20240427

 石川忠司との対談の日の候補が最初八月十一日と十八日の二日あがっていて、結局石川忠司の希望で十八日になった。十一日の夜遅く、私は便秘がひどい十八歳になる家の猫に月に一、二度飲ませている液状の下剤を飲ませたのだが、最近はあんまり効かなくなってきていたのでいつもより多く飲ませた。そうしたら思いがけずすぐに下剤が効いて、それどころか効きすぎて明け方から朝の十時くらいまで下剤と嘔吐が止まらなくなって、猫は激しく衰弱してしまった。夕方には下剤や嘔吐はおさまったものの猫はぐったりして水も飲めない。結局、木曜の深夜にはじまったその状態から回復して口から物を食べられるようになるのに、二度の通院を経て日曜の夜まで時間がかかってしまったのだが、そのあいだ私は、
「十一日に石川忠司と対談してたらこんなことにはならなかったよな……。」
 と、繰り返し考えていた。その中の何回かは「ちくしょう、石川の野郎」とも考えた。もちろん石川忠司には何の非もないが、人をうらむというのはそういうものだ。
 が、私が言いたいのはそのことではない。
 もし十一日に対談をやっていたとしたら、私が猫に下剤を飲ませすぎるような失敗も起こらなかったわけだけれど、そのとき私は、
「今日対談をやったおかげで猫が無事だった。(つまり、未然に防ぐことができた。)」
 とは思わない。これを私は「未然問題」と名づけたわけだけれど、人は起こらなかったことを起こらなかったこととして純粋に測ることができず、起こらなかったことさえも起こったことからしか測れない。
 この事実優位の思考法が私には気に入らない。思考が事実に負けていると言いたいし、負けなら負けで潔く事実を認めて起こらなかった仮定など考えるなとも言いたい。
 誰に言いたいのかって? この思考に向かってだ。
 この思考は万人を貫いているではないか。私たちがこの思考を使ったり所有したりしているのでなく、この思考が私たちを所有し使っているのだ。この思考に所有されてしまったことによって、人は決定的に全能性——神が持っているとされる全能性——を失なってしまった。
保坂和志『小説の誕生』 p.385-386)



 9時半起床。K先生から微信がとどいている。お昼ごはんをいっしょに食べに行きませんか、と。過去二度か三度連続で都合が合わず断ってしまっているが、今日は特に予定なしなので了承。これまでに三度か四度連続でおごってもらっているので、今回はいいかげんぼくにおごらせてくださいと伝える。そうでなければお昼ごはんはご一緒できません、と。K先生、まったく折れない。どんな言葉を投げかけても取りつく島もなし、自分がおごるといってゆずらない。ドラクエだったら「みのまもり:255」という感じ。
 鍋と炒めものどちらがいいかというので、いつも鍋であるし今日は炒めものにしましょうと提案。11時半に店で落ち合うことに。地図で見るかぎり、ケッタで10分から15分程度の距離。ゆっくり身支度をととのえる。
 寮を出る。南門付近で一年生2組の男子学生らとすれちがう。R.Kくん、C.Eくん、T.Tくん、K.Kくんだったと思う。第五食堂へメシを食いに行くとのこと。
 店に到着。中に入る。店員のおばちゃんがやってきて人数をたずねるので、友人がひとり待っていると思うのだがと答えかけたところで、「先生!」と声がかかる。K先生だ。テーブルに着席せず、そのまま商品の見本がならべられている一画に移動。食べたいものを選んでくださいという。(…)の空港近くのレストランでこちらが毎度注文するエビとビーフンのやつがあったのでひとまずそれをオーダー。K先生はそれ以外に肉と野菜の鍋、牛肉とパクチーの炒めものをオーダーした。あきらかにわれわれふたりには多すぎる量だったが、それにくわえて野菜が少ないからともう一品オーダーしようとするので、いやいやそんなには必要ないです、ぼくは少食ですからと制する。しかしなかなか折れない。ようやく折れたと思ったら、こちらの意見もきかずそのまま手作りのレモンティーも二杯オーダーする。さらに着席後メシを食っている最中も何度か追加でオーダーしようとしたので、そのたびにいやいやと制した。マジで強引。こういうところは典型的な中国のおばちゃんだ。ホスピタリティの権化。当然支払いも任せてくれない。前回同様ここは中国だから自分がご馳走するのが筋だといってゆずらない。日本留学中は日本人によく食事をおごってもらった、だから自分はいま中国にいるM先生——黄先生はこちらのことを「(…)せんせい」と何度か言った——に食事をおごるべきだという論理。
