20231213

 人間は、何のために生きるのかという意味や目的を生得的にもつわけではない。他の動物のように種を増やすなどの本能だけに閉じているわけでもない。ゆえに、その存在が規範や倫理、制度などで社会的に規定されなくなれば、それは一人一人の哲学的問題(存在論的問題)になるだろう。
 ヴィルノはこれを、フレキシビリティによって、「人間存在が、あからさまに規定された環境世界をもたない存在として生きなければならない」「人間が種別化された本能を欠く——非種別化という条件に現在、晒される」社会になったと述べる。
 人間は、可塑性の高い生き物である。例えば、生まれつき言語をもつのではなく、学習によって習得する。「種別化された本能を欠く——非種別化」とは、人間がそもそも生きる形を定型として与えられていないことを示す。
 スティグレールの項で「動物化」に触れた。が、人間は、厳密にいえば、本能についても非定型的である。それゆえ、どこまでも食べ続けたりセックスし続けたりするなど、コントロールが利かない。
 この意味で、人間を動物として考える議論も、人間を合理的・利己的な観点から考える議論も、一つの文化的範型でしかないものを「本質主義的」に捉える(人間とはもともとそういうものだと考える)過ちを犯している(これに対し精神分析理論は、「反復強迫」という現象——人間は快楽を求める動物的回路に閉じておらず、苦痛や外傷をわざわざくり返し求めたりする——に着目し、人間を非定型性の観点から捉えている)。
 ヴィルノは、さらに資本主義が生政治的なものとなる(生活のあらゆる領域に浸透する)とき——健康になるためや美しくなるため、あるいは幸福になるための商品などを提供するようになるとき——「ハビトゥスブルデューの概念で、無意識的な慣習化された行為)」は、「ハビトゥスをもたないハビトゥス」や「便宜主義的なもの」になると指摘する。
 もともと非定型的である人間にとって、良心も愛情も一つのハビトゥスでしかない。
 社会が良心や愛情のあり方を形成していたとき、ハビトゥスは、安定的に人々に内面化されていた。だが、資本主義は、商品を売るためにハビトゥスを恣意的につくり、操作し始める。どんどん商品を売るために、人間をより操作しやすくしようと、何かに固執させないようにする。
 操作可能で、すぐに変更可能なハビトゥスにする、ということは、もっといえば「ハビトゥスをもたないハビトゥス」にするのである。
 例えば、環境についてしっかりした考え方をもっていれば、「環境商品」なるものの中身や意味をチェックすることができるが、そんなものは邪魔だと、資本は考える。
 環境についての規範や価値観と環境商品をセットで消費させ、次々に別の規範や価値観と商品のセットに移らせていく「便宜主義的なハビトゥス」の方が、物を売るには都合がいいのである。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「はじめに」 p.20-22)


  • 二度寝どころの話ではない、四度寝、五度寝、六度寝と重ねた。11時になったところでようやく寝床を抜けだした。モーメンツをのぞくと、少数の学生と(…)先生が南京事件を追悼する恒例の画像とスローガンを投稿していた。それで、ああ今日だったか、と思った。
  • 朝食兼昼食はトースト。今日は最高気温が10度を下回っており、ひさびさに暖房をほぼつけっぱなしにして過ごすことになった。これまでがあたたかすぎたのだ。今年の暖冬っぷりは実際以上だった。12月に20度をオーバーする日があるとは思ってもみなかった。
  • 12時半から16時まで作文。「実弾(仮)」第五稿。シーン10は無事片付いた。シーン11もあたまから尻まで通した。修正すべきポイントはまだいくらかあるが、ここはさほどむずかしくない。
  • ケッタにのって老校区の快递へ。東院二年生の(…)さんから送られてきたオレンジを回収。まずまずデカい段ボール一箱分。片手に吊りさげてケッタを運転するにはちょっと重すぎる。荷物を持つ手を左右入れ換えながらどうにか帰宅。なかにはオレンジが50個くらい入っていた。いや、これどう考えてもひとりでは食いきれんやろ。明日の授業、となりの教室には(…)先生がいるはずだし、下の階の教室には(…)先生がいるはずだし、ふたりにお裾分けするかな。
  • 夕飯は第五食堂。食後は仮眠をとらずに明日の授業でちょっと使う資料を作成。全三回で終わらせるつもりだった「(…)」がおもいのほかのびてしまい、全五回になりそうないきおいであるので、だったらもう「期末テスト(テーマトーク)」はなしにして「(…)」だけで成績をつけてもいいかなと思うのだが、しかし事前に成績は「(…)」+「期末テスト(テーマトーク)」と通知してあるわけだからそれを撤回するとなるとやはり不公平になるかもしれない、であるから成績は両者ともに100点満点で採点する「(…)」もしくは「期末テスト(テーマトーク)」のうち、高いほうの点数を採用するという形式をとることにしたうえで、「(…)」の出来栄えに自信がないという学生のみ自己申告で「期末テスト(テーマトーク)」を受けることができるというシステムにしようかなと考えたので、そのあたりのことをスライドにまとめたかたち(スライドなどと格好をつけていっているが、こちらはPPTなどめんどうくさくてまったく使わない、ただPagesでこしらえたスライド風のPDFを表示するだけである)。
  • シャワーを浴びる。コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2022年12月13日づけの記事より。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)について。「あと、第3章の「「無意識における文字の審級」を読む」の原注に、ラカンが自作(?)の難解さについて言及している以下のような記述が紹介されていたのだが、これってまさに自分が日頃から考えていた芸術のありかた、たたずまい、態度や物腰そのものだなと思った」との記述に続けて以下の引用。

