20240423

 小説というのは何かが時間とともに展開することであって、その展開は中原昌也の小説のように唐突に、暴力的に途絶えたりもする。「途絶える」ということは時間の中でしか起こらない。流れるべき時間が途絶えるということは、「流れるべき時間がある」ということを強く意識させることだ。「唐突さ」というのは時間の中での出来事であって、時間の中の出来事だからこそ、それが本当に唐突かどうかは、事前に(頭の中で)想定しても結局のところはわからなくて、書いてみるしかない。
保坂和志『小説の誕生』 p.354-355)



 6時15分起床。トースト二枚とコーヒーの朝食。トーストに以前二年生のC.Rくんからもらったハチミツを塗ってみた。うまい。
 外国語学院へ。一階の廊下に一年生のS.MくんとS.Bさんがならんで立っている。朝イチの授業直前、学生らがこうして廊下に突っ立っている姿をたびたび見かける。自習や授業の欠席者がいないかどうかの確認とかそういうアレだと思うのだが、おはようと声をかけてから、なにをしているんですかとたずねてみると、S.Mくんがやや口ごもったのち、警察のような仕事! という。警備員ということだなと察する。日替わりでクラス全員がこの役割を務める必要があるというので、麻烦だねというと、麻烦! とうんざりしたようすでS.Bさんが言う。しかしなぜこんな無意味な仕事を学生にさせるのか? 理解に苦しむ。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。授業の最初に作文コンクールの通知をおこなう。それから「定義集」を返却し、おもしろ回答をピックアップしてまとめたものをスクリーンに映しながらひとつひとつ紹介。授業の後半は「ニュースの原稿」。学生らが作文を書いているあいだはKatherine Mansfield and Virginia Woolfの続きを読みすすめる。途中、うんこをしたくなったので、(教室のある6階にはトイレがないので)5階のトイレに行ったのだが、ひりだすものをひりだしたあと水を流そうとしたところ、どうやらタンクの中が空っぽになっていたらしく水がまったく流れなかったので、最悪のテロを実行するはめになってしまった。
 うんこでいえば、授業が終わったあともまたうんこがしたくなっておなじ5階のトイレでうんこをしたのだったし、午後は午後で二回ほどトイレでやはりうんこをして、といっても下痢でもなんでもない、なんでこんなにぎょうさんうんこ出んねんとふしぎに思ったのだがアレだ、红枣のヨーグルトだ、あれをまた毎日食べるようにしているからだ。ヨーグルトってほんまにすごいな!
 授業中、C.Tくんが最初に作文を書き終えて教壇に提出しにきたのだが、前回同様、またしても趣旨をまったく理解していないものを書いてよこしたので、さすがにアレだなと思い、授業を聞かないのは別にかまわないが、せめてこちらが配布した資料にはちゃんと目を通せ、そしてそこで指示されているとおりに作文を書く程度の努力はしろと注意した。
 授業後、R.Kさんがひとり最後まで教室に残っていたのだが、うーん、前々からなんとなくそんな気がしていたのだが、これはたぶんK.Dさんとケンカしたんではないか。以前はR.KさんとK.DさんとO.Gさんの三人はいつもならんで座っていたし、つねにいっしょに行動しているふうだったが(だからこちらはいつも「三人娘」と日記に書きつけていたわけだが)、先週くらいからだろうか? たぶんみんなで『君たちはどう生きるか』を観に行った日以降であるように思うのだが、授業中バラバラに座るようになったのだ。具体的にいえば、K.Dさんは以前と変わらず最前列に着席、それに対してR.Kさんは最後尾にひとり着席、O.Gさんはたとえば今日であればややR.Kさん寄りの後方に着席という具合で、察するに、O.Gさんは板挟みになっている、揉めているのはR.KさんとK.Dさんのふたりではないか? あのふたりは去年のクリスマス、みんなでオープンしたばかりのモールをおとずれてメシを食った日もちょっと揉めていた、食事中ふたりが言葉を交わすことはいっさいなかったのだった(そのときにK.Dさんは「冷淡」だという不満も聞いた)。R.Kさん、もしかしたらそのあたりのことをつっこんでほしくて、わざと教室をなかなか去らず最後まで残っていたのかもしれないが、こちらは本日二度目のうんこがしたくてそれどころではなかったのだった。
 その二度目のうんこをすませて一階までおりると、一年生の女子学生ふたりとばったり遭遇した。両方とも2班の学生だが、名前がパッと出てこなかった、でもいまならわかる、S.RさんとR.Tさんだ——と書いたが、いや、R.TさんではなくR.Sさんだったかもしれない。日本語と中国語のちゃんぽんで簡単な会話をする。さっきはK先生の基礎日本語だった。このあとは授業なしとのこと。
