20240130

 敵/味方という二項対立の世界観を作るポピュリズムは、いかに敵が知的にも道徳的にもひどいやつなのか、という印象操作をおこなっている。ぼくはあまり好きではないが、むかし本多秋五という文芸批評家がいた。そのひとの有名な言葉に「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」というのがある。「鞍部」とは山と山をつなぐ尾根が最も低くなった地点。山を越える峠道がよくできる場所を指す。
 つまり、相手を批判するにしても、もっとも低いところではなく、もっとも高いところを超えよ。批判する相手の主義主張を、相手が気づいていない部分まで、最大限にその射程を引き伸ばしたうえで批判する。これが「批判」の基本である。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 12時半起床。三年生の(…)さんから茄子の天ぷらの写真がとどく。最近毎日料理をしているという。きのうの夕飯の残りものであるカレーを温めて食す。(…)を庭に出してやったが、うんこを気張っている最中にころんと横になってしまったと母がいう。最近はいったん横たわった姿勢から起きあがるのもかなりしんどそうで、いや、しんどそうにしているのは去年の夏休みの時点からそうであるのだが、起きあがるのをあきらめてしまう場面もこの冬休み中は何度か見ている。(…)はいま庭からうちにもどりたいとき、ワン! とひと鳴きしてわれわれを呼ぶ。スロープをひとりでのぼることができないので、後ろから腰を支えてほしいという意味でのひと鳴きなわけだが、そういう感じで、そう遠くないうち、起きあがるのを介助してくれという意味で、ワン! とひと鳴きするようになるかもしれない。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読みかえす。以下、2023年1月30日づけの記事より。「感化のブーストアイテムともいうべき本(読書)」という表現が気に入った。

 (…)くんは彼女と別れたらしかった。経緯については確認していない。ただ、別れたこと自体は悲しいが、「たくさんものを勉強しました」というので、結婚にいたらない恋愛は無駄みたいな考え方のひとにときどき出会うけれどもそうではないからね、そのひとから受けた影響や学んだことはずっと残り続けるものだから、これは友情や読書についてもいえることだけどと応じると、(…)くんは「先生は哲学者のようですね」と言ったあと、「僕は昔の彼女たくさんの影響を受けましたよ」「話し方や考え方も」とあり、ここで「話し方」という言葉が出てくるところ、彼は本当に別れた彼女からたくさんのことを学んだと考えているんだなとぐっときた。こういう話題になると、ついつい「価値観」とか「世界観」とか、あるいは中国語であれば「三观」とか、そういうでかい言葉を使いがちになってしまうところであるけれども、(恋人のみならず)深く付き合う相手から受ける影響でもっとも大きなものって、まず間違いなく「話し方」や「言葉遣い」であるとこちらも自身の経験に即して思うからだ。まあいまだに口は悪いほうだと思うし、素地の悪さは隠しきれない人間であることは認めざるをえんが、それでもこちらはやっぱり地元を出て京都にいって、当時の恋人をはじめとする階層や背景のまったく異なるひとらとの交流を通じ、そしてまた感化のブーストアイテムともいうべき本(読書)に出会うことで、「話し方」や「言葉遣い」、あるいは「ふるまい」にクソでかい変化をこうむったことは確かなのだ。

 以下は2014年1月30日づけの記事より。

 五月に入ると、近所の国民学校の講堂で毎晩、点呼の予習が行われていた。それを正三は知らなかったのであるが、漸くそれに気づいたのは、点呼前四日のことであった。その日から、彼も早めに夕食をおえては、そこへ出掛けて行った。その学校も今では既に兵舎に充てられていた。燈の薄暗い講堂の板の間には、相当年輩の一群と、ぐんと若い一組が入混っていた。血色のいい、若い教官はピンと身をそりかえらすような姿勢で、ピカピカの長靴の脛はゴムのように弾んでいた。
 「みんなが、こうして予習に来ているのを、君だけ気づかなかったのか」
 はじめ教官は穏かに正三に訊ね、正三はぼそぼそと弁解した。
 「声が小さい!」
 突然、教官は、吃驚するような声で呶鳴った。
 ……そのうち、正三もここで皆がみんな蛮声の出し合いをしていることに気づいた。彼も首を振るい、自棄くそに出来るかぎりの声を絞りだそうとした。疲れて家に戻ると、怒号の調子が身裡に渦巻いた。……教官は若い一組を集めて、一人一人に点呼の練習をしていた。教官の問に対して、青年たちは元気よく答え、練習は順調に進んでいた。足が多少跛の青年がでてくると、教官は壇上から彼を見下ろした。
 「職業は写真屋か」
 「さようでございます」青年は腰の低い商人口調でひょこんと応えた。
 「よせよ、ハイで結構だ。折角、今までいい気分でいたのに、そんな返事されてはげっそりしてしまう」と教官は苦笑いした。この告白で正三はハッと気づいた。陶酔だ、と彼はおもった。
 「馬鹿馬鹿しいきわみだ。日本の軍隊はただ形式に陶酔しているだけだ」家に帰ると正三は妹の前でぺらぺらと喋った。
原民喜「壊滅の序曲」)

