20131014

11日(金)
12時半起床。腰痛王。きのうの時点ですでに日常生活にさしつかえの出るほど悪化していたにもかかわらず調子に乗って夜歩きなどしてしまったためなのかどうなのかとにかくまともに動けない。身体が曲らない。きわめて慎重にとった身ぶりのひとつひとつにしかし問答無用でピリっと走る痛みがあったり完全にいわしてしまう一歩手前のひやっとするものがあったりして気が気でないというかこんなんでいったいどうすればいいのかなにができるのか。だからといってなにもしないわけにはいかないしなにもせずにいることのできないワーカホリックな体質なのでとりあえず整形外科に通って貯蓄しておいたロキソニンテープを尻と腰にベタベタと貼りつけてデスクに向かった。するとふしぎに痛みが遠のいたというか気にならなくなったというか要するに集中力がいちばんの鎮痛剤であることは疑いない。amazonからイヤホンが届いた。コーヒーを入れるために水場に立ったところで宅急便の運ちゃんがうちのアパートのトイレから出てくる瞬間を目撃した。
19時半、限界に達したので大の字になって畳の上にぶっ倒れた。それから食事をとり風呂に入った。風呂ではひさしぶりに湯に浸かって腰を温めたりほぐしたりした。それから風呂あがりのストレッチのさいに股関節を重点的にほぐした。最近風呂上がりのストレッチが手抜き気味であったというか開脚を基本体勢しておこなういくつかのプログラムを省いてばかりいたそのツケがまわってきたというところはおそらく多分にあって、じっさいこんなにもカチカチになってしまっているのかと驚くくらいかたくなってしまっていた要所をほぐそうとするそのたびに腰部に痛みが走るというわかりやすいサインがあった。
22時よりふたたびロキソニンテープを貼り香を焚きコーヒーを用意しそうして作業にとりかかった。1時も半ばをまわったところでふたたびぶっ倒れた。アーロンチェアを購入しようと思った。ちょうど一年くらいまえに同じことを考えていたはずなのだけれど、習慣化したジョギングによってずいぶん身体の調子がよくなってきたこともあってそのまま立ち消えてしまったその計画をやはり再起動させる必要があるとつくづく感じた。来週中には買う。投資は早ければ早いほうがよい。いまなら金もある。追い風が吹いている。
じぶんの才能を批評的な冷静さから疑うことはまだできるかもしれないが、政治的な謙虚さから疑ってみせるそうした愚かさとはこのままひきつづき絶縁していきたい。
酩酊して眠った。失われたおまえをもとめず、失われてもいないじぶんばかりをもとめて、失わずにすんだものをみすみす失ってしまう、そんな失いかたをもとめている。
 
 
12日(土)
労働。三連休だけあってそこそこいそがしかった。勤務中は(…)さんに借りたコルセットを装着して仕事にはげんだ。もちろんロキソニンテープも必須である。昨日よりは少しばかり痛みのマシになっているようなそうでないようなところがあってそれだけが救いといえば救いではある。
帰宅したところで家の鍵をなくしたことに気づいた。鍵のひとつやふたつなかったところでたやすく出入りすることのできる程度にはどうしようもない物件に住んでいるので問題ない。というか鍵を閉めておもてに出ないこともしょっちゅうであるし仮に閉めたところで大家さんが勝手に解錠してしまうのがオチなのだからどうでもいいといえばどうでもいい。スペアキーを作る必要も感じない。じぶんが泥棒だったらまずまちがいなくこんな部屋に侵入しようなどとは思わない。金目の物なんて一見してどこにもないことは明らかな部屋であるし、それにこんなボロボロの物件をわざわざ選ぶだなんて多かれ少なかれ頭のおかしいやつだろうという警戒心が働くはずだ。
2時半。ようやく「A」を脱稿した。BCCKSにログインして原稿データを作成した。これであした紙本作成を申しこみさえしたらサンプルver.2が届くまでの一週間は「A」から離れることができる。救いだ。寝床に横たわった。腰が死んだと思った。ロキソニンを服用しようかと思ったが、就寝前にそんなものを入れてしまったら胃が荒れるにちがいないと考えなおした。
 
