20240506

 小説家自身はきっと誰も「小説とは何か?」と考えながら小説を書いてこなかったし、いまも書いていない。いや、人から訊かれれば誰もが「小説とは何か? という問いを持ちながら書いている。」と答えはするだろうし、それは決して嘘ではないのだが、実際に小説を書く場面では、その問いは「〝小説〟という共通了解の範囲を踏み越えるにはここでどう書けばいいか?」という、作業の具体性に形を変えているはずだ。
 ここで、こういう問いの形を取るということは〝小説〟というものが書く本人にはわかっているかのように響くかもしれないが、ひとまず暫定的な概念をそれにあてはめておいて実際の作業の方に専念することによって、その作業を経たことによって暫定的に形を与えていた〝小説〟が書いた本人の中で形を変えたり形をいっそう失っていったりする。そのようなやり方によって問いを持続させる方法が確かにあるのだ。一見一番もっともらしい「小説とは何か?」という問いは、書くというサイクルを通じて問いを持続・更新させるあり方と比べて、とても非-当事者的な態度で、働きかけるという運動性を持っていない。
 読むことも同じで、「この小説はどう読めばいいのか?」「この小説はどういう困難を抱えながら書かれたのか?」と考えながら読むことが「小説とは何か?」という問いを追い越してゆく。私の場合には小説を読むということは、それを読みながらそこから刺激されたことをどれだけ多く考えることができるかに賭けられていると言ってもいい。
 もともと批判したくなるような小説は取り上げていないわけだが、批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為というのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることというのは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受けることだ。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.9-10)



 10時半起床。歯磨きと洗濯をすませ、トースト二枚の朝食。どうもまだ花粉が飛散しているらしい。薬を服用しなくなっておそらく一週間ほどになるが、くしゃみがたびたび出る。
 「実弾(仮)」第五稿作文。12時から15時半まで。またシーン42を加筆修正。だいぶよくなったとは思うが、まだちょっとにぶいかな、するどさに欠けるよな、もっとキレキレにできるよなという印象。

 休耕田の面影は見当たらない。好き放題に生い茂っていた雑草はすべて刈りとられ、上から土をかぶせられてすっかり埋めたてられている。いまや隣接する車道とおなじ高さに嵩増しされた地上には、大小様々な石のたくさんまじった赤茶けた土が荒々しく露出している。雨などしばらく降っていないにもかかわらず、内側からしみだしたようなじっとりとした光沢をたたえた地面は、雑草が根づくのをこばみながら、雑木林が防波堤のようにひかえているむこうにまでひろがっている。道路沿いには、撤去されたガードレールの代わりに、赤地に白抜きの文字で「売地」と記された長方形の真新しい看板が二本脚で寒々しく立っている。看板の下部には不動産屋の名前と電話番号が記されている。
 仮歯の抜け落ちた隙間に煙草を通したまま、口をイのかたちに軽く噛みしめる。両手を赤いサルエルパンツのポケットにすべりこませ、腐るほどいるひぐらしが放物線を描くような鳴き声を交わしあっている雑木林のほうを遠くながめる。雑木林までの距離が五〇メートルなのか、一〇〇メートルなのか、あるいはそれ以上なのか、スポーツ少年団に所属したこともなければ部活動に取りくんだこともない孝奈には、おおよその目測で見当をつけることができない。陸上部にとっての一〇〇メートルのような、水泳部にとっての二十五メートルのような、サッカー部や野球部にとってのコートやグラウンドのような、目に映る風景をそれに依拠して分割することのできる基本的な単位のようなものが、孝奈にはまったくない。