 食事をとりながらたくさん話す。K先生は二年生の基礎日本語を担当する。あのクラスは本当にいいですね、授業がとてもやりやすいですというと、でも会話はあまりできないでしょうというので、いやいやけっこういけますよと応じる。だれが上手かというので、男子学生であればR.HくんとR.Uくんのふたりはすばらしい、ふたりとも大学院進学を狙うことができるレベルだと思うというと、R.Uくんは大学院進学に興味がないのではないかというので、たしかにそういう話はいまのところ具体的にきいたことがないなと思う。C.Tくんはどうかというので、ダメですね、全然授業を聞いていないですというと、「(…)先生」の授業でもそうですかというので、彼はゲームのことしかあたまにないですからと応じる。K先生の授業でも同様らしい。これまで何度注意したかわからないというので、ぼくはもう注意せず放っています、めんどうくさいですからというと、じゃあ私も来週からそうしますとのこと。でも彼の能力自体は低くないですというので、あの子は日本のアニメや(エロ)ゲームが大好きですから、だから会話能力自体はけっこう高いほうです、でも勉強は大嫌いなので文法はぐちゃぐちゃですねと返事。K先生はほかにS.Bくんもまじめではないと批判した。そしてC.Rくんはまじめであると擁護した。こちらの印象は反対。S.Bくんはシャイであるけれども、課題などはわりと堅実にしっかりこなしている印象。逆にC.Rくんはお調子者なだけで、勉強自体は全然熱心でない——それもしかしK.Kさんと付き合うようになってからちょっとずつ変わりつつあるという印象も受けるが。以前T.Uさんから基礎日本語の授業中にC.RくんとK.Kさんが恋人になったことを話したところK先生が爆笑していたという話をきいたことがあったのでその点について触れると、「ちょっと信じられない」と思って大笑いしてしまったという返事。K先生はほかにT.UさんとS.Kさんを高く評価しているようだった。逆にO.Gさんのことは授業をよくサボると非難するふうだったので、彼女はC.Tくんとおなじで日本のアニメやゲームが好きなので会話能力はけっこう高いほうであるけれども勉強は好きでないタイプだからと応じた。四級試験は何人くらい合格できるだろうかという話になったので、うまくいけば十人くらいは合格できるんではないだろうかといった。確実に合格すると断言できるのはR.HくんとR.UくんとT.SさんとR.Kさんの四人。こちらは文法の授業を担当しているわけではないので残りは確実とはいえないが、K先生の言葉から察するに、S.Kさんもおそらく固い。あとはT.Uさん、R.Hさん(彼女については少し基礎が弱いとK先生は言った)、C.Sさん、G.Kさん、S.Sさん、K.Dさん、R.Gさん、C.Kさん、E.Sさんあたりか。仮にいま名前を挙げた学生全員が合格すれば14人ということになるが、さすがにそれはむずかしいか。半分の7人、できれば10人合格してほしい。
 一年生がまずい話もする。1班と2班のどちらがまずいかというので、1班がダントツでまずい、本当にやる気がないというと、1班の授業を担当しているほかの先生もその点を指摘していたとのこと。日本語学科の未来自体どうなるかわかったものではない、来学期新入生がやってくるかどうかすら現状なんともいえないらしいというと、新入生にはもう来てほしくないとK先生はいった。秘密ですよと前置きしたのち、このまま取り潰しになってほしいというので、なんちゅうこと言いだすねんとびっくりして笑ってしまった。中国の女性の定年は55歳。K先生は定年まであと4年。だから仮にいま取り潰しになったとしても定年まではぎりぎりどうにかなる(むしろ新入生がやってきたら負担が増える)。仮に日本語学科がいますぐなくなったとしてもほかの部門で働くことができるだろうというので、K先生も似たことを言っていたなと思ったが、でもその場合は顔が立たないですというので、あ、そういうのもやっぱり面子にかかわるのかと思った。M先生はどこの大学でも通用しますとK先生は言った。うちの日本語学科がなくなった場合は日本に帰国するかもしれませんというと、先生は中国にいたほうがいいです、中国のほうが暮らしやすいです、先生のような日本人と交流できる学生は幸せです、学生たちにとても人気ですからといったのち、もしそうなったらわたしが他の大学を紹介しますと続いた。