 
13日(日)
労働。職場にむかう途中、前から自転車に乗ってやってくる四十手前くらいの女性が街路樹の葉に触れようとしてのばした手を、その一部始終を目にしていたこちらの目線に気づくか否やひっこめる瞬間があって、これはいまこうして書きだしてみて気づいたのだけれど偶景になりうる。起きたのが遅かったのでコンビニでサンドイッチでも買って朝食にあてようとしたのだけれど、どっからどう見ても野球部な高校生の集団がレジ前で行列をなしておりマジ勘弁してくださいという感じだったし、そのうちのひとりなどあのレジ脇に置かれている唐揚げやらポテトやらコロッケやらの入っている揚げ物コーナーからひとりで十品ほど注文していておまえ早朝だぞ馬鹿かと思った。
三連休の中日だけあってたいそうな忙しさだった。忙殺とはこのことよと思った。ひさかたぶりの商売繁盛に(…)さんはご満悦だった。ロキソニンテープとコルセットはまだまだ欠かせないとはいえ、腰の痛みはきのうにくらべると幾分マシだった。客足のとだえたひとときにうとうとと居眠りし、居眠りからさめたところで(…)さんにゆずってもらったスマホで一年前のブログを読み返すなどしていたら完全に自室でひとりきりでいるときのじぶんのペルソナが認識の最前列にせりだしていて、そのため(…)さんから不意に話しかけられたときなどあわてて本来あるべきじぶんの人格というかペルソナというかキャラクターというかモードというかコードというかとにかくそういうアレを切り替えようとするあの独特の混乱をともなう働きが、脳みそが一瞬バグってコンマ一秒だけ記憶喪失になってしまうあのみずみずしくもそらおそろしい瞬間が、それはひょっとするとあるペルソナから別のペルソナへとジャンプするにあたってそこをかいくぐることが不可避であるところの余白がもたらすひとつの短くも絶対的な副作用のようなものなのかもしれないが、いずれにせよそうした一瞬の記憶喪失とでもいうべき現象にひさしぶりに見舞われて、はじめてそれを言語化して自覚した中一の夏の五限目の数学の授業以来ことあるごとにじぶんを魅惑しつづけているこの感覚こそがおそらくじぶんにとっての啓示であり恍惚でありもののおとずれでありエピファニーなのだ。
一年前の日記に「受難とは何か? 微笑みのまわりにまとわりつく食べ残しのようなものである」というフレーズがあって、これ最近どこかで目にした気がしないでもないのだけれど思い出せない。
帰宅して昨日脱稿したばかりのデータを紙本化して注文しようと思ったところ、漢字をずいぶんたくさんひらがなへと開いてしまったそのためにか2ページ分も余計にかさばることになってしまって構成を変える必要にせまられてしまい、うわーマジかよこれ予想外だったわやべえと思ったのだけれどそこは森羅万象を味方につけることで高名なミスター(…)で、BCCKSの紙本発注が今週だけなぜか月曜日24時締めになったというお知らせがウェブサイト上に流れていたために助かった、あした早起きして構成をなおしてそれで発注をかけようと、ひとまずは寝不足でまともに働かぬ頭をやすませるべく夕飯もそこそこに風呂にも入らず床に着いた。
 
 
14日(月)
4時起床。クソさぶい。せっかく腰の調子がマシになってきつつあるこのタイミングで身体を冷やすとかそういう馬鹿げたシーソーゲームには興味がない。朝食を手早くとったのち「A」の構成をいじくる。増量したページ分と帳尻をあわせるべくプロフィールページを削除した従来の書式+画質を変更したクリムトのダナエの表紙によるサンプル2.0と、一新した書式+一新した表紙によるサンプル3.0の双方の印刷データを作成した。それら両データはむろん労働から帰宅したあとに紙本として一冊ずつ発注をかけた。現物はこの週末あたりに届くものと見られる。それらを参考に来週一週間かけて最後の最後の推敲をとりおこなう予定である。
今日も今日でやはり世間は三連休とあってなかなかにせわしない12時間労働であった。とちゅう西洋人四人組がやってきてシステムのわからぬらしいようすでロビーをうろうろしだしたりしたので(…)さんの(…)くん出番やでという一言をうけて出動したのだけれどじつにひさしぶりな感じのする英語での会話で、しゃべりながらじぶんの発音のわるさにすこし驚いたりしたのだけれどそれでもたとえば(…)の来るまえ、というか厳密にいえば(…)の来訪にそなえてここはひとつ英語をがっつり勉強しようじゃないかと決意をかためるにいたった以前とくらべると圧倒的に、ほとんどこわいもんなしのゆとりとともに外国人と外国語でコミュニケーションをとれてしまうじぶんがいて、休憩と宿泊というコンセプトの違いから部屋のグレードや曜日に応じて異なる料金体系やらを中学生レベルの語彙だけでそれでもそこそこきちんと説明しながら、あーおれいま世間一般的な基準でいえばたぶん英語しゃべれるひとなんだわと驚きの事実を自覚するにいたった。四人組はフランス人らしく、そのうちのひとりかふたりは英語があやしかったので、残るふたりが英語によるこちらの説明をいちいちフランス語に直して伝えるという翻訳リレーがおこなわれた。英語をもっとしゃべりたいと思った。実戦による訓練をもっともっと重ねたい。そのためにもやはりパツキンと恋に落ちるべきなのかもしれない、そうすれば性的な気晴らしと英語の勉強を同時進行でこなすことができて一石二鳥、じつに効率的な時間割を組むことができる。一週間にいちど、というのはちょっと多すぎるな、十日にいっぺんくらいの頻度でデートのできる芸術に理解あるパツキンと知り合いたい。
執筆は執筆、勉強は勉強、性は性、みたいに腑分けしたうえで各項目にしかるべき時間をわりふっていくとどうしても限界があるのだけれど、たとえば勉強と性的満足(快楽の獲得&うつ病対策)と気晴らしをかねそなえたそれらの交点上でむすばれるパツキンデートみたいなふうにしてしかるべき営みを取捨選択していけばいまよりももっと時間を経済的にとりあつかうこともできるし毎日を充実させることもできるかもしれない。たとえば英語の勉強と小説の執筆とのその交点上にむすばれる英語での執筆?あるいはここ最近じっさいに実践している、勉強と気晴らしの交点上にむすばれる鴨川での勉強。やりかたはたぶんいくらでもある。
夜、酩酊。財布のなかに600円しかなかったのでコンビニを三軒とスーパーを一軒はしごしてベストな夜食の組み合わせを考えるのに苦心した。記憶が声色をともなって前景化すると途端にリアリティが増す。遠かったはずの思い出がすぐそこにまでせまってきて時間がたわむ。想起される声色の解像度を基準点にすることで、想起と幻聴とのあいだに画された一線をなめらかな陰影へととらえかえすことが可能となる。