 これ、当時の日本の雰囲気をものすごく深いところからえぐっているようにみえる。軍隊内における暴力沙汰に関するあれこれについては、「S」執筆時にあたった資料や身内の体験談などを介してさんざん触れてきたわけだが、上の一場面のほうがある意味では芯を突いているといえるかもしれない。
 Twitterはもうずいぶん長いあいだ、中国国内の情報を集めるためのツールとしてのみ運用しているのだが、中国在住歴が長く中国語もペラペラなアカウントらが、たびたびナチュラルに人民を蔑視している場面を目にし、そのたびにげんなりする。いや、蔑視したくなる人民が数多くいることはまちがいないのだが、そのような人民を生み出す社会構造や政策のほうに問題があることは明白だろう。もちろん、そのようなアカウントのなかには中国の社会構造や政策を批判しているものも多々あるのだが、それでいて同時に、いわば返す刀で、日本の侵略を肯定する、そこまではいかなくともたとえば南京での出来事をまるごと虚偽扱いするような発言を口にしている場合があり、これにはさすがに、えー! となってしまう。中国社会がクソであり愛国を競い合う人民らがクソであるのは明白であるが、それらをクソと断じるおなじ価値基準で判断するのであれば、戦時中の日本政府および日本社会なんてクソ中のクソであることは疑いない。結局こういうひとたちには理念がないのだろう。中国がクソであるという判断がそのまま日本は最高であるという判断と表裏一体である、中国政府が嘘つきであるという判断がそのまま日本政府は正直であるという判断と表裏一体である、中国人が愚かであるという判断がそのまま日本人は優秀であるという判断と表裏一体である——そういう雑な認識で編みあげられた世界を生きているのだ。仮に平等や公平という理念の側につくのだとすれば、中国(人)にも日本(人)にも批判すべき点は無数にある(し、同時に賞賛すべき点もやはりある)はずなのだが、そういうふうに考えているようには全然みえない。
 こうした理念の欠落はここ15年ほどでめちゃくちゃ進行したんではないかというのがこちらの実感としてある。そしてそれは相対主義批判と並行している現象のようにみえることもある。凡庸で風見鶏的な相対主義は批判されるべきだろうが、相対主義というものが批判の対象として槍玉にあげられて以降、ろくにものを考えることのできない連中が、理念にもとづく判断を下すひとびとのこともふくめてものすごく雑に相対主義者だと言いだした、そしてその結果として理念(の側につくという立場)が衰退したのではないかと言ってみたくもなる。実際、リベラルな価値観の持ちぬしですら理念よりもポジションで意見表明するようになっていないか。たとえば、自民党と野党をおなじ基準でジャッジできないのはかつて自民党の熱狂的な支持者の特徴的なふるまいだったはずなのだが、いまとなっては野党支持者のなかにも同様の思考回路が目立つようになっていないか。うんざりする。
 2014年1月30日づけの記事には『三つ目のアマンジャク』(松下清雄)に対する言及もあった。10年前のいまごろちょうど読んでいたらしい。この小説は大変おもしろかった。完全にドストエフスキーだった。

 授業準備にとりかかる。日語文章選読の読解用テキストとして「卒業生への手紙」の2019年版と2022年版を使うことに決める。ひとまず2019年版の脚本をざっと作る。2022年版も少しだけ進める。
 (…)を連れて(…)川へ。車にのせる前におなじ団地に住んでいるおばちゃんと話す。数日前も少々立ち話をした。ビーグルに似た中型犬サイズの犬と黒のポメを連れている。若いものだと思っていたが、前者が13歳で後者が12歳。その割には足腰がずいぶんしっかりしている。しかし前者のほうは後ろ足が常時ぷるぷる震えているとおばちゃんが言う。間近でながめてみると、たしかにぷるぷる震えている。(…)も以前はそうだったかもしれない。いまは震えることすらない。後ろ足はただの飾りになっている。(…)川は西陽が照っていて暖かかったが、だれの姿もなかった。この散歩中に怪我したものかどうかは知らないが、夜、母親がカーペットについた鮮血に気づき、それで(…)の足裏をチェックしてみたところ、後ろ足のいっぽうの爪の付け根あたりから血がにじんでいるのを発見した。マキロンで消毒した。
 帰宅後、『落としもの』(横田創)の続き。微信で謎のアカウントから友達申請がとどく。(…)というアカウント名で、アイコンは美女の自撮り。モーメンツにもおなじく美女のみじかい動画が投稿されている。詐欺アカだろう。以前もおなじことがあった。申請を了承後、すぐに相手からメッセージがとどいたが、簡体字ではなく繁体字の中国語だった。タクシー会社のスタッフだろうかというので、そうではない、たぶんほかのアカウントと勘違いしているのではないかと英語で受ける。ここまでは前回のアカウントとまったくおなじパターンだ(正確にいえば、前回はこちらに対してあなたは旅行会社のスタッフではないかとたずねてみせた)。日本人なのか? 英語も中国語も上手だな! と繁体字でいうので、礼だけ言って、have a nice trip! でやりとりを打ち切ることにしたが、相手はメッセージを英語に切りかえてこちらの年齢をたずねた。無視。
 夕飯は鰯。中国にいると魚の塩焼きを食う機会が全然ないので、ひさしぶりに日本で食うと、鰯にしても鯖にしても秋刀魚にしても鮎にしても、とにかくうまい、うますぎる。
 入浴後、もういちど授業準備。日語基礎写作(二)のteaching planを見直す。今学期からあらたに導入する教案「(…)」と「(…)」の大枠をこしらえる。その後、朝方までBuriedbornes2をプレイしたり『落としもの』(横田創)の続きを読んだり。