 ケッタにのって老校区を出る。出口の門のところで騒ぎが生じている。おじさんおばさん保安员がぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーとんでもない声をあげて揉み合っており、そのようすを教室移動中の学生らがおもしろがってとりかこんでスマホで撮影している。老校区に入るほうの通路には車が一台停止している。もめているおじさんおばさんはその車のもちぬしなのかもしれない。道をふさぐかたちで車がとまっているので、後続の車は老校区に入ることができない。それで老校区から出るほうの通路を無理やり逆走してそのなかに入ろうとする車やバイクも複数いたのだが、そちらの道路はそちらの道路でこちらをふくむ野次馬らによってふさがれているせいで、あたりはなかなかカオスの様相。保安员が道をふさぐためのコーンや柵のようなものを停止している車に置いたが、おっさんおばさんがそれを無理やり蹴飛ばしたり投げつけたりしてどけようとしてまた怒声が飛び交い、いったいなにが起こっているのか全然わからない。最初は交通事故がきっかけとなって言い合いになっているのかなと思ったが、そうではなくてなんらかの事情で今日はもともとこの老校区にいたるための道路が封鎖されるという事情があったのかもしれない、そこを無理やり突破しようとした車があらわれたのでトラブルになったということなのかもしれないが、詳細は不明。とにかくおっさんにしてもおばさんにしても全力でマジギレして声を張りあげており、おーおーこういう現場を見るのもひさしぶりだなと思った。
 いったん(…)へ。食パンを三袋買う。店を出ると、またしても一年生の女子学生ふたりと遭遇。ひとりはK.Uさんでまちがいないと思うが、もうひとりがH.YさんかS.Eさんかわからなかった、たぶん前者であったと思う。ふたりはこれから后街で螺蛳粉を食べるという。バッグの中から買ったばかりのパンを取り出し、これは先生の朝ごはんですと説明する。
 老校区の入り口にもどる。まだ騒ぎは続いている。野次馬もたくさんいる。いったいどういう理由でそうなったのかわからないが、老校区から外に出るほうの道路が完全に封鎖されていた。門が閉じられていたのだ。老校区にいたるほうの道路は先ほどと変わらず車がその真ん中に停車するかたちで封鎖しているのだが、なぜかその助手席に保安员のおっさんが乗りこんでおり、携帯電話でだれかと連絡をとりあっているようすだった。たぶん警察が来るのだろう。閉められた門越しに背伸びしてようすをうかがう学生らもたくさんいる。こちらもケッタにまたがったまま門のむこうのようすをうかがってみたのだが、さっきのおばさんが怪鳥みたいな叫び声をきいきいあげてキレまくっていた。キレられている相手は保安员ではなくおっさんで、おばさんはおっさんの顔の前で拍手でもするみたいに猫騙しでもするみたいに——ではないか、相手の顔の前にあらかじめ浮かせておいた手のひらにもういっぽうの手のひらをビンタするみたいに打ちつける、それを何度も何度もくりかえしながら小刻みに前進、ついでにきいきい叫び、おっさんのほうはその迫力にのまれてちょっとあとずさりしたり、あるいはおなじように声をはりあげて怒鳴りかえしたりしていて、いったいなんやねんと思う。野次馬の男子学生も听不懂と口にしていたので、たぶんおばさんもおじさんも方言で罵りあっていたのだと思う。
 こんなもんに付き合っていても無意味なので新校区のほうにむかう。すると新校区の入り口もまた門が閉まっており、え? なんで? となった。道路をはさんだ対面の騒動を目の当たりにしてひとまずこっちも閉門だというわけのわからん判断がはたらいたのかもしれないが、しかたがないのでいつも出口として使われているほうから新校区に入る。そのまま第四食堂へ。猪脚饭を打包しようとしたが、まだ準備中だったので、別の店で適当なメシを見つくろって打包。
 寮にもどる。駐輪スペースでカナダ人のPがケッタをいじっていたので軽くあいさつ。あたらしいケッタを買ったのかとたずねると、以前からあるやつだという返事。ケッタは全部で三台ある、残る二台はマンションのほうにあるという。このあたりのマンションは安いというので、都市部にくらべたらそうだろうねと受けると、日本も高いだろうという。東京や大阪は高いだろうけど、でもいまは北京や上海や深圳のほうが高いんじゃないかなと受ける。ここ二十年か三十年経済状況もそれほどよくないからと続けると、1980年代が日本のピークだった。あの当時はみんな日本製の家電を使っていた、アメリカで手に入る家電なんてほぼすべてmade in Japanだったという。でもそのあとアメリカの圧力でうんぬんかんぬんみたいな話が続いたので、半導体がどうのとかプラザ合意がどうのとかあのあたりの話を言っているのかなと推測したが、Pの英語はマジで聞きとりにくいので正直よくわからん。