぶんには判断できないことが多すぎる。言語の壁も巨大だ。だからできることといえば、強力に方向づけられた彼女の気を適度に散らすだけだということになる(というふうに考えでもしないと、こちらももっていかれてしまう)。冷たくみえるかもしれない。もっとがむしゃらに寄り添うべきなのかもしれない。しかしこれはこれで、(…)さんや(…)さんを相手にしてきた経験と反省から練られた距離感であるのだ。わたしはわたしの100%をあなたに捧げることができない。
  • 今日は『Tree of Life』(高田みどり)、『Music For Nine Post Cards』(吉村弘)、『The End of Legal Fiction" Live at Jz Brat』(濱瀬元彦 E.L.F Ensemble & 菊地成孔)、『樹木の音階 #NOTES OF FORESTRY』(濱瀬元彦)、『Reminiscence』(濱瀬元彦)、『Intaglio』(濱瀬元彦)をききかえした。濱瀬元彦の『Reminiscence』と『Intaglio』の二枚のミニマル感はやっぱりすばらしい。