20240505

 私たちは空間と時間を二つの要素とか基盤のようなものとして区別して考えがちだけれど、最初に書いた脳のプロセスに戻るとバラバラの電気信号として入ってきた情報を統一された物体の像に定着させるのは脳の中に蓄積されているデータ、つまり記憶だ。視覚は実際のところはたいして解析力にすぐれたものではなくて、そこそこのところで信号の処理を記憶に受け渡してマグカップなり何なりということにする。そのいい例が地面や壁に映った影を見たときで、「木の葉」だとか「電柱」だとかといった判断をくだしているのは、視覚でなく記憶の方のはずだ。私なんかは昼間でも道路にボロ切れのようなかたまりが投げ出されたように落ちていると、「猫が死んでる!」とまず思ってしまう。ということは、私たちは空間を見るときに経験=時間を見ているということになる。
 なんと言えばいいか、純粋な空間というようなものはなく、空間とは一瞬であっても長い長い時間が展開される場なのではないか。しかしこうして文字として書いてしまうと、私が書く前に感じていたことが裏切られた気持ちしか生まれてこない。
 私たちは手近なところにあるひじょうに貧弱な物や現象をモデルにして、世界像や概念的なことをイメージしてしまう。
「宇宙は半径が一五〇億光年だ」と聞くと、空間に風船か靄のようなものが浮かんでいるところを想像する。そして「宇宙の外はどうなっているんだ?」と思う。あるいは、「宇宙のはじまる前や宇宙が終わった後はどういうことになるんだ?」と思う。
 これは明らかにイメージの元となったモデルが間違っている。宇宙というのは風船や靄のように形があるものではない。では、どういう物からイメージすればいいのか?
 イメージしようとしてはいけないのだ。きっと。
 宇宙には「外がない」のだから、それは外を持たない何かでなければならない。そんな物は手近なところにひとつもない。
 それがなくなったら「ない」すらなく、それがはじまる前にも「ない」すらない物なんて、人間は経験の中で出会うことができない。
 視覚的なイメージが生まれるのを遮断する訓練が私たちには必要なのではないか。視覚的なイメージやモデルは私たちに時間の展開を不思議なほど喚起させない。年表のように直線上に項目を並べた図を見て私たちは時間を何か感じるだろうか。そういう何も時間を感じないものを見て、それが時間についての何かを語っているかのような教育を私たちは受けてきた。
保坂和志『小説の誕生』 p.456-457)



 11時起床。生活リズムの乱れがまずい。今日は夕飯後の仮眠なしですごす。朝食はトースト二枚。
 12時半から「実弾(仮)」第五稿作文。16時に中断。今日もひたすらシーン42の加筆。第二稿とくらべてみたらまったくの別物になっていて(重複する文章を探すほうがむずかしい)、ちょっと笑ってしまった。ちなみに初稿はシーン42まで達していない。
 連休はやっぱりいいなと思った。授業がないし学生とも顔をほとんど合わさないので、脳みそをずっと小説モードのままキープできる。執筆から次の執筆までのあいだに余計な情報が入ってこない感じ。(…)時代ってずっとこんなふうだったよなと思う。だからこそ当時のじぶんのレベルでは考えられない「A」を書きあげることができた。いや、そうじゃないか。単純に朝イチで作文できるのがいいのかもしれない。やっぱ仕事やめたほうがいいかなとちょくちょく思う。夕方から深夜にかけて週に二日か三日だけバイトする生活がいちばんしっくりくるんではないか。
 ところで、コーヒーを淹れているときにふと、「実弾(仮)」をうまく書きあげることができたら自分の人生を肯定できるんだなと思う瞬間があった。ここでの人生とは個人としてのそれではなく作家としてのそれというわけだが、Sとの出会いや(…)で働くようになって以降の根源的な変化、つまり、読み書き以外の時間は基本的に「迷惑で不必要」(BADSAIKUSH)という方針というか価値観が撤回されるにいたったその変化を、個人としてのこちらは豊かなものであると受け入れているものの、いっぽう作家としてのこちらは部分的に疑問に感じている、あの当時のまま読み書きだけに集中してこの十年を過ごしていればもっといいものを書けていたのではないかという疑念をどうしてもぬぐえずにいる、その疑念その迷いを、「実弾(仮)」というまさにくだんの変化をこうむったここ十年の経験にもとづいて書かれている小説を完璧なものに仕上げることによって、こちらはきれいさっぱり払拭することができるのではないか? いかにも神経質で完璧主義者的なまずしい発想であるが!

