20240429

 人間は動物のように自分の肉体と直接(無媒介に)関係を持つことができず、言語という媒介を通してしか自分の肉体と関われない。言語とは制度だから人間は必然的に制度が規定する枠内でしか、制限つきにしか自分の肉体と関われないということになる。
 小説、音楽、美術、ダンス……等々すべての芸術が、その制度の存在を知らしめ、それへの疑いを提示して、制度を変えるための方策を少しでも考えるためにあるということは言うまでもない。しかし多くの小説は因果律などの制度による思考法に対する疑いをまったく持っていないために、制度を強化し、「私」や「自分」を制度の枠の内に押し込める働きしか果たさない。
保坂和志『小説の誕生』 p.390)



 9時半起床。学生らから大量に微信がとどいている。まず一年生1班のS.Eくん。作文コンクールについて、構成とタイトルをざっと考えてみたのでチェックしてみてほしいとのこと。構成はほぼ問題なし。タイトルについては稿を重ねる過程で論旨に変更が生じる場合もあるだろうから、完成してからで問題ないのではと提案。2年生のR.Uくんからも作文コンクールについて。こちらとの思い出について書き記したものを応募するつもりでいるらしかったが、初っ端から下ネタだった。つまり、中国語でオナニーのことを打飞机ということについて、カフェでゲラゲラ笑いながら話しあったかつての一幕をそのまま描写し、こちらをいわゆる「型破り」な教師であることの実例として冒頭から紹介するという構成になっていたのだが、これはだいじょうぶだろうかというので、いやさすがにまずいんじゃないかと応じた。こちらが審査員であればまったく問題なしと判断するところであるが、作文コンクールの主催はなかなかお堅いところであるし普通に大使館も噛んでいるようなアレであるので、「実例」を用意するにしてももうちょっと穏健なものにしたほうがいいのではないか、と。R.Uくんの彼女であるS.Sさんからも微信。四級試験の四択問題についてだが、またしても正解が二つある。これも傻逼题目だよと返信。
 外は大雨。雷鳴もゴロゴロ鳴っている。食堂にむかうのが億劫だったので、歯磨きをしてきのうづけの記事の続きを書いたあと、キッチンに立ってトマトスープのインスタントラーメンをまたしても炒面風に魔改造して食した。記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。2023年4月29日づけの記事には古い記事がたくさん引かれていたが、なかなか興味深い記述がいくつかあった。
 まず2011年6月5日づけの記事より。ウェルギリウスの『牧歌/農耕詩』の感想の一部。この手法はそのまま「実弾(仮)」に使うことができる。

《そのとき私は、十二歳の年を迎えたばかり。/もう地面に立って手を伸ばすと、細枝に触れることができた。》というくだりの、文化の背景が見える感じなんか素朴だけれどすごく良かった。世界観を語るための描写ではなく、描写を通して世界観がたちあらわれるような感触(ムージルもよくこの技法を用いる)。

 2011年6月29日づけの記事より。「A」執筆にあたっての心構え。

ある出来事の記述をするに当たって抽象的な語彙を用いるのはまったくもって構わない。ただ、出来事それ自体を抽象化してしまうのは避けるべきだろう。哲学をはじめないこと、つまり、融通の利く概念の幅広さをもってして出来事を処理してしまわないこと。まとめないということ。小説を小説として留まらせること。見栄っぱりな知性がこれを邪魔する。
あるいはこういう書き方もあるだろうという一例。登場人物らのとる行動の論理は首尾一貫している。しかしその論理をむき身の記述として決して表面に浮かびあがらせない。登場人物ら自身に自覚もさせない。「なぜか」「唐突に」「不思議と」といった語が含まれるだけの余白を設けること。これは従来の分析的な記述とは異なる、無意識のあたらしい描き方にもつながる。

 2011年8月2日づけの記事より。

(…)ムージルの「トンカ」と磯崎憲一郎『肝心の子供』の、風景から啓示を受ける場面を読み比べてみたり。風景全体をだいたいの見取り図を描くようにして描写すると時制が消える。時制が消えると途端に説明くさくなる。情報としての風景。それを避けるべくところどころに動き=時制のある細部の描写を挿入する(花の先っぽで翅を休めたのちに飛び立つムージルの蝶あるいは磯崎憲一郎スズメバチ)。いまここにある風景としての出来事。情報と出来事、その割合とリズム。