その後も、日本軍は清王朝の時代に中国にやってきたが、なんせsoldierの数が少なすぎた、中国を支配するのであればもっと多くのsoldierが必要だった、占領にしてももっとうまくやっていればいまごろは中国を支配下において強大な国家になっていたはずだ、みたいなことを口にしていたが、このあたりもよくわからん。Pはカナダ人であるが中国系で、移民一世なのか二世なのかわからんのだが、いずれにしてもルーツは中国であるのだからその立場で日本軍の侵略についてもっといい方法があったはずだみたいな意見を口にするのには「え?」という感じ。いや、まあ、こちらが完全に聞き損じていただけという可能性もあるが。マジで半分くらいなにを言っているのかわからんので。
 寮の敷地内にはなぜかLがいた。目が合ったのであいさつし、ついでに電気ケトルの件についてたずねた(そのあいだにPは自室に去った)。大学が提携しているスーパーマーケットにあるものであれば、Lのほうからコンタクトをとってすぐにでも配達をお願いすることができる、その場合はreimbursementのための手続きも一切必要ない、しかしこちらが希望するように淘宝でじぶんの欲しいものを選んでという話になるとそもそも大学がpayしてくれるかどうかもわからないし、仮にしてくれるという話になったとしても手続きがやや複雑になるとのことだったので、だったら提携先のほうでかまわない、そっちでお願いするよと伝えた。
 それからうわさの日本人教師の話をした。書き忘れていたが、先ほどの授業の休憩時間中、C.Rくんから日本人教師が地理学院のほうにやってきた、二十日間ほどうちに滞在する予定らしいという話をきいたのだった。地理学院のほうに赴任ということは語学教師ではなく教授か研究者だろうと思い、その点Lにたずねてみたところ、professorであるという返事。東大を出たあとにドイツの大学で博士号を取得した人物であるという。researchのためにきのう(…)に到着したとのことだったが、話はそこで打ち切られた。新入りの外国人教師であるEがそばを通りがかったのだ。それでLがわれわれを引き合わせた。こちらは以前寮の階段で彼とすれちがっているが、ここであらためてはじめましてのあいさつ。相手の名前(どう発音するのか忘れてしまった)と専攻をLが教えてくれたので、日本からきたTだと自己紹介して握手。なにを教えているのだというので、日本語だよと応じると、いいな、日本語はおもしろそうだという反応。中国語と似ているんじゃないか、日本語の文字と中国語の文字はよく似ているだろといいながら、手にさげていたオレンジの入っているビニール袋の表面に印字されている漢字を指さしてみせるので、われわれはChinese characterを使っている、だから読み書きするのは比較的簡単だ、しかし発音は全然ことなるので会話はむずかしいと思うと応じると、Lもこれに同意。四声は日本語にないのかというので、ない、日本語と韓国語はとてもflatだからと答える。Eの出身国がどこであるのかは不明であるが、以前はカナダに住んでいたらしい。それでカナダの暮らしについて語ってみせたところによるとカナダは、あれは移民政策ということだろうか、移住者を優遇するさまざまな公的サービスのようなものがあり、二年か三年現地で生活するのであれば家賃0円の住居があたえられるとか、医療費はほぼ無料であるとか、そういう感じの話があった。ただ、ひとが少ない、街に活気がない、そういうのがじぶんにとってはつまらなかったというので、それだったら中国がいちばんいいとLが笑っていった。たしかに。(…)のような田舎ですらこの人口密度なのだ。カナダのofficial languageはなんなのかとLがたずねると、英語とフランス語だという返事があり、ただしケベックではフランス語が第一の公用語だ、たとえばアパートや店の標識にしてもまずフランス語があり、その下に英語なり中国語なりの第二言語が併記されているという街並みになっているというので、ケベックといえば青木淳悟の『私のいない高校』だなと思った。ほかにイヌイットもいるというので、ああそっか、イヌイットもカナダだな思っていると、Lがはてなという顔をしてみせるので、ethnic minorityだよと補足。いまでもprimitive(という用語に差別的なニュアンスがないかどうかちょっと心配だったが)でtraditionalな生活をしているのだろうかとたずねると、いまはイグルーで生活しているようなひとはほとんどいない、ほとんどが木でできた家に住んでいるとの返事。彼らはワインばかり飲んでいるというので、体を温めるため? とLがたずねると、because of depressionという返事。伝統的な生活様式を奪われた(あるいは放棄した)ものの、近代的な暮らしにはなかなか適応することができない、そういうひとたちはいつも酒ばかり飲んでいるのだという。彼らの皮膚はわれわれよりもずっと分厚い、零下何十度の環境下でも平気でおもてに出てたばこを吸っていたりする、それが突然木造家屋で生活して狩りからも離れてとなるとなかなか適応するのがむずかしいのだ、もちろんその子どもの世代孫の世代となればそうでもないだろうがみたいな話が続いた。Eは中国語の単語を口にした。発音はかなり悪かった。Lが何度もききかえした結果、清真寺(qing1zhen1si4)、すなわちモスクであることが判明。(…)にはモスクがある、それに第三食堂にはムスリム用の食事を提供してくれる店もあるというのだった。後者については学生からきいたことがあるが、(…)にモスクがあるという情報は初耳だった。
