20240502

諸君にして、なんらの目的もないということを知るならば、諸君はまたなんらの偶然もないということを知る。なぜなら、ただ目的の世界と並んでのみ「偶然」という言葉は意味を持つからだ。(…)(『華やぐ智慧』「第三書」一◯九番 氷上英廣訳)
保坂和志『小説の誕生』 p.414)



 10時半起床。トースト二枚とコーヒーの朝食。
 12時半から16時半まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン39をふたたび加筆修正。主に会話を増やした。第六稿では(無意味な)会話を倍増させる計画を立てている。目的地ありきで進行しているようにみえる会話文がやはりまだまだあるので、そのあたりをもっとリアルな会話に寄せたいのだ。シーン40もあたまから尻まで通した。むずかしいシーンのはずだったが、ほぼ完璧に書けていた。細部の表現をいくらか修正するだけでよし。すばらしい。
 「実弾(仮)」という小説の特異な点があるとすれば、全編長回しで撮った映画のように動いているところだよなとふと思った。いや、そもそも場面(時空)が転換するたびごとにシーンを切り替えるという造りにしているので、そういう印象を受けるのも当然といえば当然なのだが、この長さでそのような〈法〉を徹底している作品は意外になかなかないのかもしれない。登場人物の内面に踏み入れることもそれほどないし(初稿の段階ではかなり禁欲的だったが、さすがにそれはコンセプチュアルすぎるというわけで、第二稿からは慎ましやかに加筆し続けている)、当然回想に浸る時間も少ない、結果として時間の経過速度が一定であるというような読み心地をおぼえる。

 執筆中、R.Uくんから微信。作文コンクール用の原稿について。過去の受賞作を確認してみたところ、どんなテーマであれ日中関係について言及しているものが多かったという。じぶんの作文はそのあたりに対する言及がない、だから受賞することはできないのではないかと続けるので、そんなこともないんではないかと思ったし、別に書きたいように書けばええんちゃうかというあたまもないことはなかったのだが、R.Uくんとしてはやはりどうせ書くのであれば賞がほしいという。だからといって一から書きなおすとなると大変であるし、せっかく本心から書いたものを受賞狙いでボツにするのもつまらないしということで悩んでいるふうだったので、きみはしょっちゅうぼくのことを中国人の先生とは全然ちがうというでしょう? その日中の教師像の違いみたいなところについて加筆すればいいんじゃないの? そうすればぼくとの交流について書いた元々の文章をいかすこともできるでしょう? と提案した。R.Uくんはかなり真剣に考えてあたまを悩ましており、こういうのはどうだろうか? こういうのはどうだろうか? とたびたびこちらに微信をよこした。そのために執筆の最初の一時間はほとんど使いものにならなかったのだが、いやでもR.Hくんとの差はここだよな、ChatGPTの出力した文章を丸写しでよこす人間とはそりゃあ地力の差が生じるよなと思う。一年生のときはR.HくんのほうがR.Uくんよりはるかに日本語能力が高いという印象があったのだが、いまは会話にしても作文にしてもその差をほとんど感じないし、N1なんてR.Uくんのほうがずっと高いスコアを記録している。
 メシ。連休中どこの食堂が営業しているのかわからんのでひとまずケッタで移動。まずは第五食堂をチェック。営業していた。しかし二階は昨日と今日の二日間休業との張り紙がある。一階の店はあんまりなんだよなと思いながらのぞいてみる。テーブルを占めているのはほとんどが食堂のスタッフ。学生らしい姿はちらほらとしか見当たらない。どれにしようかなとうろうろしていたところ、広東料理の店を発見。かつて第三食堂の二階にあった店だ。鴨肉を切ったやつを野菜といっしょに白米の上にドーンとのせてくれるこちらのお気に入りの一品だ。即断。厨房のおばちゃんがあんた何年くらい中国にいるんだというので、五年か六年くらいだ、もう忘れちまったと適当に答える。
 帰宅。打包したものを食す。うまい。ベッドに移動して30分ほど寝る。チェンマイのシャワーを浴び、K先生にいただいたブルーベリーを食し、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事の読み返し。以下は2023年5月2日づけの記事より。まあまあ野蛮なこと書いとる。