 息子さんの話になる。以前ランチをご一緒したときは息子さんが難関大学に入学する前だったか入学したあとだったか、そういう時期だったように記憶しているのだが、いまは大学院生だという。西安交通大学→浙江大学院という超絶エリートコース。しかも専攻は電子工学とのことで、就職に困ることはまずないだろうし、ほぼまちがいなく金持ちになるだろう。大学を卒業した時点でかなりいい条件で就職することもできたのだが、本人が博士過程に進学したいと言い出したので、それを尊重したとのこと。息子さんには中学生のときから今にいたるまでずっと恋人がいたという(同一人物ではない)。もし恋愛していなかったら西安交通大学ではなく清華大学にも進学することができたはずだというので、十分優秀ですよというと、恋愛には反対しなかったという。子どもには自由に生きてほしいからというので、あ、意外だな、そんな考え方なんだとちょっとおどろいた。旦那さんは以前軍隊勤めで単身赴任していたが、いまは(…)市内でK先生と同居している。しかしK先生は以前の別居生活のほうがよかったらしい。旦那さんの故郷は(…)なので、週末はいつもそちらの実家をおとずれて八十代の両親の世話をする必要があるし、いまはどこに出かけるにしてもいちいち行き先を告げなければならない。以前はひとりで気ままに生きることができたのにと残念そうに言う。仮に息子さんが北京や上海のような大都市で就職することになったとして、そっちで同居しようと言われたらどうしますかとたずねると、絶対に行きたくないという返事。ひとりで郊外で生活するのがいちばんいいというので、ぼくも同意見ですと応じた。
 店を出る。腹いっぱい。メシをおごってくれただけではない、毎回そうであるのだけれども手土産まで持たせてくれた。大量のフルーツ。それとなぜか中国の煙草ひと箱。ぼく煙草吸いませんよといったのだが、だったら友達にでもあげてくれという。K先生吸うんですかというと、ものすごく嫌そうな顔でわたしは絶対に吸いません、健康に悪いですからといったのち、でも主人は吸いますと続いたので、これはもしかしたら旦那さんのものを勝手にひと箱くすねてきたということなのかもしれない。別れ際にがぎぐげごの鼻音についてたずねられた。以前S先生が、中国の古い教科書にはがぎぐげごは鼻音であると記載されている、そのせいで変に強烈な鼻音で発音しようとする先生が多いと言っていたのをおぼえていたので、実際のがぎぐげごはほとんど鼻音ではない、鼻音であると意識しないほうがいいと応じた。「科学」や「にぎやか」はどうか? 教科書ではこれらは鼻音と表記されているのだが? というので、実際に発音してみた。たしかにちょっと鼻にかかるが、わざわざそこを意識するほどでもない。
 徒歩のK先生と別れる。后街を通り抜ける。(…)の老板が店の外で煙草を吸っていたので、手をふって軽くあいさつする——その瞬間、あ、このあたりすっかり地元やな、と不意に思った。メシ屋のおじちゃんおばちゃんにしても、パン屋におばちゃんにしても薬局のおばちゃんにしても、みんなこちらをこの都市にたったひとりの日本人として認知しており、優しく接してくれる。きっといつかこの町のことをなつかしく思いだすんだろうな、10年前の日記に描かれている后街の模様であったり学生とのやりとりであったりを読みかえしては気が狂いそうになるほど美しい感情が全身をめぐるんだろうなと思った。
 (…)で食パンを買う。レジのおばちゃんがこちらの手にさげているビニール袋を見て、買い物をしたのかというので、同僚がフルーツをたくさんくれたんだよと応じる。店を出て、新校区に入る。第五食堂の近くにある瑞幸咖啡でアイスコーヒーを打包して帰宅。
 14時半前から「実弾(仮)」第五稿。シーン37は片付いたが、その後全然集中できず、小一時間で作業を終える。その後はなにも手につかず、ベッドでひたすらだらだら。今学期中に中国国内にある資産をいったんまとめて日本に送金するつもりでいたわけだが、円安の進行具合がえげつないことになっている現状、送金は必要最低限にとどめて人民元のままキープしておいたほうがいいのかもしれないと思った。というかこちらが中国に来たばかりのころ1元は15円から16円だったわけだが、いまや21円から22円で、そういうのをこれまであまり気にしていなかったのだが、今日ふと計算してみて死ぬほどびっくりした、いま中国の銀行口座にこちらは15万5500元の預金があるのだが、1元15円で換算すると233万2500円、しかし1元22円で計算すると342万1000円となるわけで、は? マジで? こんなえげつないほど差出るんけ! 円安で得するのは借金持ちであるという話をネットで見たのだが、それでいえば奨学金の借金480万円のうち400万円を返済せずに限界まで返済猶予していたこちらの行動も結果的にかなり幸運な方向にかたむいたというか、こちらが奨学金を借りた当時は超円高だったわけで、あれ? もしかしておれって円安の恩恵めちゃくちゃ受けとる人間なんか?