 雑木林の木々は境目がわからないほど暗く鬱蒼としている。ポケットに両手を突っこんだまま、あたまを少しだけ左右にふってサングラスをずらし、顎をぐっとひいて上目づかいになる。濃い色のレンズの外で木々はいくらか生気をとりもどしたが、それでも夏の盛りにはおよばない。いまもまだ旺盛といえば旺盛であるが、あとにつっかえている若い力によって内側から内側から無理やり押しだされているかのような、ほとんどグロテスクなまでのあの息苦しさはもはや感じられない。
 殺風景にひらけたその空間に、ピンポンパンポンという尻上がりのメロディが、一音ずつ間延びしながら鳴りわたった。「夕焼小焼」ではない。五時の時報ではなく、町内放送だ。どこにあるのかはわからないが、メガホンのようなかたちをした古い型のものであることはまちがいないスピーカーから、「こちらは——」と女性の機械音声が響きはじめる。町内会の名前を告げる一句目からしてエコーがひどい。ずいぶん離れたところにあるらしい別のスピーカーからもおなじ音声が流れてくるが、おなじようにエコーがひどく、遠くにある分だけ遅れてきこえるそのせいもあって、放送はほとんど三重四重の輪唱のようになっている。なにを言っているのか全然聞きとれない。聞きとれなくてもかまわない。どうせまた認知症の老人が徘徊しているだけだ。
 ポケットに両手を突っこんで煙草をくわえたまま、右足をぐっと持ちあげて、「売地」と記されているぴかぴかの看板の右下の角に黒いレザーサンダルの底を押しつける。本当は看板のど真ん中を蹴りつけたかったのだが、股上の深いサルエルパンツが突っ張り、ひざが思っていたよりも持ちあがらなかったのだ。サンダルの底に体重をかけると、看板は根本からぐらぐらとゆれた。抜けた前歯のとなりにある犬歯の裏側に舌の先をぐっと押し当てたときの感触と似ている。
 看板はそれほど深く埋まっていない。その気になれば、ひとりでもひっこぬくことができるだろう。中学のとき、ヤンキーグループのあいだでこの手の看板や標識をパクるのが流行った。先輩から目をつけられていたせいでグループとは距離があった孝奈も、その流行には乗っかった。当時別のクラスだった菅田と下校路がたまたま一緒になったとき、黄色い通学帽をかぶった『名探偵コナン』の下手くそなイラストとともに「通学路」と記されている自分の身長くらいある縦長の看板を、ふたりでゲラゲラ笑いながら田んぼの脇道からひっこぬいた。菅田はその日孝奈のことを小学生のころのように孝ちゃんと呼んだ。孝奈も相手のことをまわりがそう呼ぶように菅っちと呼んだ。看板は菅田がいったんうちに持ち帰ったが、その夜のうちに近所のどぶ川に捨てた。後日、その地区に住んでいる上村が、回覧板に掲載されていたという不審者目撃情報の写メを笑いながら見せてくれた。
 看板から足をおろす。汚れのひとつもなかったその表面に、細かな土と砂利、それにタイヤでこすったような黒ずみが残る。人差し指と中指の第二関節でノックでもするようにその表面をたたいてみる。それほど硬くない。今度は握り拳で軽く殴る。思っていた以上に大きな音がバーンとうつろに響き、表面にわずかな窪みが残る。
 看板に背をむけ、目の前を横切る車道を渡る。ぼろぼろにかすれまくっている白線上にアブラゼミの死骸がふたつ、どちらも腹を天にさらすかたちで転がっている。孝奈はそのうちのひとつをサンダルの先端で蹴飛ばした。蹴飛ばさなかったほうが、ジジジジジと鳴きながらアスファルトにくっつけた翅を小刻みに震わせ、エアホッケーのパックみたいに道路の上をすべっていく。
 十歩足らずで渡りきれてしまう道路の対岸には、深瀬くんからの貸し出しではない、賭け麻雀の結果いまや正式に孝奈のものとなった原付バイクが停めてある。孝奈は歯の隙間から煙草を抜きとり、くちびるをとがらせて腰をかがめると、ハンドルの上をちょこちょこと歩いている小さな蜘蛛に煙をふうっと吐きつけた。煙を浴びてぴたりと動きを止めた蜘蛛を、空いた右手の中指でデコピンする。蜘蛛は手品のコインのように手元から一瞬で姿を消した。どこに飛んでいったのか、弾いた孝奈にもわからない。
