20240501

論理的なものの由来——どういうところから人間の頭脳のなかに論理が生じたのか? たしかに、非論理的なものからであり、そうしたものの領域はもともと途方もなく広大なものだったに相違ない。しかしわれわれが現在行なっている論理的な推論とは違った推論をしていた無数の存在は滅び去った。にもかかわらずそのほうが、より真であったかもしれない! たとえば「等しきもの」をあまり見出すことのできなかった者——食物に関し、あるいは敵対する動物に関して、——つまりあまりにもゆっくり演繹し、演繹においてあまりにも慎重であった者は、およそ類似したものに出会いしだい即座に等しいものと推定した者よりも、生存を続ける公算が小であった。しかし類似したものを等しいものとして取り扱う優勢的な傾向、すなわち非論理的な傾向——なぜなら本来からいって等しいものは断じて存在しないから——が、はじめて論理学の一切の基礎をつくったのだ。同様に、厳密な意味ではなんら現実と照応しないけれども、論理学にとっては不可欠である実体の概念が成立するためには、長いこと事物における変化が見られないということ、感じられないということが必要であった。精密に物を見ない者は、一切を「変化の流れ」のなかに見るものに対して優位を占めた。本来からいって、推論におけるすべての高度の慎重さ、すべての懐疑的な傾向は、すでに生に対する大きな危険である。もし判断を中止するよりもむしろ肯定し、待つよりもむしろ誤りを犯して作為し、否定するよりもむしろ同意し、公正を期するよりもむしろ断定するといった反対の傾向が異常に強く養成されなかったならば、すでに生きているものはなくなっているであろう。われわれの現代の頭脳における論理的な思想や推論は、それ自体一つ一つとしてみなすこぶる非論理的であり不当であるような衝動の経過と争闘に照応している。われわれは通常ただ争闘の結果を経験するだけなのである。それほど速やかに、かつひそかに、いまやこの太古以来のメカニズムがわれわれのなかで演じられているのだ。(『華やぐ智慧』「第三書」一一一番 氷上英廣訳)
保坂和志『小説の誕生』 p.411-412)



 5月だぜ! 連休だぜ! わっしょい、わっしょい!(ワッショイ、ワッショイ!) わっしょい、わっしょい!(ワッショイ、ワッショイ!)
 9時半起床。今日もすずしい。予報によると最高気温19度。マジでいい加減にしてほしい。さすがにこれだけねばったのだから衣替えしてもだいじょうぶだろうと、念には念を押して夏服以外いっさい着用しなくなっておよそ一ヶ月ほどが経過したタイミングでようやく衣替えをはたしたそのタイミングでまたこのようにぐっと気温が下がる。ほんまに(…)のお天道様はあたまがおかしい。
 雨天ではなし。天気はよろしい。しかし外に出るのがめんどうなので朝食はトースト二枚ですませる。
 11時過ぎから15時まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン39、ちゃちゃっと片付ける予定やったのに、やたらと加筆修正するはめになってしもた。
 書きながら思った。いまはどうか知らないけれども一時期の保坂和志は比喩というものをかなり批判しており、とりわけ描写にあたっては比喩なしでいかにすませるかという苦心にこそ散文の散文性が試されるみたいなことを語っていたようなそうでないようなおぼえが微妙にあるのだが、それでもたとえば、なにかしらの音を描写する必要がある場面で、「〜に似ている音」の意味で「〜のような音」という直喩を使わざるをえない場面はやっぱりあるというか、むしろ愚直に言葉を尽くしてどうにかその音を表現しようとすればするほど、そういう直喩を重ねがけせざるをえないことになる。だからそういうときの直喩は保坂和志がかつて批判していた比喩(=暗喩)ではない。(村上春樹の暗喩が仮に「豊か」であるとした場合)「まずしい」直喩はかなり散文的であるし、その重ねがけ(あれでもないしこれでもないしという換喩的運動)もやはり散文的である。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読みかえす。2023年5月1日づけの記事に以下のような記述があった。

 ウェブ各所を巡回し、2022年5月1日づけの記事を読み返す。2020年5月1日が「『青の稲妻』を数年ぶりに視聴して全カットを書き出した日」と記録されている。つまり、「実弾(仮)」を書きはじめて今日で三年ということになる。もっとも、そのうちの半年間、いやそれ以上か、一年近くになるのか、ちょっとおぼえていないが、それ相応の期間は『S』の大詰めに割かれていたわけだが。