 K先生から微信。先日提出した追試用の試験問題について、作文問題二題というのはさすがに雑すぎるのでしかるべき部署から却下をくらったとのこと。明日までに作成しなおして再提出してほしいとのことだったので、ネットで適当な文法問題でも拾ってみることにしますというと、N4やN5の過去問であれば持っているというので、それをちょっと送ってもらった。で、その中でも特に簡単な漢字の読み書きに関する問題や文法問題などを30題ピックアップ、各2点で合計60点、残り40点を作文問題とすることにした。これで合格ラインに達しなかった場合はもうどうしようもない。こちらに連絡をよこさなかったK.Kさんに落ち度アリだ。
 あたまが痛かった。カフェインの離脱症状によく似た痛みだったが、コーヒーはしっかり飲んでいる。昼飯を食った店で打包した残りものをインスタントラーメンといっしょに炒めたのを食う。それからチェンマイのシャワーを浴びたのだが、メシ食っても風呂入ってもなお頭痛は続いており、なんやこれ! 明日1組の授業あるからストレスでこんななっとんけ? 店のメシには当然唐辛子もけっこう入っており、そのせいで胃もけっこう熱くなっていた。だから名前もわからんフルーツをドカ食いした。いや、順接の接続詞「だから」でつなぐのもおかしいアレかもしれんが!
 きのうづけの記事の続きを書く。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2023年4月27日づけの記事より。

 きのうづけの記事にひとつ書き忘れていたのだが、帰国のことを考えると、というのは要するに必要な手続きだったり慣れない旅路であったりのことだが、ちょっとそわそわする。そしてなにより、めんどうくさい。もう夏のあいだはこっちで過ごして、帰国は冬休みだけでもいいんではないかと思うことすらあるのだが、(…)の寿命のことを考えると、さすがにそういうわけにもいかないか。根本的に出不精であるし、腰もフットワークも重いし、環境を変えるのにも強い抵抗をおぼえるし、(生の)時間割が乱されることに多大なストレスをおぼえるし、とどのつまり、とにかく動きたくない人間であるのがじぶんで、これと決めた場所で、これと決めた時間割に即して、これと決めたことだけをずっとやっていたい——そういうかたちの欲望を有しているという自覚はずっと以前からある。にもかかわらず、人生をふりかえってみるに(それはつまり、日々、日記を読み返すということであるが)、全然不動を保つことができていない、わりとあちこちせわしなく動いているという印象も(大きめのスパンで見れば)やはり受ける。でもそれは見方の問題であり、読み書きを中心にする生活というコアを維持するべく(不動の一点)、そのほかのどうでもよろしい周縁(住所および職業など)を動かしているということでしかない。Kさんと話すたびに、Mくんはほんとブレないよね、といわれるが、ブレないというよりとにかく動きたくない、別の言い方をすれば、予測誤差による怪我をしたくない、完成された象徴秩序のなかに身を置きたい、退屈に耽溺し、無時間のぬるま湯の中にいたい、そういうことになるのかもしれない。もちろん、老い続けて壊れ続けるこの身体が、うつろい続ける外部環境(世界)が、一見すると準安定状態にあるようにみえるわたしの下部構造をなしているかぎり、そんな夢はかなわないわけだが。

 以下は2013年1月15日づけの記事より。

それでSさんと他にもちょろちょろっとしたことを話したりしたのだけれど、その過程でSさんの奥さんが東野圭吾だかの小説を読んでつまらないと騒ぎ出した、どうしてだとたずねるとこのひとには社会経験がない、社会を知らないから書くものが退屈なのだと言い出したというエピソードが紹介され、だからMくんもある程度は社会との接点を持っていたほうがいいと思うよ、やっぱり読者ってのは大半が勤め人であるのだし勤め人である読書の心に響くのはやっぱり社会を知っているひとの書いた小説だと思うよという話があったのだけれど、そもそもじぶんには別段ひとの心を打ちたいという欲望がないし遊んで暮らせる金さえあるなら別に一生作品を発表などしなくてもよいとわりと本気で考えている。