 煙草を口元に移し、道路沿いに積みあげられた土砂のかたまりを軽く見あげる。両手をほんの少しだけ左右にひろげるようにし、鵜川がかつて足をすべらせた斜面に右足をかける。しっかり体重をのせたところで、左足を出す。次いで右足を出し、そしてまた左足を出す——その左足が裸足のまま宙に浮いた。脱げ落ちたサンダルが斜面をほんの少しだけずり落ち、9を指す時計の針のように真横をむく。
 片足立ちのまま、孝奈は息を殺した。自分は鵜川とちがうと考えた。あんなまぬけなデブとはちがう。左足の裏、指の付け根のこんもりふくらんだ部分を、ひんやりとする土砂の上にまずはゆっくりと置いた。踵はつけないまま、足の裏の半分ほどが土砂に接したところで重心をそちらに移し、軽くなった右足をいったん後退させようとしたが、今度はその右足がサンダルをその場に置き残したまま、すっぽりと後ろに逃げてしまった。こちらは浮かせてとどまる余裕もなかった。ひんやりとした土をじかに、指先から踵まであますところなく使ってべったりと踏んだ。
 斜面にとどまったまま、くわえていた煙草を一度右手で持ちなおす。すでに両足ともに土に接しているわけだが、それ以上汚さずにすませることができればそもそもの失態がなかったことにされるという、都合のよい秘密取引がはじまっていた。斜面に両手両足をついてへっぴり腰になっている鵜川のまぬけな後ろ姿がちらつく。両手を腰の高さに浮かせてバランスをとりながら、首から上だけを慎重に動かし、自分の両足と左右のサンダルがある位置を確認する。
 右手の煙草をふたたび口元に運び、歯の隙間に通してくちびるではさみこんでから、後ろになった右足をまずはゆっくりと浮かせた。足の裏にへばりついていた小石や土が、その浮上にともなってパラパラとはがれ落ちていく。浮かせた足をクレーンゲームのような慎重さで運び、サンダルの上にねらいをつけてからゆっくりと落とすと、はがれ落ちずに足の裏に残っていた小石がおもいのほかしっかりしているクッションに押し返され、裸足の裏にするどく食いこんだ。その痛みを避けるべく、拳を握るように足の指を内側に巻きこみ、足の裏とサンダルのあいだにちょっとしたアーチ状のスペースを作りだす。
 交通の絶えてなかった道路を近づいてくる車の音がきこえる。孝奈はサンダルを履きなおしたばかりの右足をそのまま急いで後ろにのばした。あせったせいでサンダルからなかばはみだした踵が、土ではないアスファルトの路面に触れてアキレス腱を無理にのばしているような姿勢になった。そちらにひっぱられるようにして上半身が反りかけたのを、腰に力をためてひきもどそうとすると、つま先でしか土砂を踏んでいなかった左足の重心が崩れた。前方に倒れそうになる上体を支えるべく、たまらず両手を斜面に突いた。手のひらに無数の小石がちくちく刺さる。そのあいだにも車は重苦しい音を響かせながらどんどん近づいてくる。大型車だ。
 両手両足を地面に突いたその姿勢から、おもいきって体をひるがえした。斜面の低い位置にどしんと尻餅をつくと、くちびるにはさんだ煙草の先からこぼれ落ちた灰が、赤いサルエルパンツの生地がトランポリンみたいにぴんと張っている股ぐらに落ちた。土砂を満載したダンプカーが黒い排気ガスを撒き散らしながら右手からやってくる。サンダルが脱げてしまっている両足を手前にひき寄せるようにしてひざをたて、道路沿いで体育座りの姿勢をとる。そのままだとエンストかなにかを起こして立ち往生している人間に映るおそれがある。孝奈は思いきって土砂の斜面に背中をあずけることにした。なかばあおむけになった状態でふてぶてしく煙草でも吸ってみせれば、ひとまず格好はつくだろうという計算だった。