 マジか。「実弾(仮)」、合間に「S」をはさんでいるとはいえ、着手してすでに4年が経過しているのか。4年! オリンピック一回分やんけ! なにをしとんじゃおれは! これから老いていくいっぽうやのに!
 以下は2013年5月1日づけの記事より。当時はこういういらだちに本当にしょちゅう見舞われた。歳をとっていいことのひとつは、わけわからん説教をえらそうにかましてくる年長者が減ることやな。

あのひとはあんなに働いてえらいという言い方があるけれども、こうした言い方にはその前提として、本当は働きたくない、できれば働かずにすませたい、という本音がこめられているようにみえる。あるいはもっとわかりやすいかたちのものとして、あのひとは家族のために身を粉にして働いているだとかじぶんを犠牲にして尽くしているみたいな言い方がある。こうした言い方は、忍耐・我慢・屈従・後悔・殺された欲望の怨嗟を前提することではじめて出てくるものだろう。換言するならば、このような言い方をなんらの抵抗もなく口にできるひとというのは、結局のところ、労働や家庭生活というものにたいして、たとえうわべではどんなきれいごとを口にしていたとしても、本心では絶望に近い感情を覚えているということになる。で、じぶんの知るかぎり、これら「労働」と「家庭」を回避する生活を送っているものをめざとく見つけるなり、ときに酸いも甘いも知る年長者の説教という体裁で、ときに心配の口実を装う慈善家の口調で、しかしながら結局のところケチをつけてみせる類の人種というのは、往々にしてこの手の言説をしきりに口にするものである。要するに、彼らをつきうごかすのは「おまえだけずるい」式の論理でしかないわけだ。自らの労働によろこびを覚えるものならば、自らの家庭に満足を得ているものならば、労働や家庭を語るにあたって、それらとは無縁の生活を送るものにたいして、命令形の言葉で語りかけはしないだろう。ただ、彼らの歓びを気持ちよくすこやかに語るだけのはずだ(そしてその手の言葉というのは受け手にとっても気持ちのいいさっぱりしたものである)。これが、あるいは仕事をしろ、あるいは家庭を持て、というような言説に転じると、まるで話がちがってくる。そこには自らが肩まで浸かって抜け出せなくなっている泥沼に相手をひきずりこもうとする亡者の手口のようなものが見え隠れする。そしてこのひがみ、そねみ、ねたみのどす黒い炎を正当化するのにうってつけの方便として「苦労は買ってでもしろ」という物言いがある(慣用句にはしばしばうすぐらい秘密がたちこめているものだ)。
こういう言い方をするとすぐに早とちりする馬鹿がいてそのたびに辟易するのだが、べつだん働くことが悪いといっているのでもなければ家庭を持つのが悪いといっているのでもない。それらの営みによろこびをおぼえるのであれば、それらの営みを回避する理由などなにひとつない。当然だ。むしろ歓びの在処を無事に探り当てたことにたいして祝杯をあげるべきだ。ただじぶんの場合は幸か不幸か、おそらくは少数派であるというその意味にかぎっていえば不幸なのだろうが、その歓びというのがたまたま「労働」とも「家庭」ともずいぶん隔たった領域でしか獲得できないものとしてあるらしく、そしてそうであるからにはひとまずそのひとけのない辺境にひとり身を落ち着けてみるほかない。その暫定的な帰結としてこの現状があるわけだが、心底では「労働」にも「家庭」にも歓びを覚えていないにもかかわらずそこに歓びがあると自己欺瞞を重ねている一部のヒステリックな人種は、このような経緯を経て営まれているじぶんの生活様式を目にするがいなや、それが自らの欺瞞にさしむけられた攻撃や当てこすり、皮肉や裁きのたぐいであるとの妄念を抱き、その反発から醜い糾弾の矛先をこちらにむけて威勢よくけしかけてくる。これがまったくもってうっとうしい。おまえのコンプレックスを押しつけてくるな、となる。
あるいは頭の悪いバンドマンなどがしばしばサラリーマンは全員クソだだとか結婚したやつはひとりのこらずアホだとかいうようなことを平気で口にしている場面に遭遇することもある。よくよく考えてみるまでもなくわかることだが、この手の連中というのは結局のところ上述したヒステリックな人種をそっくりそのまま裏返しにしただけのドアホにすぎない。そうした自らの安易な立ち位置をしてカウンターカルチャーを気取っているのだから、場合によっては余計にタチが悪いとさえいえるかもしれない。愚の骨頂だ。どぶくさいニヒリズムだ。こいつらにはなにひとつ期待してはいけない。徒党を組んだのち落伍するのが連中の末路である。