 Eのしゃべりは止まらなかった。こんなによくしゃべる人間、なかなかいないのではないか。シラフにもかかわらずシャブをあぶったときのこちらとおなじくらいのいきおいでアホみたいにしゃべり続ける。結果、たぶん小一時間ほど立ち話をするはめになった。Lはあきらかに立ち去るタイミングを探っていた。こちらが手に提げている昼飯について、これはなに? とわかりきっている質問を無理やり差しこんできた一幕があり、それで、なるほど! おれからランチというキーワードをひきだそうとしているのだな! それでこの立ち話を切りあげる魂胆なのだな! と瞬間的に察し、その作戦にのっかるかたちで、ランチだよ、さっき第四食堂で買ったんだと受けた、そこからI think it is about time to enjoy thisとかなんとか続けるつもりだったのだが、Eはそこでまた無関係なメシの話かなにかをはじめて止まらず、ムスリムってシャブしてもええんか? 絶対シラフちゃうやろ! いや、前歯欠けまくっとったし、ありゃシンナーか?
 Eの英語はしかしけっこう聞きとりやすかった。全然ネイティブではないし、むしろ発音にもかなり訛りがあるのだが、なぜかこちらにとっては聴取が容易だった。Lがうまく立ち去ったタイミングでわれわれもそろっておなじ棟に移動。階段をあがりながら中国に来て何年なのかとたずねると、コロナの前に三年いたという返事。その後こちらにもどってくることができず——もどってくる気になれず?——いたのだが、二週間前に(…)に到着したとのこと。奥さんはいま別の国に住んでいる。ドバイの首都といっていたか、ドバイの近くにあるなんとかいう国の首都にいっていたか、ちょっとこのあたりよくわからんかったのだが、いまはそこにいて、その国から中国に渡航するためにはいろいろと手続きが複雑でという話があったので、Eは生まれは別なんだろうけれどもカナダ国籍をもっているパターンかな、それで彼ひとりだけ先に入国、家族が遅れてやってくるというパターンなのかなと思ったが、実際のところはどうか知れない。コロナ前は北京の近くにある都市の大学にいたという。
 Eの部屋は三階だった。つまり、韓国人のK先生が以前住んでいた部屋だ。うちは五階だよというと、いい運動になるじゃないかというので、そうそうと応じる。今度いっしょにコーヒーショップでも行こうというので、了承してさよなら。
 帰宅。すっかり冷めたメシを食う。食後はベッドで30分ほど昼寝。二年生のR.Uくん、S.Sさん、R.Hさん、R.Hくんから作文コンクールに参加したいとの旨とどいたので返信。応募する原稿は何度か書き直したほうがいいと思うので締め切りぎりぎりにこちらに提出するのではなく、予定にゆとりをもってできれば五月中旬までにこちらに提出するようにみたいなことを告げたところ、「これ見る時、『あ、先生真面目ですね。これが教師ですか』と思ったよ」とR.Uくんから反応があったので、おめーおれのことなんやと思うとんねんと苦笑した。学生らはしょっちゅうこちらのことを「友達みたい」だという。これについては功罪ともにアリだよなといつも思う。中国の教師といえば学生らに対してナチュラルに高圧的でありガチガチの権威を有した存在として見なされている。だからこそこちらみたいなタイプは教師としては相当めずらしいらしくそのことをポジティヴに評価されることも多いのだが、しかし「友達みたい」な存在であれば転移の条件である権威はやはり弱いわけで、教師としては実はあまりよくないんじゃないかという疑問もあるのだ。いや、こちらはあくまでも語学教師、それもネイティヴの教師であるわけだから、もっとも重要なのは学生らに発語をうながすこと、それでいえばコミュニケーションの敷居を下げることがなによりも重要であり、そういう意味ではかなりよくやっている、少なくともMさんやK先生みたいなヘマはまったく犯していないはず。
 14時前から17時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン36、無事終わる。シーン37も終わった。ここもかなり楽。しかしちょっと物足りないので感がなくもないので、台所の描写を加筆することに。
