20240303

 高校を出て一度は農業大学に籍を置いたスティーヴだったが、一つにはあるビートニクの男に読ませられたベケットの『ゴドーを待ちながら』に衝撃を受けたこと、もう一つには父親との間が険悪で早く家を出たかったということがあって、ある日、ビショップズ・カンパニーというどさ回りの劇団のオーディションを受け、採用された(当時から目立つ美男子だった)。劇団は半年をかけてアメリカを横断し、ニューヨークで解散した。この巡業の間に、スティーヴは自分の名前をサム・シェパードに変える。奇しくも、サム・シェパードという名の医師が妻を惨殺してアメリカ中の話題になっていたころだった。こうしてキャプテン・アメリカと同じ名を持つ十九歳のスティーヴ・ロジャース少年は、殺人犯と同じ名前を持つ十九歳のサム・シェパードという青年として、一九六三年のニューヨークに降り立った。
サム・シェパード畑中佳樹・訳『モーテル・クロニクルズ』より「訳者あとがき」 p.226



 10時にアラームで起きた。歯磨きをして白湯を飲み、デスクにむかってきのうづけの記事の続きを書きすすめる。11時半ごろC・Mさんから微信がとどく。チャーハンを作るので食堂で白ごはんを買ってきてほしい、と。それで第五食堂をおとずれ、白ごはんを二人前打包する。帰宅してほどなく大荷物のC・Mさんがやってくる。夜行列車にのって今朝(…)に到着した。風邪をひいているせいで食欲がないという。さっそくキッチンに立って料理をはじめる。祖母といっしょに下準備をすませてきたという郷土料理から。草色の皮の内側に肉だの野菜だのを詰めて蒸す料理。デカい緑の焼売みたいなもの。灯盏果という(画像検索したらいろいろ出てくる)。包むのも蒸すのも全部彼女がやってくれる。こちらはただテーブルの準備をしたり周囲をうろうろしたりしているだけのカスと化すしかない(C・Mさんはいつもこちらに調理を手伝わせてくれない)。蒸しあがったものに最後熱した油をぶっかけるのだが、その油というのがふつうのものではなく、祖父母が樹から採取したなにかの皮を剥いてそれを天日干ししてみたいな方法でこしらえたものらしい。ふつうに買うとかなり高い油だという。実際すばらしくよい香りのする油だった。灯盏果のほかにウニの炒飯も作ってくれる。こちらは起き抜けであるし、それほど食欲がなかったので一品だけでよかったのだが、C・Mさんは残したものは夕飯にすればいいといってゆずらない。ウニは生食用ではないからだろうか、ちょっと変なにおいがしてだいじょうぶかなと不安になった。きつい酒の香りがしたのだが、あれはもしかしたら保存用にアルコールに漬けてあったということだろうか? C・Mさんは病院で処方された風邪薬と海鮮との相性をやたらと気にしており、ウニの味見をするときも口に入れたものをすぐにゴミ箱に吐き出した。そこまで過敏になる必要もないと思うのだが、やっぱり農村出身の子だからだろうか、いわゆる中医的なあれこれに対する信心深さみたいなものが根強くあるのかもしれない。ウニ炒飯は正直微妙な味わいだった。日本の生食用ウニに慣れていると、これは全然ウニらしくない、とにかく酒の香りがきつい。
 C・Mさんは妹とは仲直りしたという。飼い犬の(…)の写真も例によってたくさん見せてくれる。食欲がないといって食事にはまったく口をつけず、ただ手土産として持ってきたいちごをいくつか口にしただけ。医者には夜また熱があがるかもしれないと言われているというので、いまも熱があるのとたずねると、こちらに額を差し出してみせる。ふれてみたが、あるかなしかの微熱という感じ。夜行列車でやってきたからにはきっと睡眠もろくにとれていないだろうし、ちょっと寝たほうがいいんではないかと提案すると、ここでですか? と笑っていうので、いやそれはダメだけどさと応じる。寮は今日大掃除をしている。ルームメイトたちとの関係は例によってよくないし、みんなうるさく騒いでいるから昼寝などできないという。こちらは正直昼寝をしたくてたまらなかった。C・Mさんは残った材料でもういちどおなじ料理をこしらえるといった。それをクラスメイトのY・Tさんのところに持っていくというので、その料理が完成するまでひきつづき話し相手をした。(…)大学の学生らに興味があるのか、明後日はどういうスケジュールで行動するのか、学生らはどこに宿泊しているのかなど、いろいろ質問されたが、こちらはなにも知らない。いまのところただ晩餐会に参加してほしいと言われているだけである。
 Y・Tさんの料理が完成したところでC・Mさんは去った。しかしその後、薬をうちの寮に忘れたという微信がとどいたので、夕方にまたそっちまで持っていくよと返信。いまはとにかく昼寝をしたかった。そういうわけでベッドに移動し、小一時間ほど昼寝。目が覚めたところでコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前の日記を読み返した。コスプレイヤーのS・Iさんとその友人男性から万达で声をかけられた日。