 以下は2014年5月1日づけの記事より。

 星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠が飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである。
梶井基次郎「交尾」)

 これ、似たようなシーンを「実弾(仮)」でも書いている。川原でコウモリが飛び交っている描写があるのだ。しかしそのシーンは夜ではないので、「瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられる」という完璧な文章とは別の角度から描写をせざるをえなかったのであり、と、ここまで書いたところで、いったいどんなふうに描写したんだっけと疑問に思ったので原稿を確認してみたところ、「(…)橋の下から離れると、アスファルトの路面より一段高くもうけられた格好で、芝生の広場がはじまる。遊具もなければ、公衆トイレもない。河川敷の大部分を占めるその芝生は、階段をおりた先に敷かれた川原と並走するかたちで、上流方面と下流方面、双方にのびひろがっており、その上ではコウモリが、泳ぎの下手な人間みたいにバタバタとせわしなく翼を動かしながら、低い空にジグザグの円を幾重にもむすびそこねている。」とあった。うーん。
 月末恒例の進捗チェックもする。3月末の時点で607/1107枚だった原稿は4月末の時点で797/1109枚。はかばかしいとはとても言えない。まあ、でも、あと300枚ほどで第五稿も終わりか。うまくいけば今月中、それが無理でも来月中には終わるな。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は16時だった。メシを食うために外に出ることに。おもてはかなりすずしいのでひさしぶりにレザージャケットを羽織る。ケッタでTへ。時間帯が時間帯だったので店はガラガラ。厨房のおばちゃんが冗談半分であんた連休なのに帰省しないのかというので、金がないから無理だねとこちらも冗談で応答。牛肉担担面の大盛りを食す。食事中は出かけるまえにKindleストアでポチった『みどりいせき』(大田ステファニー歓人)をちょっとだけ読んだ。プッシャーに焦点を当てた小説という情報を事前に得ていたので、「実弾(仮)」の参考になるかもしれないと思ったのだ。
 食後は隣接しているYへ。連休初日ということもあって店の前の広場にはテントが設営されてなにかしらのイベントが開催されているし、中に入ったら入ったで商品の販促イベントや福引イベントがやはり催されている。顔認証ロッカーにリュックをあずけ、日本のものよりひとまわりデカい買い物かごを手にさげ、まずは飲料水コーナーでレモンジュースを手にとる。オートスロープで二階に移動し、歯ブラシと冷食の餃子と出前一丁の海鮮味を買い物かごにぶちこんでから一階にもどり、ふだんにくらべるとやはりちょっと混雑しているレジを避けてセルフで精算。ロッカーからリュックサックを取り出して帰路へ。北門から新校区に入ってほどなく、先日Lとこちらと三人で小一時間立ち話をした新入りの外教であるEがひとりで歩いているのを見かけたが、捕まったらまた延々と話しこむことになりかねないので、相手の存在に気づいていないふりをしてケッタのペダルを鬼漕ぎした。
 帰宅。ベッドに移動し、『みどりいせき』(大田ステファニー歓人)の続きを読み、30分の仮眠。チェンマイのシャワーを浴びたのち、R.Uくんの作文コンクール用原稿の手直し。文章を修正し、構成上の問題点などを書き出し、おそらくすでに故郷にいるだろう彼に送信。それから卒業生に送る手紙の構成を少しだけ考える。
 『みどりいせき』(大田ステファニー歓人)の続きを読む。今日中にすべて読むつもりでいたのだが、読みはじめてほどなく、一年生1班のS.Bさんから微信がとどいた。「先生」「メーデーハッピー」「遊びに行ったの?」と。一年生から個人的に連絡がとどくこと自体めずらしいのでやや面食らったが、彼女からは春節にもあけおメールがとどいていたので、節目のあいさつを重視するタイプなのかもしれない。今日はどこにも出かけていないと応じると、じゃあ今度いっしょにどこかに出かけましょうみたいな返事があったので、これもまためずらしいなと思った。S.Bさんは大多数の学生と同様帰省中のようす。今日は『SPY×FAMILY』の映画を観に行ったという。母が姪っ子らにやるお年玉用に買った『SPY×FAMILY』のポチ袋の残りを中国に持ってきていたことを思い出したので、こんなのもあるよと写真に撮って送ってやると、やたらと興奮しているようすだったので、じゃあ今度一枚あげるよと伝えたところ、「助けて!これは本当かどうか?今はあなたの大ファンです。」という返信があり、この「助けて!」は「救命」を機械翻訳したものだろうなと思った。「明後日、私は親友と買い物に出かけて、先生に私たちのここの特産品、(…)特産品を持ってきます」とあったので、じゃあそのお土産とポチ袋を交換しましょうとなったのだが、ところで、(…)ってどこやねんとググってみたところ、(…)市であることが判明。