 (…)二年生のS.Eさんから微信。スピーチ原稿の録音をお願いしたいという。N先生からは原稿の内容があまりよくないと言われたと続ける。暗にこちらに修正をもとめるふうだったので、こちらができるのは文章の添削だけであり、内容そのものについて変更をほどこすことはできない、それをしてしまうと結局一からこちらが書くのとおなじことになるからと釘を刺した。S.Eさんの寄越した原稿は「私の大学生活」がテーマであるのだが、作文に「正解」があるという教育を長年受けてきた中国の学生に手になるものとしてまったくもって典型的な、具体的で個人的なエピソードがなにひとつ書かれていない、全篇が抽象的なスローガンや最大公約数的なきれいごとにとどまるもの、そういう意味でほとんどAIが書いた文章のような感触を読み手にあたえるものだった。

(…)

 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回。そのまま今日づけの記事も途中まで書く。17時をまわったところで第五食堂をおとずれて打包。食後は1年前と10年前の記事を読み返す。
 チェンマイのシャワーを浴びる。一年生の学習委員に来週の授業で使用する資料の印刷をお願いする。卒業生への手紙を書こうとするが、WPが枯渇しているのか、まったくあたまが働かないようだったので、これは後日にまわす。
 メールボックスをチェックすると、Wさんからメールがとどいている。『手のひらたちの蜂起/法規』(笹野真)の読書会が開催されるとのことで、そのお誘い。オンラインでも参加可能とのことだったが、規模にもよるだろうけれどもVPNを噛ませた状態で参加するのはたぶんむずかしいだろう。それにくわえて、連休明けからは今学期の山場がひかえているわけであってかなり忙しくなるだろうと思われるので、これはお断りすることに。しかし読書会の模様はけっこう気になる。
 あと、これは返信にははずかしくて書かなかったが、と言いつつその内容をここでこうして書いてしまうわけだからそのはずかしさも無意味やんけという話であるのだが、読書会というものに対する気後れがどうしてもある。そもそもこちらは小説や詩について他人と言葉を交わすという経験をほとんどもったことがない。それこそWさんやFくんやSさんと会ったときくらいではないか? Wさんとはこれまで三度か四度、Fくんともやっぱり三度か四度、Sさんとは一度会っただけで、しかもそのうちの一度は全員同席の場だったわけで、そう考えてみるとマジでこれまでじかに対面した人間とこころおきなく文学だの芸術だのについて語り合ったという経験が、こちらは人生を通じて五回程度しかないということになるのでは? いや、映画についてはいちおうKさんと二度か三度カフェで話した記憶があるし、音楽も対象にふくめればもうちょっと増えるかもしれないが、文学というものについて他人と本気で言葉を交わした回数はマジで数えるほどしかないし、最後にそういう話をしたのはたぶんFくんと数年前にスカイプしたときになるのか? と、書いていて思ったが、そうか、Fくんとはこれまでに何度かスカイプでだべったことがあるから、それも回数にふくめればぎりぎり十回にはとどくのかもしれない。いずれにせよそういう人生を送ってきた人間であるので、実際に本を読み書きしている初対面の人間複数と同席してそこでなにかを話すというその経験の未知っぷりに、どうしたってちょっとイモをひいてしまうのだ。辺境を享楽する人間の業やでほんま。
 S.Eさんの原稿を少しだけ修正して録音。『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読みすすめる。合間に腹筋を酷使し(最近筋トレをせずにデスクワークばかりしていたせいで背中だの腰だのがどうもだるい)、出前一丁の海鮮味を食す。不意にあたらしい小説のアイディアが浮かんだが、いまはそんなもん書いとるひまあらへん。