 キッチンの掃除をした。布巾がどこにも見つからない。おそらくC・Mさんが勝手に捨てたのだろう。こういうところ、やっぱり中国人だなァと思う。メシの残りを食す。C・Mさんに薬を持っていくよとメッセージを送る。返信のあったところで外に出た。女子寮前で自転車を止めてC・Mさんが出てくるのを待つ。三年生のR・Kくんとその彼女がまたしても電動スクーターに乗ってかたわらを過ぎ去っていく。外に出てきたC・Mさんはちょっと調子が悪そうだった。さっきまで寝ていたという。明日の授業はもう休みなさいと告げる。
 寮にもどる。チェンマイのシャワーを浴び、来週の授業にそなえて必要な脚本およびビンゴ用紙をまとめて印刷する。ついでにFくんの「塔のある街」も印刷。三年生のK・Kさんに先学期編入してきた学生ふたりの名前を微信でたずねる。K・KさんとS・Dさん。日本語読みを調べる。それぞれ「(…)」と「(…)」だ。
 21時から「実弾(仮)」第五稿に着手する。しかしすぐに空腹に苛まれる。インスタントラーメンを食す。それだけでは物足りないのでトースト二枚を追加する。食事中ふと思った。生まれ変わり(輪廻)の物語は世の中に腐るほどある。タイムトラベルの物語も同様。しかしこの両者を組み合わせた物語は存在するのだろうか? つまり、主人公がタイムトラベルをして前世の自分に接触するという物語は?
 寝床に移動後、『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)と『中国では書けない中国の話』(余華/飯塚容・訳)をぼちぼち読み進める。夜中にもかかわらず上のカスが椅子を何度も何度もアホみたいにひきずってクソうるさかったので、ひさしぶりに吠えまくった。死ね馬鹿野郎。細木数子といっしょに地獄に堕ちろ。

プフィングスト博士といっしょにフォン・アレッシュ氏がやって来た——タイプ、知覚過敏と学者気質の混合。すべてを知覚し、その上、その根拠をも知っている。よりよく感じる人間とよりよく知っている人間との欠点を併せもっている。その混合の不幸を意識するときにだけ共感できる。
(p.118)

ローベルトと母。善良な心をもっているということは、けっして確固とした特性ではない。ひとは多くの人間に対しては善良であり、他の人間に対しては善良でない。計測不可能な状況すら、善良にしたり、善良でなくしたりする。同様に、一人の人間が一瞬は感動的だが、そのとき以外は悪趣味に思われることがある。結局、善良な心はある状況の下で優しくなる能力に他ならない。誰かが善良な心をもたないと推論することは、ほとんど不可能である。
(p.136)

太陽も影をつくることができなかった。
(p.160)

 四週間! なぜ彼は今日になってこんな話をあの旅の道連れに話したのだろう、——その男は「お身体をお大事に。なるべく早くご回復なさるように」と言って別れて行き、二駅先できっともう別の男と懇意にしているだろう。この鉄道なるものは——魂の点で——生粋の娼家ではないだろうか?
(p.163)

一般にわれわれは論証的にではなく、飛躍的に考える。この錯覚はシネマトグラフにおけるのと同一である。
(p.166)

死んだ思考と生きた思考!
 思考は内的に生起するものを観察するなにものかではなく、この内的に生起するものそのものである。
 われわれはなにものかを熟考するのではなく、なにものかが自身を思考しつつわれわれのなかに浮上するのである。思考の実質は、われわれが自身のなかで展開したものをやや明晰に見るという点にではなく、内的な展開がこの明晰な領域にまで拡大するという点にある。思考の生命はそこに静止する。思考そのものは偶然であり、一つの象徴である。すなわちそれはしばしば死んでいることがありうる。ただ内的展開の最後の環のように、完成と確実性の感情がそれに伴う。
(p.167)