20240424

ディアーナの水浴』を繰り返し読みながら、この疑問が「解けた」とは言わないまでも、ひとつの回答が与えられたというか、疑問に対するアプローチが生まれたというか……。問いというものは、そのようにいろいろなアプローチが生まれていく過程でたぶん問いではなくなって答えに変質しているのではないか。
保坂和志『小説の誕生』 p.356)



 6時15分起床。トーストとコーヒーの朝食。第19課のシミュレーションをざっとおこなう。部屋を出る。寮の入り口そばで見慣れないアジア人が立ち話している。中国人ではない。肌が白い。一瞬うわさの日本人かと思ったが、複数人固まって談笑しているふうだったので、たぶん中央アジアからの留学生だと思う。そばには国際交流処のMもいた。
 ケッタにのって外国語学院へ。到着とほぼ同時に雨が降りはじめる。傘は持ってきていない。8時から一年生2班の日語会話(二)。第19課。うまくいった。先週同様ガンガン質問しまくるやりかたを採用したのだが、完全につかんだ感アリ。これまでも質問多めの方法を試してみたことはあったが、おなじ質問の重複はよくないという意識がはたらいていた、あれがそもそもダメだったんだ。重複していい。おなじ質問を四人五人連続でぶっこんでもいい。「はい」「いいえ」だけでもいいので、とにかく発語をうながすのだ。そうすれば学生らも集中してこちらの話をきくようになるし、日本語能力の高い子にはそのレベルに応じた質問をこちらのほうで加減しつつ二つ三つと続けることもできるし、それが脱線のきっかけにもなる。脱線しまくったせいでアクティビティを最後までやる時間はなかったが、それはそれでかまわない。K.Uくんから母親の故郷では馬肉の餃子を食べることがあるというレアな話をきいた。Kくんは黒竜江省出身であるが、母君がどこの出身であるのかは聞き忘れた。R.Eくんは高校生のときから付き合っている彼女がいる。相手は現在南昌市にいる。高校時代に教室で告白したらしい。R.Kさんは同時に100人のアイドルのファンになったことがある。この場合の「ファン」が具体的になにを意味しているのかちょっとわからないが、たぶんアイドルの微博を100人分フォローしたとか、ファンのコミュニティ100組に所属したとか、そういうことだと思う。
 授業後、充実した気持ちで教室をあとにする。第四食堂に立ち寄ってハンバーガーを打包。二年生のS.Sさんから四択問題の解説依頼がとどいていたのだが、ハンバーガーができあがるまでのひとときを利用してバババッとチェックして返信を書き送る。たぶん四級試験の過去問だと思うのだが、四つある選択肢のうち二つが正解に当てあまるというおなじみの悪問だった。マジで日本語ネイティヴに監修させろよといつも思う。中国語ではこの手の問題のことを傻逼题目というらしい。
 帰宅。ハンバーガーを食して寝床に移動。20分ほど昼寝する。覚めたところで、さて作文でもするかと思ったが、いや今週はいろいろ切羽詰まっているんだった、まずはやるべきことをつぶしておかなければと思いなおす。コーヒーをいれてきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。2014年4月24日づけには当時(…)にいたKさんからメールがとどいている。「いまは田舎町で生活しているけれども、来年にはもうすこし大きな街にある学校のほうに移るかもしれないとあった」とあるが、この時点でKさんは(…)で外教をはじめてまだ一年か二年ではないか? 実際に彼が大連に移るのは五年目、こちらのバイト先である(…)が買収されることに決まって以降の話だ。ほか、「『A』についてまだ読んでいないけれどぱらぱらっと見た感じ、中上健次のような圧力をおぼえたという感想もあった。日記にせよ小説にせよ「パソコンの文字なのに、筆圧を感じるほど」「過激」と続いた」ともある。そんな彼からのメールには以下のように返信している。