 2011年8月6日づけの記事より。現代詩文庫『那珂太郎詩集』からの引用。上ふたつはいまさらとりたてて言うほどのことでもないが、みっつ目の「書く行為自体にまで書くことの意味を、後退させざるを得ないのだ」というフレーズはいい。

 思想は、詩作以前に、もしくは詩作以後に、あるべきであって、詩作行為のさなかにあって、作者がそれを語るべきこととしてもつのは、つまらぬことだ。語らんとする規定のことがらのために書くのは、書くことの手段化であり、真に書くといふ名には価しない。

 作者は、書くことにおいて、予め在るところの主張や判断や告白や――一切の自我の表現を、意図すべきではない。何かを語らんがために書くのは、プロパガンダにすぎぬ。よりよく語らんがために書くのは、雄弁術もしくは修辞学に属することにすぎぬ。これに反して、真に書くとは、書くことを索(もと)めることであり、索めることを索めることにほかならない。手段としての修辞ではなく、修辞そのものと化すること。

 作品は、結果にすぎぬ? ――だがまた、作者はあきらかに、作品そのものを欲してるのを否定できない。することの意味はする行為それ自体のうちにあるといふのは、そこに生み出されつくり出されたものの意味を認めないといふことではけっしてない。むしろ逆だ。生み出されつくり出されたものの意味を、究極のものとして認め得ないゆゑに、たぶん人は、書く行為自体にまで書くことの意味を、後退させざるを得ないのだ。

 コーヒーを淹れ、今日づけの記事をここまで書くと、時刻は13時前だった。ひとつ書き忘れていたが、起床してわりとすぐのときに今学期中に中国の銀行口座にある金を本当に日本に全額送金すべきかだろうかと考えたのだった。口座履歴をチェックしたのだが、今年に入ってから日本のATMで引き出した合計金額は61609元で、限度額は年間10万元なので、夏休みに一時帰国したときに35000元はまだおろすことができる。いまゆうちょの口座にいくら入っているのかよくわからんのだが、出国前にたぶん100万円ほどは移動させているはずなので、それに35000元を加えたら年内いっぱいはおそらく十分やっていける。となると、円安がどんどん進行しているいまこのタイミングで、わざわざこっちにある外貨を全部日本円に換金してしまうのはもったいないのではないかと思ったのだ。いや、もともと送金の考えは、国際情勢がこれほどきな臭くなっているわけであるし、なにかしらの有事が発生して口座が凍結されることにでもなったらみたいなリスクを考えてのアレだったわけだし、円安うんぬんではなくてひとまずの保険の意味で、中国の口座にある預金の半額ほどはやっぱり日本に移しておくべきなんではないか? や、でもどうなんだろ。これからも地道に年間10万元ずつATMでチマチマ下ろしていけばいいのか? うーん。まさかじぶんがこんなふうに金感情で悩む人生を生きることになるとは思ってもいなかった。

