20240507

 私に関心があるのは、その作品の中で具体的に何が書かれているのか? その作品を最後まで維持するためにどのような論理が作品を貫いているのか? というようなことだ。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.14)



 6時15分起床。トーストとコーヒー。火曜日の早八は授業中にやたらとうんこがしたくなるという法則があるので朝から自室でふんばる。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。「ニュースの原稿」を返却し、おもしろ回答をスライドで紹介。その後、「断片的なものの社会学」。三年生の授業では100分で終わらせたが、二年生相手であるので、今日の授業の後半と来週の授業まるっと100分をたっぷり使ってゆっくり進める。しかし内容が内容だけにやや緊張する、同性愛者ルイスのくだりをテキストで使用しているのだ。授業中はたびたび監視役の学生——授業がちゃんと指定の教室で行われているかどうかを確認する——が教室後方にやってきて証拠の写真を撮っていくのだが(そしてそのたびにこちらはわざわざおかしなポーズをとるというのが常態化しており、監視役の女子学生もそのたびに笑いながらこちらにオッケーサインを送っていくのがお決まりになっているのだが)、その写真の中にたとえば性的少数者について説明しているスライドが映りこんでいた場合、のちほど大学からごちゃごちゃ言われる可能性もなくはないのだ。それだけじゃない。どのクラスにも外教の授業内容を監査する役割の学生がいる。これはコロナ以前からずっとそうで、たとえばKさんがその役割にあたっているのをかつてR.Kくんが「スパイ」と表現していたわけだが、たとえその役割というのがなかば形式主义でしかないとわかっていても、そりゃあ気持ちのいいものではない。ましてやいまはコロナ以後であり、小学生のころから习大大サイコー! という愛国教育をがっつり受けてきた学生らが相手であるわけで、なかには当然そうした役割にいわば熱心に取り組む学生もいないとはかぎらないのだ。だからそういう学生がスライドに堂々とLGBTと映しているこちらのようすを写真に撮り、しかるべき部署に報告する可能性もゼロとはいえないわけで、それでいえばこちらが赴任した五年前? 六年前? の時点ですでにK.Kさんから授業中に同性愛について言及するのはやめたほうがいいかもしれないですと助言をもらったことがあるのだが、いや、そんなもん知ったことか! どうでもええわ! 魂は自制・自粛・自己検閲によってこそ腐敗する! なにより時間をかけて完成させた教案をいまさらボツにしてたまるか! これ以上働かせるな! クビにするんならせい! 上等じゃ! ワシにはフェリーの清掃員になるという夢がある!

 授業後、例によって最後までひとり教室に残っていたR.Kさんがやってくる。S先生のリスニングの授業で出ている宿題に一部わからないところがあるという。以前R.HさんとK.Dさんのふたりにたのまれたのとおなじやつ。答えをそのまま告げるのはよくないと思われたので、ヒントを小出しにして解答を誘導する。英語学科の学生らがやってきたところで教室を出る。スピーチコンテストの校内予選について他の教員からなにかきいていないかとたずねると、なにもきいていないという返事。
 Jで食パン三袋購入。第五食堂で広東料理の鴨肉を打包。帰宅して食し、すぐにベッドに移動。一時間半後にアラームを設定していたのだが、そのまま四時間ほど眠ってしまった、目が覚めると15時をまわっていて、嘘やん! となった。しゃあない。受け入れよ。これも運命と書いてさだめじゃ。
 コーヒーを淹れてきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、ふたたび第五食堂で打包。二階にあるいつもの店で会計をすませ、おかずを盛ったプラスチックの容器をビニール袋の中につっこんでいたところ、「先生!」と呼びかけられる。一年生2班のC.Eさん。めずらしい。この店にはよく来ますかとたずねると、はじめてという返事があったので、ぼくは毎日ここに来ますという。いまは英語の試験が終わったところらしい。
 帰宅。メシ食う。「メシ食う」とこうして打鍵するたびにINUの『メシ喰うな!』を思い出す。町田康はいつのまにか坊主頭のおじいちゃんになっている。食後、1年前と10年前の記事の読みかえし。以下、2021年5月7日づけの記事より。