よくよく考えたらいきなり「教師」ですもんね。たしかに簡単な話じゃないと思います。でもきっと現地の「生活」に慣れることができたように、「教師」もいつのまにか板についていくものじゃないでしょうか。Kさん、なんかどんな環境でもひょうひょうとして馴染んでしまいそうなところがあるから。
中上健次っぽいっていう印象、ネット上のレビューにも似たような感想がありました。とくに意識はしていなかったんですけれども、指摘されてみるとじぶんでもけっこうひざをうつところがあったりしておもしろいです。少なくとも「文圧」(という言葉はおそらく存在しませんが)にたいする希求には似たようなものを感じますね。その「圧」がいかなる動機に基づき、なにを撃つべく込められてあるのか、それはまた別問題でしょうけれど。
日記を書きはじめると、日記に書くべき素材がどこかに落ちていないかと観察の目をこらすようになり(少々貧乏くさい話ではありますが)、それをきっかけに生活の細部にたいする感受性がとぎすまされていくようなところがあると思います。だから日記を書くというのは、微視的にみれば、よくいわれるように一日をふりかえって反省するという事後的ないとなみになるんでしょうけれど、続ければ続けるほど、むしろこれからおとずれる出来事をどう感じどうとらえどのようにすくいあげていくのか、そのための事前準備や訓練という大局的な視野のもとにおさまる営為としてとらえかえすことできるようになると思いますし、そのようなフィードバックのための回路が構築されてからこそがむしろ、日記の本領であるんでないかと思います。ですからぜひ、手書きであろうなんであろうと、毎日書きつづけることをおすすめします。じぶんの書きつけた文によって書きつけるじぶんが更新されていく、自己完結した独自のシステムのなかに身を置いてみるのは、きっとなかなか得がたい体験ですよ。
それでは!

 読みかえしのすんだところで、今日づけの記事も一気呵成にここまで書いた。すると時刻は16時だった。

「卒業生のみなさんへ(2019年)」をあらためて詰める。明日の授業で必要な資料を印刷し、データをUSBメモリにインポートする。17時になったところで第五食堂に移動し、打包した夕飯を食す。
 「出版された本の90%は2000部未満・50%は12部未満しか売れていないことが裁判記録から判明」(https://gigazine.net/news/20240424-buy-books/)という記事を読んだ。以下、記事の一部。

当事PRH USのCEOを務めていたマデリン・マッキントッシュ氏は裁判記録の中で、出版業界に関する質問に答えています。「2018年からの4年間で、50万部以上を売り上げた著者が業界全体で何人いるかご存知ですか?」という質問に対し、マッキントッシュ氏は「私の理解では、50人程度だったと思います」と回答。また、司法省の弁護士は、1年間に出版された5万8000冊のデータから「90%が2000部未満しか売れておらず、50%は12部未満しか売れていない」ことを明らかにしました。

 これはアメリカ出版界の話なので、日本のそれとはまたことなる事情もあるのだろうが、そこはいったんおいておくとして、「90%が2000部未満しか売れておらず、50%は12部未満しか売れていない」というのをそのままベタに受けとった場合、なるほど、こちらはずっと以前Sにじぶんのことをan obscure writerだと紹介したことがあるわけだが、それでも上位50%には入っている計算になるのか。こいつァたまげた!
 チェンマイのシャワーを浴びる。ストレッチをし、19時半から「実弾(仮)」第五稿にとりかかるが、一時間でとっとと中止。あたまが全然まわらん。眠い。とっとと歯磨きすることにしたが、歯磨きすることでいくらか冴えてしまった感があるので、そのままデスクで20時半から22時半まで『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。寝床に移動後もひきつづき書見。就寝は結局0時をまわっていた。

短編集再刊に寄せる序文。
 この書物の欠点は、書物であることにある。それが表紙と裏表紙とページ・ナンバーをもっているところにある。このなかの数ページをガラス板に挟んで拡大し、時折、そのページを変えるべきであろう。そうするときに、これがなんであるかがわかるであろう。
(484 ※短編集は『合一』)

 証明の意欲には合理主義が潜んでいる。
(505)

 その当人は旅行しても墓地の思い出しかもっていない。どこにせよ、彼が真っ先に訪れるのは墓地である。とりわけ、土地の歴史をもっともよく知ることができるのは墓地においてである。
 彼は古い時代のある聖職者の墓の碑文について話す。この聖職者の周りに埋葬されているほとんどすべてのひとは、彼が洗礼を授け、結婚させ、最後の祝福をあたえた人びとである——みんなはそれを非常に美しいと思う。
(515)

 すべての人間が、誕生以前には存在しなかった事実と折り合いをつけているのは、不思議だ。
(532)

 無私は美徳ではなくて、一つの交際形式です。
(535)

 はじめて盗みをする人間は、そのとき神の近くにいるということもありうる。
(541)

時代に気づかれない程度に時代に先行すること。
(563)

(…)すなわち、自分に関連している場合には、運命、他者に関連している場合には、時代と。
(581)

(…)才能は無用な努力のために使われてはならない。
(593)