「一つはっきりさせなければならないことがあります。その彼氏と別れましたが、先生にこの秘密を守ってもらいます」とメッセージが続いた。「その彼氏」というのは、授業中に何度か話題に出たことがある年上の彼氏のことだろう。社会人であり、金持ちであり、しかるがゆえに彼女の分のみならず彼女のルームメイトの分もまとめてミルクティーを外卖してくれたことがあるのだという話を以前S.Mくんが教えてくれた。相手が何歳であるのかは忘れてしまったが、たしか二十代半ばで、S.Bさんはおそらくまだ十九歳だろうから仮に五つか六つ上であるとすると、これはうちの学生ではあまり見たことのないパターンだ。中国の若者は日本の若者にくらべると歳の差のある恋愛に抵抗があるというイメージがある。歳の差が四つ五つある程度でけっこうみんな「え!」と驚くみたいな、そういうアレなので、S.Bさんなかなかめずらしいパターンやなァと思っていたのだが、その彼氏と破局したわけだ。先週の授業か先々週の授業でもその彼氏の話がクラスメイトの口より出たのだが、実はそのときすでに別れていたので、内心ちょっと気まずかったという。破局の原因はきいていないが、悲しくはないし傷ついてもいないとのことだったので、だったらよし! ほか、高校時代には体重が124斤もあったという話も出た。124斤ということは62kgだ。S.Bさんはかなり小柄な女の子だが、それで62kg? ウソでしょ? という感じ。高校時代の写真を複数枚送ってくれたが、そんなに太っているようにはみえない、ただいまの彼女とくらべるとたしかに顔がちょっと丸いかなという程度。ふるさとに遊びにきてほしいというので、いつか行ってみたいなというと、そのときは自分がきっとガイドをするという。ふるさとのひとびとはみんなドギツイ方言を話す、翻訳アプリを使ってもコミュニケーションをとることはむずかしい、老人は特にそうだといったのち、今日の午後もおばあちゃんのうちへ行ったのだが、なにを言っているのかあまり理解できなかったと続いたので、中国のこういうエピソードはマジですげえよなァ、ほんま大陸のスケールやわと思う。それから美人のいとこの話も出た。いまは中学二年生なのだが、もうすぐ婚約するのだという。は? となった。これはもしかしたら翻訳アプリのミスで、実際は中学二年ではなく高校二年なのかもしれない——いや、でもそれでいったら、三年生のC.Mさんのいとこも最近金持ちのおっさんと結婚したが、たしか中学を卒業してまもない年齢ではなかったか? や、ちょっと待て、そもそも中国で結婚可能な年齢は男性が22歳で女性20歳だったのでは? だからこそ「結婚」ではなく「婚約」なのか? 内陸部の農村では中学生ぐらいの女の子が花嫁として身売りされていくこともざらにあるときいたことがある。「彼女はあまり良くないことを経験しました」とあったので、若いうちから遊びまくって妊娠出産みたいな話なのかなと思っていたところ、「彼女は中学1年生の時、両親が浮気をした」「そして、彼女の両親は離婚しました。彼女は祖母と喧嘩して夜中に家を出て、悪人に犯された」というエグい話だったので、マジかとおもわずモニターの前で顔をしかめた。一瞬そのレイプした男と結婚させられたみたいな胸糞悪くなるような話ではないだろうなと思ったが、どうやらそういうことではないようだった。S.Bさんは「私には多くの中学校のクラスメートが結婚し、一部は子供がいます」と続けた。どうも彼女の故郷は相当田舎らしいぞと思った。いや、(…)市という時点でかなりの田舎であることはまちがいないのだが、もろもろの情報から察するに彼女の地元はガチの農村っぽい。それでいえば高校時代太っていた彼女が痩せたきっかけとして「大学入試がうまくいかなかったので、1か月間再読に行って、10斤余り痩せた」とあったが、この「再読」というのは四年生のC.IさんやG.Tさんもかつて参加していたものではないか? 少数民族である彼女らは高考で失敗してもその後一定期間講義を受講することで大学に入学することができるという制度を利用することができたはずで、いや、でもそれは一年単位ではなかったか? 一ヶ月間ではなかった気がする。そもそもS.Bさんが少数民族であるかどうかはわからない。しかし話を聞くかぎり、農村の少数民族であってもおかしくはない環境だ。しかしいちばんショックだったのは彼女の母親がこちらとおなじ38歳であるという事実だった。ついに、ついにこのときがやってきたのだ! じぶんの受け持ちの学生の両親とこちらの年齢がひとしくなるこのおそるべきときが! S.Bさんの母親は19歳のときにS.Bさんを産んだという。19歳のじぶんはなにをしていた? 地元を出て京都で暮らしはじめ、本を読みはじめてはいなかったかもしれないが、ブログはすでに書きはじめていたのではないか? 左耳にはまだピアスホールがたくさんあったと思う。そうか、あのころのじぶんが親になっているのか。信じがたし。