 ラカンはしばしば、彼がそのような難しさをどれだけ重要と考えているか述べている。たとえば、セミネール第18巻における『エクリ』についての見解を見られたい。「多くのひとたちが躊躇うことなく私に「何ひとつとして分からない」と言っていた。それだけでもたいしたものだと気づいてほしい。何も理解できないものが希望を可能にする。それはあなたがその理解できないものに触発されているしるしなのだ。だからあなたが何も理解できなかったのは良いことである。なぜならあなたは、自分の頭のなかにすでに確かにあったこと以外、決して何も理解できないからだ」(March 17, 1971〔105〕)。

 ラカンはおそらく、読者に、ストア派の哲学者クリュシッポスが示したような態度で振る舞って欲しいのだ。彼は個人教師に「私にいくつか教義を与えてください、そうすれば私はそれらを支える論証を見つけましょう」と言ったのである。ラカンセミネール第11巻の後記(英訳には収録されていない)で言っていることを考えてみよう。「あなたはこの書きもの[stécriture]を理解しない。そうであるなら、より結構なことだ。あなたは、それを説明する理由を与えられたことになるのだから」(253〔『四基本概念』379頁〕)。

 セミネール第19巻で彼はこう述べている。「私は、あなた方が自分の仕事に取り組むために、[私が言うことの]意味があまり簡単に分からないようにしている」(January 6, 1972 〔Je Parle aux murs, 92〕)。

  • 以下は2013年12月13日づけの記事より。

 ここで、重要なことは、第一に、カント的な「義務」に従うとき、多くの場合、不幸に陥るということです。カントは、宗教的な主張(神や霊魂やあの世)といったものを理論的に証明することを形而上学として論駁しました。また、現実に存在する宗教を、迷信や蒙昧として否定しました。しかし、倫理的(実践的)にのみ、それが要請されざるをえないことを認めたのです。もしこの世がすべてで、死ねば終わりであるならば、ひとは倫理的であるよりは、現実の幸福を志向するでしょう。だから、死後の生命や審判があるという信仰は、倫理性を励ますものです。カントは、倫理的であるかぎりにおいて、宗教を認めるのです。宗教はこの世で善人であるならば、あの世で救われる、というようなことではない。「自由であれ」という至上命令に従うために、そのような信仰が必要だというのです。実際、あの世を信じない人も、死後に自分がどう評価されるかを気にかけているならば、或る意味で、死後の生を信じていることになるわけです。
柄谷行人『倫理21』)

  • 日語会話(一)第9課のアクティビティだけ作りなおす。その後、ひさしぶりに懸垂してプロテインを飲む。
  • Suno AIがバズっていた。楽曲の自動生成サービス。X(Twitter)にあがっているのをざっときいてみただけだが、プロンプト次第ではいろいろできるんやろなという感じ。作曲のお供に使う人間も絶対増える。
  • 予想はしていたけれども、この手のサービスではやっぱり小説の生成がいちばんむずかしいのだろう。いや、画像や音楽に比べて単純に需要がないだけなのかもしれないし、起承転結のはっきりしている物語であったりショートショート的なものであれば現時点でも容易に生成可能なんだろうが、たとえば純文学の長編なんかはプロンプトをあれこれ工夫してもまだむずかしいんではないか。ただそうした状況も、ネット上のテキストデータのみならずスキャンした書籍のデータを集中的に食わせたAIが登場すればひっくりかえるのかもしれない。あと、ヌーヴォーロマンみたいなコンセプチュアルな作品は、クラシックなよそおいを有している作品よりも逆に生成しやすいだろうなという気もする。チェーホフマンスフィールドみたいなラインのほうがおそらくむずかしい。意味は扱えるだろうが、機微はどうか。
  • 今日は『In Yer Third Ear 01』と『Folk Remedy Anthem』(Chari Chari)と『Wʌndərlænd』(花伦)をききかえした。