20231223

 自我は、それ自身、離散的様相しかもたない現実に対し、フィクショナルな統合を行い、他者を通じて未来への投射を可能にする審級である。自我はこのように未来に対する期待をはらんだ想像的なものである。ナルシシズムの存在に見られるように、自己についての意識とは、自分にとって望ましい、そうありたいイメージである。
 新しい仕事に対してイマジナリーに支えられ、自信や気力満々で向かえば、怖いものなしでともかく失敗にくじけずやりきれる。また失敗したときも自分を慰め励まし、気力を充実させることができる。
 一方、それだけでは現実との呼応がなくなるので、そのような審級でありながら、現実処理を可能にしていくものである。
 このとき現実からのリアクションを受け入れないのであれば、現実と離反した妄想に走っていくことになる。が、現実からのリアクションによる反省を取り入れられれば、現実的対応を生み出していく。つまりフィクションとしての自我は、現実のリアクションを反省的に取り入れ可能なものにする機能を持つ。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.107-108)


  • 10時ごろ起床。最近目が覚めたあともなかなか布団から抜け出せない。寒すぎるのだ。というよりも布団のなかが気持ち良すぎるのだ。そう、冬場の起き抜けになかなか布団から抜け出すことができないのは、布団の外が不快だからではなく、布団の内側が快適すぎるからだ。そういってみたほうがしっくりくる。
  • 朝昼兼用でトースト二枚を食す。阳台に移動し、食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事にとりかかる。途中で一年生1班の(…)さんから微信。元旦に予定されていた期末試験について、日程が日程なのでクラスメイトと相談して別の日に変更してもよいとあらかじめ伝えてあったのだが、4日の午後4時からでもいいだろうかとあったので、問題なしと返信。(…)からは明日15時に寮の門前で集合にしないかというメッセージ。大学側からのクリスマスプレゼントがあるのでまずそれを渡す、外教らはそのプレゼントをいったん部屋に置きにもどる、その後みんなであらためてactivityの現場に向かいましょうという流れ。
  • あと、(…)というアカウントから微信の友達申請があったので、もしかしたらまだ連絡先を登録していない新入生かもしれないと思って受けたのだが、別にやりとりがはじまるわけでもないまま夜になった。だれやねん。
  • きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事の読み返し。以下、2022年12月23日づけの記事より。当時二年生の会話テストをオンラインで実施しているのだが、このレベルから一年、(…)さんは本当に成長したなァと思う。

テストの出来がよかったのは(…)さん。10問中10問正解であり、かつ、超高速。その次に好成績だったのは、驚いたことに(…)さんで、10問中8問正解。どうやらみっちり対策してきた様子。もちろん褒めまくっておく。彼女はまだ感染していないらしい。「クラスメイト半分感染ですよ」とリアルタイムテロップで伝えると、はい先生! クリスマスおめでとうございます! みたいな返事があって、椅子から転げ落ちそうになる。クラスメイトとクリスマス——まあ、たしかに字面は似とるけどやな!

  • 以下は2013年12月23日づけの記事より。このできごと、『S&T』に収録したような記憶があるのだが、どうだったろう。

仕事を終えて帰路、交差点に突っ立っていた婦人警官に自転車を止められた。条例が変わって自転車運転中のイヤホンの装着は禁止されたんですよといういつもどおりの説明があり、誓約書のごときものにまた名前を書くことになった。月にいちどくらいはつかまっている気がする。あれ?この自転車のライトは?というので、充電が切れてしもとるんですと応じた。住所と名前を書類に記入していると、それピアスですか?すっごい大きいですね!と唐突にいわれたので、はあと返事すると、わたしもピアス開けたいんですけど職業柄なかなかできなくてといい、そこではじめて顔をあげて相手の顔を真正面から正視したのだけれど、マフラーで顔の半分くらいが隠れていたもののはっきりと若くて、おそらくは二十代前半だと思うのだけれどととのった顔立ちのかわいらしい女性で、場慣れしていないであろうことのわかる目の泳ぎ方がじっとのぞきこめばあらわになるようなところがあり、それゆえの気さくさと軽口かと合点がいった。話を受けて、ピアスとかいまだにそういうのダメなんすかと問うてみれば、はい、やっぱり印象があんまり良くないみたいで、という返事があり、なかなかお堅い職場ですねと、口にしたとたんにそんな意図など毛頭なかったにもかかわらずなにやら皮肉っぽい棘のある言い方になってしまったことにとりかえしのつかないものを覚えたのだけれど、そうなんですお堅いんですと相手は単純な抑揚で受けてみせた。それから横断歩道をわたってその場を去ったのだけれど、以降なにやら嫌な感じをふところに抱えこんだままの帰路となってしまった。違反者は違反者として毅然としてかつ事務的にとりしまればいいだけの話だと思うのだけれど、女性という弱い立場にあるからなのかそれとも条例にたいする市民感情を考慮してからなのかあのような媚態を装うことを余儀なくされる彼女のありようにまず暗い気持ちになったし、というかより精確にいうならばその媚態の不完全さに暗澹たるものを覚えたというべきで、訓練の末に習熟の域にいたった媚態などではまったくなく、いままさに必要にせまられてはじめてその行使を余儀なくされたばかりだといわんばかりのさじ加減のあやしさが彼女の口ぶりや物腰にはあって、それは端的にいえば気をまわしすぎて空転しているさまと形容できるのだけれどそのような空転のへりくだりにははっきりとこちらを苛立たせるようなところがあってむろんこのときも例外ではなく、がしかし、そのような空転を前景化せしめる主因としてこちらの口ぶりや物腰につきまとうある種の威圧感や圧迫感があったのではないかという疑いが呼びよせる自己嫌悪のごときものがまたあり、本心では望んでいないふるまいをとらされてまもない彼女の初々しい傷口のようなものとそのようなふるまいをとらせたかもしれぬおのれのふるまいの疑義が結びついて胸くそが悪くなるというか、あの女性が帰宅してからどうしてわたしはあれほどわかりやすく安っぽい媚びへつらいをとってしまうんだろうと馴化されていないもの特有の違和感とともに気を悪くするほんの一寸先の未来が目に見えるようであってそれがすごく嫌だ。いたたまれなくなる。彼女の安っぽい媚びへつらいは不快であるが、その安っぽい媚びへつらいにたいする不快感を彼女自身が抱いている(あるいは抱くであろう)こともまた疑いなく、その疑いなさが反射板となってそのような安っぽい媚びへつらいの装いを彼女に要請したこちら自身のふるまいにたいする自己嫌悪として結実する。このようなコミュニケーションがありうるのだろうかと思った。ほんのひとことふたこと交わしただけで当事者全員が例外なくいやな気持ちになってしまうこのようなコミュニケーションが。