フリースタイルって最初の10分くらいがいちばん調子がよくて、30分を超えるとさすがにもうだらけてくるというか、言葉もやせほそってくるし、噛んだり詰まったり言い間違えたりする頻度も上昇するのだけど、そういうぐだぐだな状態におちいっているときにふと、あ、これってもしかしたら精神分析の代替手段になりえるかもしれんなと思った。知を想定された主体が不在の場であれば、どれだけ言葉を吐きだし連ねたところで意味などないのかもしれんが、それでもビートやリズムという外圧によって無理やり絞り出されることになる言葉には、その意外性とその凡庸さの両面において、あとになってほかでもないその言葉を口にしたこちら自身に、なんであんなこと言ったんや? と戸惑わせるものがときどきあるのだ。疲れが蓄積し、言葉が痩せほそり、それでも無理やり絞りださなければならないから絞りだした言葉が、ときどき自分をつまずかせるものであったりする——その言葉をたとえば無意識のあらわれであるとあえて俗流に解釈する前提に立つとき、フリースタイルという形式そのものが自身の無意識をあらわにする場であるという認識が成立するとともに、その場こそがほかでもない知を想定された主体として機能しはじめ(「この場はわたしの無意識の媒介となる」という思い込み=転移の出現)、アクロバティックな分析空間がたちあがる、そう言ってみることはできないだろうか? 楽曲の単位が(短時間)セッションを模し、小節が切れ目を模し、うまくつなげることができずどもるだけになってしまった箇所が、セッションを終えたあともなお残る秘密の暗示として、その後の時間を喉に刺さった小骨のように不愉快に刺激し続ける。

 そのまま今日づけの記事も途中まで書く。22時になったところで中断し、代わりに「ニュースの原稿」の清書を添削する。あいまに出前一丁をこしらえて食す。ひさしぶりに日式拉面を食ったら連想が働いたのか無性に寿司が食いたくなった。帰国までおよそ二ヶ月半。意外にまだまだ先だ。なんとなくあともうちょっとで帰国というイメージがあったのだが、全然そんなことないな。今学期の授業自体は三分の二ほどすでに片付いているし、たぶんその感覚にもとづくイメージなんだろうが、授業が終わっても期末テストがあるしペーパーワークがあるし、なにより夏休みに入ってからもスピーチコンテストの夏期特訓がある。めんどくさいけれどもこれも「銭儲け」(Jさん)のためだ。
 食後、添削の続き。すべて片付くと時刻は1時だった。寝床に移動直前、ポール・オースターの訃報に触れた。オースターの存在を知ることになったそもそものきっかけは学生時代に『ムーン・パレス』をFにすすめられたことだった。『ムーン・パレス』は翻訳と原文両方読んだ。あとはニューヨーク三部作のどれかを原文でのみ読んでいるはずなのだが、どれだったっけと思ってKindleをチェックしてみたところ、どこにも見当たらない。それで思い出したのだが、オースターの作品はKindleではなく紙の本を買って、電子辞書をひきひき読んだのだった。ちょうど不安障害と鬱症状であたまが半分ぶっこわれていた時期だったはず。(…)の客室で全然眠れないまま英文を追っていた苦しい記憶がある。
 『みどりいせき』(大田ステファニー歓人)を最後まで読む。すばらしかった。LSDのトリップをタイポグラフィカルに表現しているところがいい。阿部和重も『シンセミア』で大麻によるトリップをタイポグラフィでうまく表現していたけれども、大麻による酩酊をフォントサイズの変化であらわすのであれば、LSDによる変性意識をあらわすには字組・段組総動員してここまで過激にしなければ釣り合いがとれんよなと納得。「実弾(仮)」の目指すべきポイントがあらためて確認されたという意味でも有意義な読書だった。つまり、画にならない瞬間、場面、やりとりを描くという「実弾(仮)」の方針はまちがっていない。『みどりいせき』は画になる不良たちの話。「実弾(仮)」はそうではない。どこまでもダサく、どこまでもどっちつかずで、だれにも命名されない人間の話。「きみらのことは誰も詩に書かない」(岩田宏)そのきみらを書いた小説であるべき。然り。