 ここで一つ補足しておかなくてはならないのが、ディスアビリティとインペアメントは一対一対応しないという点です。このことが、私たちが二番めにこだわった、「ASDに関する研究ではなく、綾屋さん個人に関する研究を行う」という方針を導きます。
 例えば、先ほど私のケースとしてお話しした「移動障害」というディスアビリティがありますけれど、移動障害という一つのディスアビリティが発生し得るインペアメントには複数のものがあります。例を挙げるなら、足が動かないというインペアメント、あるいは目が見えないというインペアメントがそうです。「盲ろう」といって、目も耳も不自由な場合、また認知症の場合などにも移動障害は起き得るでしょう。これらインペアメントとしては互いにまったく異なるのに、多数派向けの環境で移動障害が生じ得るという点では共通しています。ディスアビリティとしては一つの同障害ですが、複数のインペアメントが対応する。いっぽうでまた、一つのインペアメントに対して生じ得るディスアビリティの種類もまた多様です。例えば私は移動障害だけではなく、服を着替えるとき、お風呂に入るときのディスアビリティも経験しています。
 しかるにもしASDという概念自体が、純粋なインペアメントを記述する概念ではなく、ディスアビリティが混入したものであるとするならば、十人ほどASDと診断される人に集まってもらったら、インペアメントは十人十色になる可能性がありますよね。ここが私たちが罠だと考えたところです。これが、私たちが当事者研究をすることを決めた際に、「ASDのインペアメントはなんなのか」という問いには答えない、ということを宣言した理由であり、これが綾屋さんと私が強くこだわろうと考えた二点めです。ASDのなかにディスアビリティが混入している現状にあって、ASDと診断される人々に共通のインペアメントを探求するというチャレンジは、論理的に失敗が運命づけられていると考えたのです。じっさい世界中のASD研究で、多様なASD者に共通するインペアメントが探求されていますが、その試みはうまくいかないのではないかと指摘している研究者も少なからずいます。これは概念上の問題であって、いくら経験的な研究を重ねたとしても、そもそもスタートが間違っているのかもしれません。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.54-56 熊谷発言)

 以下は『マイルス・デイヴィス自伝』より。「2012年3月上旬」の記事より。

オレは、自分を自信家だとは思うが、傲慢だとはちっとも思っていない。いつも自分が欲しいものはわかっていたし、自分が求めているものを理解していた。

ウェインは、音楽の規則に従うことに対して、一種の好奇心を持っていた。規則どおりにやってうまくいかなければ、音楽的なセンスで、規則を破ることだって平気でやった。音楽における自由というのは、自分の好みや気持ちに合わせて、規則を破れるように規則を知っている能力だってことをちゃんと理解していた。

 以下は2014年5月7日づけの記事より。きのうづけの記事に引いた「実弾(仮)」のシーン42をちょっと想起する梶井基次郎の一節。

 それはある雨あがりの日のことであった。午後で、自分は学校の帰途であった。
 いつもの道から崖の近道へ這入った自分は、雨あがりで下の赤土が軟くなっていることに気がついた。人の足跡もついていないようなその路は歩くたび少しずつ滑った。
 高い方の見晴らしへ出た。それからが傾斜である。自分は少し危ういぞと思った。
 傾斜についている路はもう一層軟かであった。しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかった。危ぶみながら下りてゆく。一と足下りかけた瞬間から、すでに、自分はきっと滑って転ぶにちがいないと思った。――途端自分は足を滑らした。片手を泥についてしまった。しかしまだ本気にはなっていなかった。起きあがろうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑って行った。今度は肩肘をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体は止った。止った所はもう一つの傾斜へ続く、ちょっと階段の踊り場のようになった所であった。自分は鞄を持った片手を、鞄のまま泥について恐る恐る立ち上った。――いつの間にか本気になっていた。
 誰かがどこかで見ていやしなかったかと、自分は眼の下の人家の方を見た。それらの人家から見れば、自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった。――誰も見ていなかった。変な気持であった。
 自分の立ち上ったところはやや安全であった。しかし自分はまだ引返そうともしなかったし、立留って考えてみようともしなかった。泥に塗れたまままた危い一歩を踏出そうとした。とっさの思いつきで、今度はスキーのようにして滑り下りてみようと思った。身体の重心さえ失わなかったら滑り切れるだろうと思った。鋲の打ってない靴の底はずるずる赤土の上を滑りはじめた。二間余りの間である。しかしその二間余りが尽きてしまった所は高い石崖の鼻であった。その下がテニスコートの平地になっている。崖は二間、それくらいであった。もし止まる余裕がなかったら惰力で自分は石垣から飛び下りなければならなかった。しかし飛び下りるあたりに石があるか、材木があるか、それはその石垣の出っ鼻まで行かねば知ることが出来なかった。非常な速さでその危険が頭に映じた。
 石垣の鼻のザラザラした肌で靴は自然に止った。それはなにかが止めてくれたという感じであった。全く自力を施す術はどこにもなかった。いくら危険を感じていても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかったのだった。
 飛び下りる心構えをしていた脛はその緊張を弛めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあった。自分はきょとんとした。
 どこかで見ていた人はなかったかと、また自分は見廻して見た。垂れ下った曇空の下に大きな邸(やしき)の屋根が並んでいた。しかし廓寥として人影はなかった。あっけない気がした。嘲笑っていてもいい、誰かが自分の今したことを見ていてくれたらと思った。一瞬間前の鋭い心構えが悲しいものに思い返せるのであった。
 どうして引返そうとはしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。――破滅というものの一つの姿を見たような気がした。なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。
 下に降り立って、草の葉で手や洋服の泥を落しながら、自分は自分がひとりでに亢奮しているのを感じた。
 滑ったという今の出来事がなにか夢の中の出来事だったような気がした。変に覚えていなかった。傾斜へ出かかるまでの自分、不意に自分を引摺り込んだ危険、そして今の自分。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖であった。そんなことは起りはしなかったと否定するものがあれば自分も信じてしまいそうな気がした。
 自分、自分の意識というもの、そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような気持に自分は捕えられた。笑っていてもかまわない。誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思い出した。
梶井基次郎「路上」)

