20231221

 「マクドナルド化」の理論を提唱したリッツアは、最近では、脱領域化の完成としての「非実体化/無化」について論じている(邦訳『無のグローバル化——拡大する消費社会と「存在」の喪失』〈明石書店〉)。
「脱領域化」とは、先にギデンズの議論で示した「脱埋め込み化」のことで、ここでしか作れない、あの人にしかできない、といったことがなくなっていくことである。フランスの本場のワインに負けない味が人工的に作られたり、トヨタ自動車の工場が全世界に進出するようなことである。
 登場したときからローカリティをもたず、世界戦略的であったマクドナルドやディズニーランドは、世界に広がっていく過程で、これまでは多少の「グローカル化」を引き起こしていた。フランスのディズニーランドには動物がうようよいるし、日本のハンバーガー店には「てりやきバーガー」がある。このように、ローカルをむしろ再構成する契機となり、ローカルとの結合の中で、固有性生み出す場合もあった。
 しかしグローカル化の源泉となる地域のローカリティそのものが解体していけば、グローバル化の中での均質なものの拡大は、リッツアのいう「非実体化」を帰結する。これは、もうグローカル化が起こらない状態である。
「非実体化」とは、固有性を消失することであり、スティグレールのいう「個体化の衰退—消失」のことである。
 もちろん、安く手早く食べられ、ある人にとってはおいしいかもしれないハンバーガーが、便利で必要なこともある。東が指摘するように、「動物化」はユニバーサルデザインである。障害のある人、言葉の発せない人、お金のない人、時間のない人にも「優しい」かもしれない。広がるには広がるだけの理由がある。ハンバーガーの食事は、主婦を労働から解放する可能性をもつかもしれない。だが、それを使いこなすのではなく、どっぷり浸かってしまえば、便利さの陰で、生きる固有性そのものが奪われてしまう。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.96-98)