 「ニュースの原稿」添削の続きにとりかかる。16時になったところですべて片付く。最近はLIBROにドハマりしており、このあいだも日記に書いた記憶がなくもないが、『なおらい』に収録されている“ハーベストタイム”から“シグナル(光の当て方次第影の形)feat.元晴”の流れが特に気持ちよくてしょっちゅう流しているのだが、今日は作文添削の合間に、こんなことをすることはめったにないのだが、わざわざリリックをチェックしていっしょに歌うという、カラオケの練習をする中高生みたいな時間をいくらか過ごしさえした。
 添削に続けて、明日の授業で使用する資料を準備。連休前の最後の授業であるし、授業の前半はいつもどおり清書にあてるとして、後半は「早口言葉」と「定義クイズ」の残りで遊べばいいかなと考える。
 17時をまわったところで第五食堂へ。外は傘なしで強引に突っ切ることのできるレベルではないなかなかの雨降り。出歩いている人影もいつもより少なく、食堂もこころなしか空いているようにみえた。打包して食したのち、30分ほど仮眠。
 チェンマイのシャワーを浴びる。窓の外の暗闇が何度もピカピカっと光る。そのたびごとに女子学生の悲鳴がきこえる。雷鳴もすさまじい。何度かわりと近くに落ちたようだった。しかし地響きを感じるほどではない。モーメンツも風雨と雷鳴の話題が多い。中国の道路はマジで水捌けが悪いので(側溝というものが存在しないし、道路の凹凸もひどい!)、キャンパス内にも道路の端から端までが巨大な水たまりと化している場所が少なからずあり、寮に帰るに帰れないと動画付きで投稿している学生がちらほらいた。
 K先生にもらった果物を食う。きのうも同じものを食ったのだが、やたらとうまく、しかしなんという果物なのかわからない。大きさはみかんくらいなのだが、表皮は葡萄みたいに濃い紺色をしている。かたちはにんにくに似ている(しかしトマトのようなヘタがついている)。紺色のちょっと硬い外皮を剥くと(指で無理やり剥くこともできなくはないが、包丁を使ったほうがよろしい)、中には白くみずみずしい果実が入っており、味はライチに似ているのだけれどもライチよりも甘い。で、これがマジでクソうまいのだ。こちらは普段果物を食べる習慣がほとんどない。中国はもちろん日本にくらべて果物の値段がはるかに安いし、いたるところに果物屋さんや路上の果物売りがいることもあって、学生との散歩中に食べ歩き用にちょっとしたものを買うことはあるけれども、ふだんから冷蔵庫の中に常備するということはまずない。まずないのだが、こいつだったら常備してもいいかもしれない、仮に値段が安いのだったら毎日食ってもいいかもしれないと思うほどのアレで、しかし名前がわからない、そういうわけで写真に撮って三年生のグループチャットに投げてみたところ、すぐにR.Sさんから「山竹(shan1zhu2)」であるという反応があった。「マンゴスチン」とY.Gさんが続けてくれたのに、これがマンゴスチン! これがマンゴスチンなのか! とびっくりした。たぶん日本人の七割か八割はマンゴスチンという果物の存在を耳にしたことはあってもその実物を目にしたことはないのではないか? これマジでクソうまいで! 中学生男子がにやにやしながら口にしそうなふざけた名前とはうらはらにマジでクソうまい!
 北京のR.U先生から質問の微信。北海道の複数の地名を並べたうえでこれらの共通点はなんだろうかとあったが、調べるのもめんどうであるしそもそも質問の主語デカすぎるやろという話であるし、なによりもじぶんが現在所属している博士課程の課題をうちの学生にやらせているというあの話がこちらはどうしたって許せないので、「質問の意味がわかりません」の一言で突っぱねた。おまえの来世は便所コオロギじゃ。くたばれクソ野郎。
 (…)二年生のS.Eさんから頼まれていたスピーチ原稿を修正する。修正したあとに内容に問題があるので書き直しをするかもしれないと言い出したので、内心ひそかにげんなりした。いやそれやったら内容詰めてからおれに添削依頼寄越せよ、と。これもうちの学生あるあるだ。
 続けて、二年生のR.Hくんの作文コンクール用原稿を添削する。一読して「うん?」と思った。彼がチョイスしたテーマは「AI時代の日中交流―プラットフォームの構築を考える」なのだが、これは全部で三つあるテーマのうち、あきらかに難易度が一番高い。にもかかわらず、彼はかなりはやい段階でこの作文を書いて寄越したわけで、その時点でぼんやりした違和感をおぼえていたのだが、中身がまたあやしかった。文章があまりにきれいだったのだ。それにくわえてその内容というのが、あたりさわりのないものであるというか毒にも薬にもならないものであるというか、実に表面的でうわっつらだけ取り繕ったようなものであり、かつ、その文体はビジネスマン用の自己啓発書みたいな調子で、つまり、横文字のやたらと多いです・ます調だったのだが、あれ? これChatGPTちゃうけ? と思ったのだ。R.HくんはVPNを常用しているし、流行りものは大好きであるし、全然ありうる話だ。とりあえず彼にChatGPTやそれに類するAIを使用していないだろうかと問い合わせるメッセージを送り、それから返信があるまでガシガシ添削していくと同時に論旨の弱点や問題点をリストアップしていったのだが、小一時間ほど経過したところで返信があった。