それに社会経験と創作を結びつけるごくごく一般論的なこの手の論理にはいくつもの誤謬があって、ひとつはそもそも小説イコールじぶんの社会経験をそのまま表現するものではないという点で、これは要するに小説というものを作家の主張をがなりたてるための道具やメッセージを媒介する手段すなわち「意味」の箱みたいなものととらえる小説観のちまたにおけるしぶとい残存にほかならないわけだけれど、形式と技術の更新と開発と洗練に興味があるじぶんのような趣味嗜好を持つ人間の書くものは彼らのいう意味におけるその社会的経験とやらと直接的にかかわることはほとんどない、芸術ってのはつきつめていえば美術にしろ音楽にしろ文学にしろフォルムの問題に帰するものだ。それにそもそも彼らのいう社会経験とはいったい何を指し示す概念であるのかという疑問があって、ここからが第二の誤謬にたいする指摘になるわけだけれど、たとえば無職で毎日だらだら過ごしているのらくら者や自室の扉を閉ざして交通を遮断するひきこもりは彼らなりの社会を生きているのではないか、それらもやはりまた社会の一端ではないのかという違和感がじぶんにはあり、要するに「一般社会」に出たことがないから教師や公務員には非常識な人間が多いとする典型的なバッシングがはらみもつ愚かしさと同じ構図にたいする疑義をここで表明しているわけだけれど、それじゃあ学校は、教室は、職員室は社会ではないのか、あるいは病室は、手術室は、診察室は、学会発表の場は社会ではないのかと、そう言いたくなる気持ちがこの手の論理に出くわすたびにじぶんにはむらむらとわいてくるのであり、「一般社会」に所属する身であると自称する者たちだって結局はそれぞれが固有の社会に属しているだけなのであって一般社会などというものは実在しない、そんなものは幻想にすぎない、彼らが世間や一般社会を持ち出して何かを語るときそれはイコール彼ら自身の意見にすぎない、彼らはただ世間や社会という大義の威容を借りたいだけである、掲げた看板の巨大さの陰に隠れたいだけであるという太宰治が数十年前にとっくに指摘していた論法のとおりに愚かしくも彼らはふるまい、そしてそのふるまいにいっさいの疑念を抱かない事実がじぶんにはおそろしくてたまらない。多数決制のもたらした弊害の端的な一例がここに結実している。さまざまな職を転々としてきたひとの体験も、たったひとつの職場で一生を過ごしたひとの体験も、そのはらみもつ豊かさはまったく同値であるというかむしろここでは原理的に構造的に平等であると表現したほうがいいのかもしれないけれど、たとえば知れば知るほど豊かになるとはかぎらず無知であるがゆえにこそ可能な豊かさというものがあることをわれわれは子供の描く絵を介して何度も確認している。カスパー・ハウザーを経由して発見された認識の不思議は彼の非社会的どころか非人間的な長年の体験がうみだした残酷な結晶であるし、ヘンリー・ダーガーのつくりだす独創的なコラージュにおける男性器をもった少女という実に印象的なキャラクターにしたところでそれは生涯女性の裸体を目にしたことがなかった彼の貧しさ=豊かさに由来している。だからたとえば本ばかり読んでいては人間が貧しくなる、実生活においてなまの人間に触れなければならない、と頭の悪そうな一般論を頭の悪そうなドヤ顔で語ってみせる連中もやはり大いなる誤謬を犯しているのであり、体験という共通単位に還元した果てにおいては読書も労働も研究もセックスも制作も犯罪も家庭の営みもひきこもりの徹底もこれすべてみな有無をいわせず原理的に等しいものであるし、豊かさと貧しさは数量的なバラエティに依存するものではない。だいたい知れば知るほど、得れば得るほど、見れば見るほど豊かになるというその考え方というのはいかにも悪しき資本主義にふさわしいのではないか。無知と切断とによって生み出される数々の歪曲、奇形、偏見、不完全さにこそ、むしろ魂は宿るのだ。

 ここを読んでふと思ったのだが、場合によっては社会派的なもの、メッセージの容器という側面に軸足を置いて読まれかねない「実弾(仮)」も、こちらにとってはやっぱり「形式と技術の更新と開発と洗練」の過程で書かれているものなのだ。ポストモダン文学的小説→モダニズム的小説→近代小説的小説という、文学史的に見れば逆行でしかない歩みも、じぶんなりの技術的更新をもとめてという意味でやはり前進なのだ。
 その後、翌日の授業にそなえて必要な資料を印刷し、データをUSBメモリにインポート。ベッドで横になったら頭痛はじきにマシになった。