 トラックの運転手と合いそうになった目を逃すようにして背中を倒す。後頭部がひんやりとする地面に受けとめられ、奥歯で砂を噛んだような音が奥歯よりも後ろのほうでじかに響く。目の前をいままさに通りすぎようとするトラックの震動が、アスファルトを介して背にした土砂のかたまりに達し、自宅の土壁のように小さなものがぱらぱらと斜面を転がりおちる気配がした。それだけではなかった。耳元で爆ぜるものがあった。あまりにも突然だったので、最初、それが物音であるかどうかすらわからなかった、なにかに噛みつかれたのではないかと思った。自分でもびっくりするほどの叫び声をあげてその場に立ちあがり、まとわりつくものをひきはがすように指先で何度も耳を払いながら赤ちゃけた斜面を見おろすと、腹を天にさらしながらジジジジジと鳴きわめいている瀕死のアブラゼミの姿があった。こまかに震動するその翅から送られてくる微風が、というよりもその翅自体が、耳たぶにじかに触れたのだった。
 バクバクする心臓にこめかみまで脈打たせながらふと顔をあげると、土砂を満載したトラックが少し先で速度を落とすのがみえた。

 作中に出てくる「写メ」という単語、最初は「写真」と書いていたのだけれども、現在でこそ死語であるものの2011年はまだスマホが普及していないし現役だったのではないかとふと思い、サーチしてみたところ、やはりそうであったことが判明したので、じゃあ使うべきだと思って使った。そういう小さな変更点が、敲を重ねるごとに増えていく、それがちょっと気持ちいい。現実の特定の時期、特定の舞台をモデルとして小説を書くという方法をこれまで一度もとったことがなかったので(「S」もいちおう現実の特定の時期を設定しているとはいえ、あれはむしろブランクのままにした情報のほうが多い、根拠とする現実は最低限にとどめたまま言葉の運動に軸足を置いた小説であるので、根本的に造りがことなる)、2011年を表象するなにかしらの要素ががふと出てくると自分でもおおーと思う。サルエルパンツもそう。いや、サルエルについては2024年のいまでもこちらは夏場の部屋着として穿いていたりするわけだが、それはどうでもよろしい。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2023年5月6日づけの記事の読みかえし。以下、2021年5月6日づけの記事より。

 ASDの診断基準を見ると、「社会的コミュニケーションの障害」と書いてあります。コミュニケーション障害というのは、例えば誰かと私とのあいだに発生するトラブルや誤解、すれ違いのことですが、それが診断基準の中核にある。では、このコミュニケーション障害というのは、皮膚の内側にある障害なのか、それとも外側にある障害なのか、どちらなんだろうと考えました。
 私の場合に置き換えて考えてみれば、「私は移動障害をもっている」と表現することがあります。移動に困難があるという意味ですね。でも、スロープがあったりエレベーターがあったりすれば、移動の障害は発生しません。つまり私の移動障害は、私の皮膚の内側に常時存在し続けている障害ではなくて、環境と私との相互作用によって発生したりしなかったりするものです。簡単に言えば、環境との相性ということですね。そして社会モデルでは、そのような環境との相互作用で発生したり消えたりする障害のことを「ディスアビリティ」と表現します。
 それに対して、皮膚の内側にある障害、例えば足が動かない、とか手が曲がっているといったような、どんな環境に身を置いてもあいかわらず私の身体の特徴として存在し続けている障害、環境からは独立して存在している障害は、「インペアメント」と表現されます。ディスアビリティとインペアメント、日本語にするとどちらも「障害」になってしまうのですが、まったく異なるものなのです。
 では、コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提がない人や、文化的背景が異なる人であれば発生しやすく、そうでなければ発生しづらい。他者は私にとっての環境の一部です。そして、環境である他者と私の間に発生する相性の悪さであるコミュニケーション障害は、先ほどしめした移動障害と同じく、ディスアビリティだと考えられます。