 その後も『みどりいせき』(大田ステファニー歓人)の続き。半分ほど読んだ。読む前の事前情報として文体がかなり特異であるとかその文体に慣れるまではなかなか読みづらいとかそういうのを目に耳にしていたけれども、いや全然そんなことないやんけというのが率直な印象。会話文で特に多用される若者言葉——その大半は当然こちらも知らない——と、物語がぐぐぐっと動きはじめて以降のふんだんにちりばめられた大麻まわりの隠語やスラングの存在、そしてそれらの言葉をちゃんと説明しないままにするという作家としての正しい選択のことを(ほかでもない若者である語り手が若者言葉をみずからパラフレーズすることがあればそれはおかしいし、大麻まわりの文化をなにも知らないとされる語り手がほかの面々らの口にする界隈の隠語をやはりパラフレーズすることがあればそれもおかしい)、文体の斬新さみたいな雑な言葉で表現しているのかもしれないけれども、これは読み手の(若者言葉や界隈の隠語)にまつわる知識のブランク次第でそうと感じられるだけの問題であり、たとえば医療の現場を舞台にした小説があるとしてそこで頻出する専門用語であったり登場人物らが緊迫した場面でとる行動の論理であったりが注釈なしでそのまま描かれていたらおぼえるだろう困惑とおなじ種類の困惑であって、それを文体という言葉でくくるのはおかしいんではないかという違和感がある。いや、文体という言葉自体どう定義すればいいのかむずかしいところはあるのだろうし、そもそもあいまいな概念であるのだから、そんなことすべてわかったうえであえて文体という概念にこの小説から得られる感触をもろもろ帰して表現しているのかもしれないが、素人ならまだしも小説を読み書きしているプロがそうした雑な仕事をするのはいくらなんでも適当すぎるんではないかという違和感はやっぱりおぼえるし、それを文体と呼んでしまうとモダニズムやヌーヴォーロマンの技術的な蓄積はいったいなんだったのかということになる。仮に語りと登場人物と読者の距離(共犯関係の程度)こそが文体であるとした場合(というのはこちらが文体というものをだいたいそのようなものとしてとらえているからだが!)、この作品の文体はかなりオーセンティックであり、上にも書いたけれども若者である語り手のモノローグで若者言葉がパラフレーズされずそのまま使用されている点にしても、プッシャーの面々が交わす隠語だらけのやりとりをほとんど窃視者の視点からただ傍観するにとどめている点にしても、一人称小説のお手本みたいなものであるし(モダニズムやヌーヴォーロマンであればむしろその一人称の輪郭を破綻させる方向にいくだろうし、特異で読みにくい文体というのはむしろそのような非人間的な語りからなる小説だろう)、そういう意味ですごく巧い、きわめて真っ当な、地に足のめちゃくちゃしっかりついた小説だと思う。