図星だった。「先生、すいません、僕は作文を書いてる時に少しわからない部分がChatGPTを利用して書いたんです。AIのテーマですから。」とあった。ピンときた。これ部分的な利用ちゃうな、たぶん出力された文章をほぼすべてコピペしとる。部分的な利用ではないでしょう、出力結果を見せてくださいというと、「作文の仕組みと専門用語はそれを利用して書いたんです。」とあった。逃げている。応募者のなかにはきみのほかにもChatGPTを利用する学生がきっといる、その場合きみとその応募者の原稿が酷似する可能性が高い、すると審査員のほうでもAIが不正に利用されていることに気づく、そうなった場合きみだけではなくおなじ(…)名義でコンクールに参加しているほかの学生にまで疑いがかかることになる、だから出力結果を見せてほしい、ChatGPTの出力結果ときみの寄越した文章がどの程度一致しているのかを確認する必要があると言うと、「作文の仕組みとか専門用語とかほぼChatGPTを利用して書いたんです。」ととぼけた返事。観念しろよバカがと内心イライラしつつ、出力結果を見せなさいと再三詰めた。アウトだった。そのまんま。ChatGPTの提案したアイディアのみならずそのアイディアを説明する文章もそっくりそのままコピペしたうえで、文章の細部だけ微妙にふくらませている。原稿の50%以上がコピペ。さらにChatGPTの提案したアイディア4つのうち1つは作文のテーマにまったく即していないものだったのだが、Rくんはそれもそのまま使っている。つまり、彼はそもそものテーマの趣旨に関する説明文にもろくに目を通していないし、出力結果の文章にもやはりろくに目を通していない。R.Hくんは何度も謝罪をくりかえした。すぐに書き直すとあったが、その必要はないと突っぱねた。R.Hくんは去年もこの作文コンクールに参加しているのだが、そのときもただ自分が好きな日本の古代史の話を延々と書くだけ書いて既定文字数を大幅にオーバー、その点についてこちらが指摘すると、そもそもテーマの趣旨に関する文章に目を通していなかったと悪びれることもなく口にしたのであって、あのね、それはおかしいでしょ、その文章を最低限かたちになるように整えるのはぼくの仕事なんだよとさすがに軽く説教したのだった。もちろん彼の応募作は箸にも棒にもひっかからなかったわけで、来年はちゃんとやりますとそのときは言っていたわけだが、その来年である今年、趣旨説明文に目を通さないどころか文章すら自分の力で書かずに寄越したわけで、おい! 退歩しとるやんけ! クソの役にもたたんその文章をこちらは執筆時間を削って捻出した小一時間を費やして添削した、そのことがなによりもあたまにきてしかたなかったので、キレそうになるのをこらえながら淡々と説教した。彼の一番嫌がるだろう詰め方として「おめーのやっとることはおめーがふだんさんざん批判しとるステレオタイプの人民そのものやぞ」というのがあったわけだが、ひとまずそれは口にせずにおいた。しかしさすがにげんなりする。「作文コンクールのルールにはAIを利用するのが書いていないということで小狡く立ち回りましした。」みたいな小学生でも口にせん弁明をよこすところまでステレオタイプの人民そのものだ。文章のプロ舐めんなカス! ひとを騙すな殺すぞアホが! そう口汚くののしりたくなるが、ただただぐっとこらえた。代わりに「がっかりしたよ」と書き送った。ドアホが。ダボハゼが。おめえの来世はガガンボじゃ。
 この件をきっかけに考えたわけではないのだが、「実弾(仮)」を脱稿したらChatGPTに手伝ってもらって全文英訳し、Kindleストアで販売登録するだけしようかなと思った。『A』や『S』はAIによる翻訳でどうにかなる代物ではないと思うしネイティヴによるチェックが絶対必要だが、「実弾(仮)」は少なくとも文章レベルで誤訳が生じることはないんではないか。プロンプト次第ではそれらしいトーンのもとに統一して訳することも可能だろうし、それでドルを荒稼ぎしたい。
 しかしそれでいえば、南海トラフ地震が発生するまでに「実弾(仮)」をリリースするというのが急務だ。南海トラフ地震が発生してしまったら、こちらは震災と距離のある人物を描くことがおそらく二度とできなくなってしまう、というのはつまり、南海トラフ地震が発生したらこちら自身も直接被災者となる可能性がおおいにあるし、そうでなかったとしても親族のだれかしらが死亡することはおそらくまぬがれえないわけで、つまり、当事者になってしまう(できごとに対する距離はさまざまであるにしてもだれもかれもが当事者である式の論理はここではいったんおいておく)。「実弾(仮)」は非当事者、より正確にいえば、当事者であることを自覚していない、することができない、そういうひとびとの小説であるので、そうした距離のありさまをトレースできなくなってしまうほど圧倒的な当事者に書き手であるこちら自身がなってしまった場合、おそらくその時点でもう続きを書けなくなってしまう、推敲の手も止まってしまう。だからはやく脱稿してリリースしなければならないのだ。この小説にはそういう意味で締め切りが明確にあるということだ。