 しかし身体障害と違ってASDの場合、その診断基準に「コミュニケーション障害」と明記されているわけですね。ここで注意しなくてはならないのが、一般的に、診断基準というのは建前としてインペアメントを記載するはずの文章だということです。なぜなら環境とは関係なく、本人の特徴を表すのが、診断基準という文章が果たすべき役割だからです。実際、ASDの診断基準はあたかもインペアメントを表しているものとして世界中で解釈され、使われています。しかし、何かがおかしいと思いませんか。
 私たちはこうした状況を、「ディスアビリティのインペアメント化」と呼び、批判をしてきました。本来はディスアビリティ次元の現象が診断基準に混入しているにもかかわらず、それがインペアメント次元の身体的特徴であるかのように解釈されている。これは非常に怖いことです。例えば、横暴な上司との間にコミュニケーション障害があるとか、問題のある職場のなかで周囲とのコミュニケーションがうまくいかないとか、家父長的でDV傾向のある夫とのコミュニケーションが取りづらいなど、コミュニケーション障害といっても、本人より環境の側にこそ変わるべき責任がある場合はあります。にもかかわらず、コミュニケーション障害を永続的に私の側に帰属される性質だとしてしまうと、そうした状況における周囲とのうまくいかなさがすべて私の責任になってしまいかねません。言うまでもなく、そんな解釈をされたらたまったものではないわけで、医学モデルに逆戻りしていると言わざるを得ません。ディスアビリティのインペアメント化とは、社会モデルで対応すべき範囲を医学モデルで対応するという過ちを導きます。これがASDの現場で起き続けていることなのです。これが綾屋さんと私が行ってきた研究の大前提の一つめです。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.51-54 熊谷発言)

 以下は『特性のない男』第三巻の一節。2012年2月9日づけ記事より。ひとつ目のやつ、ちょっとかっこよすぎないか? 小説のエピグラフとして採用したいかも。

ところで目標と目的という名詞は、元来射手や猟師の用語である。それゆえ、目標や目的がないということは、その大本をたずねれば、殺害者ではないということと同じではなかろうか?

「それにはまず、習慣とは何かをはっきりつかんでおかなければね、アガーテ」とウルリヒは、たちまちにして人の心を奪うこの考えを、冗談をいって制動しようとつとめながら説明した。「習慣とは、この牛の群れが草をはむ牛肉としか写らないということさ。あるいは、牛の群れが背景のある画題だということ、あるいは、ほとんどそれに気づきさえもしないということだ。山の道の脇にいる牛の群れは、その光景の一部と化している。だから、それを見て経験することは、牛の群れの代わりに、そこに電気時計とかアパートとかがあったとすれば、はじめて気づくようなものだ。いずれ習慣からすれば、この場合、人は立ちあがるべきか、それともこのまま坐っているべきかと考える。牛どものまわりにたかる蠅を、人はやりきれないと感ずる。牛どものなかに牡牛がいはしまいかと、人は調べる。道はどこに向かっているのかと、人は考える。こんなふうに、無数の細かな意識、不安、計算、認識が行われる。そしてこれらが、いわば牛の絵が描かれている紙を構成する。人は、この紙については何も意識していない。人はただこの紙の上の牛の群れのことしか意識していない……」
「そして突然、その紙が破れるのね!」とアガーテが口をさし挟んだ。
