20240420

 現実に存在している人間というのは、いくつもの面を持っていて、私たちはその人に対して実際のところは統一したイメージを持つことを放棄していて、何か事があるたびにその人との経験からあらためてその人のことを考え直すという風にしているのだが、現実の中では自分がそういう風にしているということをあんまり考えていない。つまり統一したイメージを持つことを放棄しているということを自覚していない。(だからこそ、血液型とか星座とか心理学のタイプ分類の本を読んで、「そうだよね」と安直に納得してしまったりする。こちらの側にきちんとしたイメージができていたらそんなものは必要ない。)
 しかし小説を読むときには「この人物はどういう人か」というイメージを持とうとするし、書く側もそういう風に書くことになっていて、それゆえに自分たちが現実の中で接する知り合いについての統一したイメージや輪郭を持っていないことまでは小説を読みながら考えが及ばない。(だから血液型などの性格分類は小説みたいなフィクションだということになる。)
 小島信夫の小説、とりわけこの三冊の中に出てくる人物たちは私たちが現実の中で出会う人間のように振る舞いつづける。そしてそれゆえに、私は自分が現実の中で知り合いについて統一したイメージを持ったりその人についての輪郭を持ったりしているわけではなかったことに気づく。そんなことを読者に気づかせる小説は他にない。その登場人物たちが「結局どういう人なのか」「結局何が言いたくて作者・小島信夫に接近してきたのか」そんなことはわからない。それは現実に存在する人間がそうであるのと同じようにわからない。「そうなのだ。現実の世界では相手の意図するところを全部わかろうなんてハナから思っていないんだ」と、そのことに読みながら気づく。
 小島信夫は『暮坂』の中で夏目漱石の『道草』のある箇所を思い出して、こういうことを書く。
 
……そのとき不意に思い出した小説の内容は、何となつかしくリアルで、しかも気持よく感じられることか。それでいて小説であるがために気持よく読んでしまっていたあの内容は、小説としてリアルであることとは別のものを含んでいると思えた。その感じは何と口にしていいか、どんなふうに自分自身に説明していいものか、この暗闇のように、腹立たしいほど、暗く奥深いだけであった。
 
 読者を驚かせるのは、小説としてリアルなことではなくて、小説から離れてリアルなことが小説に書かれているときだ。
 小説を書くという行為は作業であって、作業というものはそれをする者の事前の意図をこえた精密さを作業する者に要求しはじめる。たとえば塀をペンキで塗っているとして、塗る前は「まあ適当なところでいいか」ぐらいに考えていたものが、いざ塗りはじめると塗りむらが目について、「もう少し」「もう少し」と、精密さの方に引っ張られていく。
 小説を書くとなるとその精密さへの誘惑はもっと強く、語のレベル、センテンスのレベルで手を入れ出すとキリがなくなるが、小説を書くプロであるかぎり手を入れれば入れただけ文章は確かに良くなっていく。しかしそれで小説として精密になり、リアルにもなっていったとしても、それはあくまでも小説としてリアルなだけであって、小説から離れてリアルなものが生まれるわけではない。
 小説としてリアルなことと小説から離れてリアルなことは別の原理なのではないか。小説としての精密さばかりに気をとられていると現実がどういうものであるかがおろそかになるとか、小説としての精密さばかりに気をとられずに現実を忘れないようにしなければならないとか、と書くことは簡単だけれど、それはスポーツで「力むな。もっと肩の力を抜け」と言うのと同じくらい難しい。
保坂和志『小説の誕生』 p.232-234)



 11時前起床。朝方、たしか8時ごろだったと思うが、上の部屋ではない別の部屋からコンコンコンコンなにかを打ちつけるような音がひびいてきて、耳栓越しにもやかましく目が覚めた。中国の寮(アパート)、なんでこんなにどいつもこいつもクソうるさいんや?
 朝昼兼用の食事は第四食堂ですませることに。(…)で麺をオーダーしたところ、「先生!」と先客から呼びかけられた。二年生のC.Kさん。ほかでもないこの店を依然おすすめしてくれた張本人。打包する彼女とバイバイしたのち、こちらは近くのテーブルに移動してオーダーしたものを食したのだが、いつもは红烧なんとか面をオーダーするところを今日は招牌と名前に入っていた看板メニューをオーダーしてみた。羊の内臓と血を固めたやつを細く切ったものがのっかっている麺だったが、あんまりうまくなかった、これだったらいつものやつのほうずっとうまい、なんでこれが招牌なんやと疑問に思う。値段はいつものやつにくらべると2元か3元安かったが、京都弁風にいうと「値打ちがない」。
 売店でペットボトルの紅茶を買って帰宅。さすがにもう衣替えしてもいいだろうというわけでダウンジャケットを二着たてつづけに洗濯機の「羊毛」コースで洗う。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返し、そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時半だった。