 第五食堂で夕飯を打包。食後、K先生から微信。四年生のK.Kさんの追試を今週中に用意して教務室に提出するように、と。あいかわらず急だ。追試は閲読(三)。2022年の上学期に担当した授業であるが、いまさら追試をするのか? なぜ? 当時はコロナでバタバタしていたのであとまわしになったということか? ちなみにこの追試に合格しないとK.Kさんは大学を卒業することができない。K.Kさん自身には教務室から四月に連絡がいっており、追試の登録をすませると同時に担当教員に連絡をするようにという話があったらしいのだが、こちらは彼女から一切連絡を受けていない。また彼女は現在卒業論文を執筆しているはずなのだが、担当教員であるS先生のところにまだ一度も論文を提出していないらしく、追試にしたところでそれを受けるために本当に大学にもどってくるつもりがあるのか不明であるとのこと。どうなっとんや。
 チェンマイのシャワーを浴びる。あがってストレッチをし、コーヒーを淹れてのみながら、ひとまずきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下は2023年4月23日づけの記事より。

 郭象は、一つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできない、と主張する。「まさにこれである時には、あれは知らない」からである。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹される。この主張は、一つの世界に二つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で、荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容するという事態である。ここでは、「物化」は、一つの世界の中での事物の変化にとどまらず、この世界そのものもまた変化することでもある。
 それを念頭に置くと、胡蝶の夢は、荘周が胡蝶という他なる物に変化したということ以上に、それまで予想だにしなかった、胡蝶としてわたしが存在する世界が現出し、その新たな世界をまるごと享受するという意味になる。それは、何か「真実在」なる「道」の高みに上り、万物の区別を無みする意味での「物化」という変化を楽しむということではない。
中島隆博荘子の哲学』)

 そのまま今日づけの記事も一気呵成にここまで書いた。すると時刻は21時半をまわっていた。書き忘れていたが、今日の授業中、C.Sさんから労働節の调休についてきいたのだった。曰く、今月28日(日)に木曜日の授業、来月11日(土)に金曜日の授業をおこなう必要があるとのこと。連休自体は1日(水)から5日(日)までの五日間。28日(日)の補講がなかなかきつい。その分の授業準備をちゃちゃっとすます必要がある。追試の問題もあるし、今週はちょっとだけバタバタすることになりそうだ。執筆する時間、とれるかな?

 バタバタしているときにかぎって余計なことをしたくなる。鍋に湯を沸かしてコーヒー用のネルを煮沸し、红枣のヨーグルトを食した。それから四年生のK.Kさんに追試についての微信を送り、「卒業生のみなさんへ(2019年)」をもう一度詰めなおした。たぶんこれでだいたい問題ないはず。
 きのうにひきつづき、寝る前にまた大きな音で音楽を数曲流した。LIBROの“オンリー NO.1 アンダーグラウンド feat. 漢 a.k.a. GAMI”をきいて、やっぱりMC漢のラップはすばらしいなあと思った。菊地成孔が惚れるのもわかる。抑揚少なくたたみかけるようであるのだが、抑揚のかわりに音の強弱のつけかたがはっきりしていて、その強弱がそれ自体リズム楽器のようにビートを刻んできこえる瞬間があり(スタッカート気味のするどい発声がボイスパーカッションみたいにきこえる)、ああ、いいなァと気持ちよくなる。
 寝床に移動後はKatherine Mansfield and Virginia Woolfの続き。Mansfieldの日記、読んでみたいのだが、“The Diaries of Katherine Mansfield: Including Miscellaneous Works”というのは電子書籍化していないし、Amazonで売っているハードカバーは40000円以上する。“The Life and Work of Katherine Mansfield: Including Her Letters, Journals, Essays & Articles”はKindleで353円で販売されているのだが、これはたぶん日記や手紙をふくむ雑文の抜粋みたいなものっぽい。とりあえずこっちを読んでみればいいか? それでおもしろかったら、ちょっと奮発してみる?