「そうだ。つまり、ぼくたちのなかにある習慣の織物が、破れるんだ。すると、もう食べられるものが、草をはんでいるのではなくなる。画題となるものでもなくなる。きみの道を阻むものでもなくなる。きみはもう『草をはむ』だの『放牧する』だのという言葉をまるで想像できない――なぜなら、こういう言葉は、いまきみが突然なくしてしまった多数の有益で目的にかなった観念の一つなのだから。ではまず画面に何が残るのかといえば、高まっては沈む感情の大波、あるいは、生き生きと光り輝やく感情の大波が、まるで輪郭もつかめないほどに全視界にみなぎるかのようだとでも言わなければならないだろう。もちろん、この画面のなかにはまだ、なお無数の個々の知覚が含まれている。色、動き、角、匂い、そして現実に属しているすべてのものが。だが、これらはまだ認識されているとはいえ、すでに承認されることはないのだ。ぼくはこういいたい――個々のものが、もはやぼくたちの注意をあくまで引こうとするエゴイズムをもたず、兄妹のようになり、文字どおり『衷心から』たがいに結び合っている、と。そしてもちろんもう『画面』なぞというものはなくなり、ともかく何もかもが、際限なくきみのなかに流れこんでくるのだ」

 第五食堂へ。二階で打包。帰宅し、食し、2014年5月6日づけの記事を読みかえす。チェンマイのシャワーを浴び、ストレッチをしていると、上からとんでもなくでかい女の声がひびいてくる。全力の夫婦喧嘩。よくもまああそこまで声をふりしぼることができるよなと愕然とする。長江の此岸から彼岸まで楽々とどくレベル。今日はめずらしく男のほうも怒鳴り返していた。いつか殺人事件でも発生するんではないかという気がする。連休前に老校区の門前でおばさんと保安员が怒鳴り合いの揉み合いになっている現場を野次馬したときにも思ったのだが、こっちのひとびとはキレたときの自意識のなさがすごい。日本でもいわゆる修羅場みたいなものはしょっちゅう生じているだろうが、そういうときってたとえ当事者であっても周囲の野次馬の目を意識してふと冷静になったり、あるいはアパートやマンションの中であったら隣近所のことがあたまをよぎって変にクールになってしまったりする瞬間がわりかし多いんではないだろうか? で、こっちはそういう自意識に牽制されるひとが相対的に少ない気がする。まあこういうのって結局日本人が他者の視線を内面化しすぎており規律権力がうんぬんかんぬんという手垢のついたつまらない結論にしかならないのかもしれないが、しかしだからこそ中国では警察や教師という立場の人間にがっつりと権威があたえられているのだというふうに見てみると、これはちょっとおもしろいかもしれない。
 三年生のC.Mさんから微信。ドリアンがほしいですか、と。またうちまで持ってくるつもりなのかもしれないが、そうなると流れで散歩になりかねないし今日は仕事を進めておきたかったので、これは遠回しに断る。
 卒業生への手紙に着手する。論旨は全然まとまっていないわけだが、ま、書き出したらおのずとそれらしいところに着地するでしょうといういつもの見切り発車。とりあえず「35歳問題」に言及しようと思ったのだが、こちらは村上春樹の「プールサイド」も東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』も読んだことがない。せめておおもとである「プールサイド」だけにでも目を通しておいたほうがいいかもしれないと思われたので、『回転木馬のデッド・ヒート』をKindleでポチり、「プールサイド」だけ読んだ。
 二年生のR.Uくんから作文コンクール用の原稿第二稿がとどいた。ざっと目を通したが、うーん、構成に難ありやなァという印象。ひとまず文章レベルの添削だけちゃちゃっとすませて返信。構成および内容面に手を加えた修正案については後日また送ると伝える。S.Sさんからも作文コンクール用の原稿がとどいたが、想像していたよりもずっと文章がまずかったので、え! こんなレベルなんけ! とちょっとおどろいた。いや、翻訳アプリなど使わず、力試しというアレでじぶんの地力だけで書いたのかもしれないが。論旨はまっすぐなので、修正はたぶんそれほどむずかしくない。
 WPが枯渇する。小説を書き、日記を書き、そのあとさらに続けてなにかを書きとなると、さすがのわがWriting Pointも尽きるのだ。ゆえに22時過ぎに作業中断。エリクサーちょうだい。明日以降は手紙と作文添削を優先することに決める。「実弾(仮)」作文は一週間ほど中断や!
 冷食の餃子を食す。寝床に移動後、『回転木馬のデッド・ヒート』の続きを読み進めて就寝。