20240503

 フロイトは人の心の中に刻まれた父親との関係を見ているうちに『オイディプス王』に行きあたったわけだけれど、そこで『オイディプス王』は原型とか原理のようなものとなって、オイディプスの心理を父との葛藤で読んだりはしない。フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を説明する原型になることだ。
 現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。それがフィクションであって、現実によってリアリティの保証を得るのがフィクションではない。
 そしてフィクションの中の人物たちが魅力を持つのは、本人の意志ぐらいではどうにもならない外的要因が人物の可能な選択肢を極端に制限することと、『善悪の彼岸』でニーチェが言っている「性格を有する者は、繰り返し現われる自分の典型的な体験をももつ」という意味での性格が与えられていること——つまりこれもまた本人の意志ではどうにもならない——の二つが、提示されていることなのではないか。
 そしてじつは私は、現実に生きている人間もそのようなものだと思っている。人間というのは、「あれもできるこれもできる」という可能性に開かれた存在ではなくて、「これしかできない」というなけなしの選択肢を受け入れる存在なのだ。
保坂和志『小説の誕生』 p.427-428)



 10時半起床。朝食はトーストとコーヒー。
 12時から16時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン41を会話文中心に加筆。かなりよくなった。完成にはいたらず。
 きのうづけの記事の続きを書く。17時になったところで中断し、雨の降るなか第五食堂へ。きのうに引き続き広州料理を打包しようと思っていたが、今日と明日の二日間は一階の店が休業らしい。それで二階の店で打包。
 帰宅して食す。ベッドで30分仮眠。チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下は2023年5月3日づけの記事より。

(…)しかしR.Sさん、前々から思っていたけどちょっと雰囲気が卒業生のS.Aさんに似ているんだよな。顔立ちそのものもそうであるし、タッパがあるところもそうであるし、それにくわえて今日のあのふるまい、ちょっとおどけた感じのちょこちょこした小走りでこちらの前にやってくるあのひとなつっこい感じが、なつかしい姿にやたらと重なってみえた。こうして同じ場所で同じ年頃の学生ばかり相手にしていると、たとえば初顔合わせとなる新入生を前にしてもその子自体の印象がせりだすよりも、それまでに出会った学生との類似のほうが先にせりだしてくる、そういう感覚は去年あたりからことさら頻繁におぼえるようになった。いや、もともと人間の認知のデフォルトとはそういうものであり、そしてそういうものであるそのありかたが、同じ性別(日本語学科の学生の大半は女子だ)・同じ年頃・同じ出身地と、複数の属性が重複しているがゆえに必然的にその(ささやかであるからこそきわだつ)差異が目につくことになる集団を相手にしつづけるこの環境においてはことさら強く対象化されるということなのかもしれない。
 それにしても「いつの日にかみんなどこかへ消えてしまう気がする」(ブランキー・ジェット・シティ「水色」)という感じだ。本当に卒業とともにみんな消えてしまう。ここは田舎だから。ほとんどすべての学生にとっての止まり木でしかないから。「伝えなくちゃその気持ちを」のかわりにただ日記を書く。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は21時だった。作業中は『botto』(野口文)と『クマと恐竜』(アオとゲン)を流した。『クマと恐竜』、すごくいい。住宅街を散歩中に知らないうちからきこえてくるつたないピアノの音こそが最良の音楽であるという意味でこのアルバムは最良の一枚。

 「幸福の瞬間」の脚本を最後まで詰めなおす。「ニュースの原稿」のおもしろ回答をピックアップしてまとめる。終えると23時だった。以下、来週の授業で紹介する「ニュースの原稿」回答例。

(…)

 しかし連休中はゆっくりできるだろうと思っていたが、結局こうして毎日やるべきことがあるわけであって、普段とあんまり変わらない、作文の時間をいつもより一時間ほど多めにとれているだけだ。連休明けとなるといよいよスピーチもはじまるだろうし、作文コンクール用の原稿も続々と届くだろうし、四年生らも大学にもどってくるし、なにより教案のストックも切れてくるしで、ここがおそらく正念場になる、6月まではかなりバタバタすることになるんではないか。あー、いやだいやだ。
 海鮮味の出前一丁をまた食う。寿司と天ぷら食いてえちくしょう。二年生のC.Sさんから山盛りのザリガニの写真が送られてくる。故郷で食した今日の夕飯だという。クソうまそう。
 

 
 ついでなので、先日一年生1班のS.Bさんから送られてきた高校時代の写真も掲載。S.Bさんはニット帽をかぶっている子。
 
(…)
(…)
 
 二年生のC.Rくんからも微信。明日いっしょに夕飯を食べましょう、と。K.Kさんもいっしょにということだろうが、なぜあのふたりはデートにこちらを巻き込むのか? ふたりでしっぽりやってくれ! しかし前回も断っているので夕飯くらいならと了承。先生の部屋で料理を作っていっしょに食べましょうとあったが、そうするとかなり長期戦になりかねないので、それはできない、まだまだ仕事がたくさんあるのでと、これについては断った。外でちゃちゃっと食って、ちゃちゃっと解散でいいのではないでしょうか!
 その後、書見。『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きをひたすら読み進める。手隙の時間を利用してちびちび読んでいるわけだが、なんとか今学期中に片付けることができそう。