  • 6時半前起床。たぶんとなりの部屋の留学生だと思うのだが、早朝からかなりデカい声で“Stand By Me”を歌う声がきこえてきた。足音や椅子をひきずる物音やババアの神経にさわる大声が遅効性の拷問のようにこちらのむしばむ上の部屋とちがって、となりの部屋とは壁がじかに接しているわけではないからだろうか、ふだん生活音が聞こえてくることはまずないし、熱唱する歌声ですらかなり遠くくぐもっている。これくらいなら良しとしたい。
  • 8時から二年生の日語会話(三)。今日が最後の授業。(…)くんの「(…)」だけ確認して採点したのち、「クリスマスビンゴ」と銘打ったビンゴゲーム。景品の説明をしたのち開始。1ゲーム目は果物の名前(こちらが思いつくままに名前をあげる)。2ゲーム目は都道府県の名前(ルーレットで決める)。「大当たり」と「(良いほうの)特別賞」はそろって(…)さんがゲット(こちらはだれがどの景品をゲットしたかメモしていなかったので全然おぼえていなかったのだが、授業後に(…)さんがわざわざ全文日本語でこちらに対する感謝の文章をモーメンツに投稿していたので、それで、あ、彼女がふたつともかっさらったのか! とおどろいたのだった)。もういっぽうの「特別賞」、オレンジ+ピンク色のうんこ+こちらの変顔写真をA4サイズで白黒印刷したもの(事前の景品説明で「(…)先生のファンにとってはお宝かもしれませんが、それ以外の人にとってはただのゴミです」と紹介した)は(…)さんに渡ったが、彼女もわざわざその景品画像をモーメンツにあげたうえで、「先生の熱烈なファンです」とちょげたメッセージを投稿していた。ビンゴが終わったあと、ぼくは来月日本に帰国します、そのまま中国にもどってきません、たぶんあたらしい外教が来ますと、学期終わりによく口にする冗談を今日もまた口にしたのだが、「また嘘!」とか「バカ!」とか「信じません!」とか「もうもどってこなくていいです!」とかそういう反応を期待しての軽口だったのに、こちらの軽薄な口ぶりにもかかわらずけっこう深刻に教室の空気がはりつめてしまい、あ、やばいやばい! となった。それですぐに「嘘」と板書したところ、めちゃくちゃ叱られた。
  • あまった時間については、きのうグループチャットで通知しておいたとおり自習という名の自由時間とした。たぶん30分ほどあったと思う。基礎日本語の勉強をする学生もいるし、居眠りする学生もいるし、スマホをいじる学生もいる。こちらはときどき目についた学生らと雑談したり、教壇になぜか置いてあったゲーテの『ファウスト』中国語訳をぺらぺらめくったりした。中国語は字面である程度意味が判断できるので、おおざっぱな内容を掴むだけであれば英語よりもずっと易しいかもと思った。それから(…)さんのようすがちょっと気にかかった。ふだんそんなことはないのだが、今日はずっとうかない表情を浮かべており、ときおり目尻をぬぐっているようにもみえた。失恋でもしたのかもしれない。彼女は彼女でちょっと鬱っ気がありそうなので心配。
  • 授業後、(…)さんと(…)さんと(…)さんの三人娘——ここ最近毎週のように1分2分単位の遅刻をする!——が教壇にやってきた。たぶんクリスマスの誘いだなと予想してむかえたところ、案の定、24日は空いているかという。24日は外教のパーティがあるから空いていない、25日であればだいじょうぶだと応じると、じゃあ25日にコナンの映画をいっしょに観に行きましょうという。もう観たと応じる。結果、25日の午前中に映画を観るという三人と夕方から合流することに。こちらはどのみち夕方まで授業があるのでちょうどいい。
  • 教壇には(…)くんもやってきた。彼がやってくると当然三人娘はこちらと距離を置きはじめるわけで、もうすこし計画を詰めておきたかったのにと歯噛みせざるをえないわけだが、しょうがない。そして(…)くんは例によって政治や歴史の話をはじめる。前回周囲にたくさん人間がいる状況でセンシティヴな話題を堂々と放りこんでくるなと叱ったこともあってか、今回は小さな声でとみずから断ってみせる程度には配慮できるようになっていたが、それでも顔をあわせるたびにそんな話ばかりするのもいい加減めんどうくさい。今回は南京事件の犠牲者数は何人だったかという質問。そんなものは研究者によってばらつきがあるのでなんともいえないと応じるしかない。中国の公式発表は30万人ですというので、関連書籍を何冊か読んだことあるけれども少なく見積もった場合と多く見積もった場合とで数字にかなり開きがある、むかしは日中および第三国の研究者らが共同で調査することもあったようだが、最近の情勢ではそれもなかなかむずかしいようだと答える。
  • 駐輪場付近で一年生2班の男子学生たちから声をかけられる。(…)先生の基礎日本語の授業を受けた帰路だ。次の授業にむかう(…)くんと別れる。ケッタにのってセブンイレブンに向かう道中、先の一年生男子らとまた遭遇する。(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くんの四人。一年生男子のなかではいちばん気が合うというか、今後よい関係を築くことのできる予感がはっきりしているメンツだ((…)くんは「転籍」希望者だが!)。四人はこれから体育館にいくという。授業? とたずねると、打卡! という返事。詳細はしれないが、体育の課題かなにかをちゃんとこなしましたという証明をゲットするためだけに体育館にいくっぽい。
  • セブンイレブンで弁当と焼き鳥と細巻きとおにぎりを買う。帰宅して焼き鳥を食し、きのうづけの記事の続きを書き、レンジでチンした弁当を食う。食後は一時間ほど昼寝。
  • 14時半から一年生2班の日語会話(一)。第10課&第11課。最後の授業。これで残すところは一年生の期末試験のみとなった。授業もうまくいった。この教案は先学期も手応えありだった記憶がある。アクティビティのお絵描きがいいのだ。今学期のはじめごろにくらべると、学生らもこちらの日本語をだいぶ聞き取れるようになっている。だから冗談もだんだんと通じるようになりつつある。今日は(…)のトイレの話をした。うんこをするためにまたいだ溝から他人のうんこが水で流されてくる話をするとだいたいみんなゲラゲラ笑う。今日は軍事訓練分の補講なのでいつもと違う教室で授業だったのだが(いつも1班の授業で使用しているB101だった)、(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くんの四人組が最前列に着席していろいろ積極的に発言してくれたおかげで、特にやりやすかった。(…)くん以外の三人は高校一年生から日本語を勉強している。(…)くんもこのまま日本語学科に残ってくれたら、ほかの三人に引っ張りあげられるかたちで、めきめきと力をつけていくように思われるのだが!
  • 午前中の授業の際に教卓のパソコンにUSBメモリをさしこんだままにしてきたようだったので、授業後そちらの教室に移動してブツを回収。それからいつものように新校区の湖のそばにある広場に移動し、ひなたぼっこしながら書見することにしたのだが、アホみたいに寒かったので15分ほどでギブアップ。広場では女子学生がひとり歌をうたっており、撮影係らしい学生らが複数人スマホをかまえていた。時期的にたぶん、新年向けか春節向けのPR動画みたいなのを撮影しているのではないか。女子学生はとても歌がうまかった。もしかしたら芸術学院の学生かもしれない。サビの歌詞に北京なんちゃら〜♪とあったので、たぶん愛国系の歌だろう。
  • 帰宅。道中、めずらしく自転車にのった(…)とすれちがった。自室でいったん体温回復をはかったのち、第五食堂で打包。食後はきのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事の読み返し。以下、2022年12月21日の記事。当時の一年生(現二年生)の期末試験をオンラインで実施しているのだが、評価が非常に低く、「これは今後厄介なクラスになるかもしれん」とまで書きつけている。これには驚いた。一年後の現在の印象としては、歴代最高クラスであるのだが!(逆にいえば、現時点でかなりやばいとこちらが考えている一年生1班の学生も、一年後には高く評価するようになっているかもしれない——というのはいくらなんでも希望的観測の度合いがすぎるか?)