  • 夕飯の時間までまだ少しあったので『闇の精神史』(木澤佐登志)の続きを読む。17時になったところで部屋を出る。食堂そばのパン屋で夜食のクロワッサンなど買う。そのまま第五食堂で打包。階段をおりてくる(…)先生とすれちがう。食事中、三年生の(…)さんから微信。汤圆の写真。たくさん買ってしまったので余っています、食べたくはないですかと続くも、冷食のブツをほかでもない彼女から以前もらったばかり。冷凍庫のなかにまだたくさん残っていると伝える。きのう食事を断ったら今日はこれだ。なんとなくだが、明日や明後日も誘いが続くのではないかという気がする(しかし明日も明後日もすでに先約が入っている!)。
  • 食後の仮眠、あやまって一時間ほどとってしまう。シャワーを浴びる。浴室の天井にはハロゲンヒーターがついているのだが、スイッチをオンにしてもわずかな時間しか作動しない。それでもないよりはマシだが、ほこりがたまっているのだろうか、作動すると焦げ臭いにおいが浴室にうっすらと漂うし、今日は特にそれがひどかった。シャワーの湯はあいかわらず全然出ない。チェンマーイのゲストハウス並みにショボい。これはたぶん修理でどうにかなる問題ではないと思うので、国際交流処には訴えていないのだが、しかしけっこう困る。端的に寒いのだ。
  • なんとなく執筆する気になれず書見することに。そういう気分の日はときおりあるなと思ったところで、今日が土曜日であることに気づき、また週末かと思った。今日は書見の日であるなと、なんとなくそういう気分になる日は決まって土曜日か日曜日なのだ。これはおそらく、毎週日曜日の夜は万达のスタバで書見するというかつての習慣の残響だと思う(しかしこの習慣、なにをきっかけに、いつ途切れてしまったのだろう?)。
  • 『闇の精神史』(木澤佐登志)読了する。資本主義リアリズムの閉塞感(あらたな未来の展望をいっさい得ることのできない現代という「歴史の終わり」)においてあらたな未来像をたちあげるべく、実現されなかった未来(レトロフューチャー)をふりかえり、思想史のジャンクヤードに足を踏み入れ、その未来像の構成に役立つかもしれない部品を拾いあつめるという営為。こちらとしてはやっぱり小説のことをアナロジカルに考えてしまう。ある時代にたしかに登場したものの、ほとんど一顧だにされず歴史の彼方に埋もれてしまった作家や技法の数々。あるいは、その当時はたしかに注目を浴びたものの、現代においてはほこりをかぶった「古典」としてまつりあげられるだけまつりあげられてだれも手にとらなくなっている諸作品。吉行ケイスケをはじめとする新感覚派の作家なんて大半が文学史のジャンクヤードでほこりをかぶっている。もしかしたらとんでもない作品があるかもしれないのに——と、考えていると、やっぱりひとがあまり読まない小説を読んだほうがいいんだろうなと思う。ムージルマンスフィールドもオコナーも梶井基次郎もちょっとメジャーすぎる。
  • そんな感想を抱いた直後であるのに、次に本棚から手にとったのは『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)という……。(…)さんが寮に置き去りにしていった一冊。トリップシーンなど「実弾(仮)」の参考になるかもしれないという下心から。前回読んだのはまだ読書をはじめてまもないころであったはずだからたぶん20歳かそこら、となるとおよそ20年ぶりの再読ということになるのか? というか、この文章を書いているいま気づいたのだが、じぶんが読書をはじめたのは18歳か19歳だったはずだから、とうとう人生の半分を本とともに過ごしたといえるということになるのか! 信じられない!
  • 限りなく透明に近いブルー』(村上龍)、三分の二ほど読んだ。安心した。この作品にくらべると、「実弾(仮)」はちゃんと画にならない若者の姿を描くことができているなと思ったのだ。クールじゃなくてダサいものを、全然クールじゃない筆致でちゃんと書けている。いまの路線で間違っていない。たとえば、『限りなく透明に近いブルー』の登場人物が味噌汁を飲んだりお茶漬けを食ったりしている姿は想像できないが(作中に実際味噌汁は登場するが!)、「実弾(仮)」の登場人物は全員が全員そういう姿をまざまざと思い描けるようになっている。ドラッグの描写も、神秘的でもないし暴力的でもないし狂気的でもない、超越性をいっさい喚起しないような書き方を「実弾(仮)」では採用できているはず。生活。そう、じぶんが書いているのは生活だ。美学ではない。
  • しかし、トリップの描写で「手や足をゆっくりと動かすと、関節に油を差したように、そのヌルヌルした油が全身に回るように感じる」とあるのには、ああなるほど、そういう表現があったかとひざを打った。よくわかる。