 寮を出る。階段でインド人のJとすれちがう。そばには新入りらしい外教の男性がいる。どこの国出身か忘れたが、以前も見かけた人物だ——と書いたところで外教のグループチャットを確認したところ、そうだ、Aという名前だ。国籍はどこだっけ? 以前調べて日記に書きつけた記憶があるのだが、たしかパキスタンかインドではなかったか? まあなんでもええわ。門前ではJ一家ともすれちがった。Aと会うのはひさしぶりだったのでそう告げると、大きくなったでしょうとCがいう。来年中にはきみより背が高くなるかもしれないねといってから、クラスでも大きいほうなのとたずねると、真ん中よりもちょっと後ろという返事。Tと会うのはひさしぶりなんだからhugでもすればとCがうながすと、ちょっとめんどうくさそうな恥ずかしそうな表情を浮かべてAがやってくる。ぎゅっとhugする。
 ケッタにのって(…)へ。食パン三袋購入。あんたずいぶん長いあいだ見てなかったけどとおばちゃんがいうので、店には来てるよ、ほかの店員さんがいつもいたけどと応じる。レジには見覚えのないおばちゃんがもうひとり入っており、こちらの会計を担当してくれたのだが、その際に支払いは微信ではなくて支付宝のほうがうんぬんかんぬんという。するとすぐに顔見知りのほうのおばちゃんが割って入って、このひとは日本人だよ、支払いはいつも微信なんだよみたいなことをいう。初顔合わせのおばちゃんはすこしびっくりしたようすで、日本人なのか、中国語が上手なんだなと驚いてみせる。中国人は外国人の中国語をマジですぐに褒める。これは極端な意見でも誇張でもなし、マジでそのまま受け取ってほしいのだが、你好と谢谢、それにくわえてたとえば「私は◯◯人です」みたいな初級のフレーズを中国語で口にできただけで、あんたは中国語がとても上手だな! とほぼ100%の確率で相手は褒めてくれる。だから本気で中国語を学ぶ気のある外国人にとって現地で生活するのはけっこう愉快なんではないかと思う。
 (…)楼の快递でプリンターのカートリッジを受けとる。いつものおっさんだけではなく学生バイトらしい女の子が入っていた。めずらしい。そのまま帰宅してもじきにまた食堂に出向くはめになる時間帯だったので、第四食堂付近にあるバスケコート近くのベンチに腰かけて17時ごろまで書見することに。暑くもなければ寒くもない。湿気は多少あるものの、花粉はほとんど飛散していないし(あるいは薬がよく効いている)、蚊も全然見当たらない。ある意味最高のロケーションでKatherine Mansfield and Virginia Woolfの続きを読みすすめる。illuminationという単語に啓示・啓蒙の意味があることをはじめて知った。啓示といったらrevelationだとばかり思っていた。おなじ啓示といっても、ジョイスepiphanyで、オコナーはrevelationというイメージなのだが、ウルフやマンスフィールドの作品をilluminationというコンセプトから読み解くこともできるのか。ウルフも一度まとめて読まないといけない。原文はかなり複雑に入り組んでいるだろうし、まずは日本語訳でもろもろ読んで(再読して)、気に入ったものの原文に当たるというふうにすればいいか。
 書見の最中、「先生!」と声をかけられた。一年生のK.Sくんだった。もともと日本語学科2班に所属していたが、今学期から他学院に転籍した男の子。歴史学院だったよねと確認すると、マルクス政治思想学院だという(中国語での)返事。高校二年生から日本語を勉強している彼であるが、会話はほぼ成立しない。いまはむしろ英語のほうがいいのかなと思って英語に切り替えてみたが、英語は全然わからないという中国語での返事があって、結局、日本語と中国語のちゃんぽんで軽くやりとりを交わすことになったのだが、あたらしい環境を楽しめているようす。以前K先生からK.Sくんは大学で実施されたメンタルヘルスのテストでうつ病疑いの結果が出ているという話を聞いていたのでちょっと心配だったのだが、じぶんがもともと興味のあった学科に転籍することができて、もしかしたらけっこう持ちなおしたのかもしれない、先学期はそんな姿を一度も見かけたことはなかったのだが、今日はTシャツにハーフパンツでどうやらバドミントンを楽しんでいたようだった。よかった、よかった。
 17時をまわったところで書見を切りあげて第五食堂へ。打包し、帰宅し、食し、20分の仮眠をとり、チェンマイのシャワーを浴びる。その後、20時半から23時半まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン34の最後をまた書きなおした。それからシーン35の前半をがっつり加筆修正。修正部は赤文字にしているのだが、シーン34にしてもシーン35にしても原稿の半分が赤色に染まっており、第五稿でなおこの修正頻度なのか、完全に書きなおしているにひとしいじゃないかと苦笑せざるをえない。
 しかしこうして書いていてあらためて思うのだが、小説を書きはじめた当初はメタフィクションばかり書いていて、そこから(映画や漫画と差別化する意味で)言語というメディウムにのみ可能なことを(メタフィクションという要素を除去し、一定程度の「筋」を取り入れたうえで)探究する小説を書きだし(その最大の参照先がムージルであり、成果が「A」や「S」である)、そしていまはむしろメディウムに対するこだわりをあえて捨て去る、換言すれば、映画や漫画にも翻訳可能なものを書く——というよりもむしろまず映像ありきで構成したものを言語で再構成しなおすという逆輸入的な発想にたつ——「実弾(仮)」にとりくんでいるわけで、これって大雑把にいえば、ポストモダン文学→モダニズム近代文学というふうに文学の歴史をさかのぼっているにひとしいんではないか。おれもなかなかけったいな足取りの持ちぬしやな。
 最近全然運動していないことに思いいたったのでひさしぶりに懸垂。それからトースト二枚の夜食をとり、めちゃくちゃひさしぶりにプロテインを飲み、歯磨きをすませたのち、「定義集」の結果を文集およびスライドにまとめた。2時になったところで寝床に移動。