一年生の授業を前期から担当するのは今年がはじめてであるし、比較対象がないのであまり勝手なことをいうのもアレなんだが、このクラスちょっとやばいかもなという懸念はけっこうおぼえる。暗記さえすればどうにでもなるタイプのテストなのに、こんなにもできないのかという学生がちょっと多すぎる。そもそものやる気がない学生は別にもうアレだからいいんだが、中盤の層が正直めちゃくちゃ薄い。これは今後厄介なクラスになるかもしれん。杞憂で終わることを願う。

  • 以下は2013年12月21日の記事より。

今年の夏にくりかえし聴いた音楽はすべてこの夏の感傷に染めぬかれている。夏にたいする盲目的なあこがれらしきものがコートを羽織りマフラーを身につけ手袋を装着したこの冬の雨の現実をつきやぶってあこがれの開始点を力ずくでたぐりよせようとするのにすべて許せば、ほんの一瞬、記憶が解像度を増してありありと身近にせまる瞬間というのがおそろしくもたしかにおとずれ、砂漠のような身体でそのひとしずくを受けとめるたびにちいさくひろがる波紋、この波紋につれてささやかにひろがるしずかな動揺だけが、美しくひりひりした傷口のありかをしらせる。トラウマは切り傷であり、記憶はすり傷であり、そしてあらゆる傷口はいずれ必ず想起の炎であぶられて火傷と化す。水に流してしまえ。

  • シャワーを浴びる。ストレッチをする。モーメンツをのぞくと、卒業生の(…)さんが長沙で開催されたShe Her Her Hersのライブ動画を投稿していた。ちょうど“Bloody Mary Girl”を演奏しているところだった。“Bloody Mary Girl”はやっぱりどうしても(…)さんの記憶にむすびついている。Keira Knightleyの“Lost Stars”は(…)さんの記憶にむすびついているし、福禄寿の“我用什么把你留住”や“超度我”はこれから先、(…)さんとますますかたくむすびつけられていくのだろうと思う。特定の楽曲が特定の個人とわかちがたくむすびついてしまいほとんどその個人の象徴と化してしまうという稀なケースをこの三曲はたどった(たどりつつある)わけだが、しかしここで名前を挙げた三人が全員精神を病んだ若い女性であるというのはどういうことなんだろうか。これも享楽なのか? 辺境に住まい遅刻者と調停者を自認するじぶんの?
  • 20時過ぎから23時まで「実弾(仮)」第五稿執筆。シーン12をまたあたまからケツまで通す。途中で麻痺った。ダメだ。でもダメなりに手を動かさないといつまでたっても突破できない。10年前の日記には「A」の推敲に泥臭く取り組んでいるじぶんの姿がしつこいくらい記録されている。宮崎駿だって脳の蓋を開いて絵コンテの難所を突破するために泥臭く泥臭く手を動かし続けていた。それしかないのだ。
  • 気づけばずいぶん長いあいだ腹筋をしていない。そのせいで椅子に長時間座っていると腰痛を感じるようになってきたので、今日からまた腹筋と懸垂を一日ずつ交代に行うというルーティーンをあらためて意識することにする。筋トレ、気を抜けばすぐにサボってしまうというか習慣が途絶えてしまう。それでもここ一年か二年で、以前はゆとりのあった服がパツパツになる程度には体つきが変わったと思う。夜食はおにぎりと細巻き。今日づけの記事も途中まで書いたところでベッドに移動して就寝。
  • 昨日と今日の二日間で、『Last Year』(Ajmw)と『Sensational』(Erika de Casier)と『テレビ』(山二つ)と『Music, Martinis and Misanthropy』(Boyd Rice)と『Stahlwerksynfonie』(Die Krupps)と『SOS』(SZA)と『Wanne 4』(Markus Oehlen)をききかえした。