 あと、2014年5月7日はフラナリー・オコナーの著作にはじめて触れた日らしい。この日『賢い血』を鴨川のベンチで読み終えたとあるが、このときのことはよくおぼえている。ひさびさによい作家を見つけたと興奮したから。とはいえ、この時点ではまだじぶんに決定的な影響をあたえる作家であるとは思っていない。それには「田舎の善人」との出会いまで待たなければならない。いやしかし、オコナーとももう十年の付き合いになるのか。逆にいえば、オコナー以来、もう十年も決定的な作家とのあらたな出会いを果たしていないということになるわけで、それはちょっとさびしいな。イーディス・パールマンにはちょっとその種の予感を感じたのだが。ムージルマンスフィールド梶井基次郎、オコナーの四人がいまのところ四天王。それにくわえてほぼ全作読んでいる作家としてカフカとヴァルザー、あとはだれだろう、漱石と磯﨑憲一郎くらいか。それからある種特権的な存在として岩田宏
 (…)のR.Sくんから微信。日本語の四択問題について。四つある選択肢のうち(ネイティヴ基準からすると)三つが正解として通じてしまうという傻逼题目。(…)に遊びにきてほしい、勤め先の高校で一度だけ授業をしてほしいというので、忙しいからそれはなかなかむずかしいと返信。慕ってくれるのはありがたいのだが、なんで休みの日にわざわざ高铁で出張ってまで授業せにゃならんねん。

 チェンマイのシャワーを浴びる。R.Uくんの作文コンクール用原稿を修正する。どうにか形になった、これだったら受賞圏内だろう。最終チェックをしてくれと送信。S.Sさんの原稿はひとまず文章のみ添削して返信。構成・内容ともに問題点だらけであるが、それについては後日修正して送りなおす。
 R.Hさんから微信。作文コンクールについて、テーマ1の「AI時代の日中交流―プラットフォームの構築を考える」で書いてみたいのだが、アイディアがなにもないという。いや、だったらほかのテーマで書けばいいんじゃないのと思うわけだが、テーマ2の「先輩に学び、日本語学習を頑張る」にしてもテーマ3の「私を変えた日本語教師―先生への感謝状」にしても、似たようなものを小中高時代にさんざん書かされてきたからというので、なるほど、たしかにどちらのテーマも中国の教育現場が好みそうなアレだなと思う。テーマ3で先生について書いていいですかというのだが、R.UくんもS.Sさんもテーマ3であるし、締切までまだ時間もあるのだし、もう少し時間をかけてテーマ1について考えてみればいいのではないかと応答。アイディアをこちらからあたえることはできないが、文章の修正であれば手伝うことはできるし、まずは自由に書いてみればいいのではないか、と。
 夜食は出前一丁の海鮮味。そのまま作らず炒面風にする。しかし四十手前になってなんちゅうメシ食っとんねんというか、具なしの袋麺をフライパンで炒めてヒビの入った碗にぶちまけたのを夜中に食す、しかもそれをうまいと感じてしまう、この状況はいったいなんやねんと思う。前世でいったいなにをやらかしたらこんなしょうもない人間に生まれ落ちてまうんや? ご先祖様に顔向けできんのやが!
 寝床に移動後、『回転木馬のデッド・ヒート』(村上春樹)の続きを読み進めて就寝。