20140531

 二階の瓦に鬼火のような炎がいくつも散って、すでに内に火が入ったらしく障子が薄赤く染まり、廂の下から白い煙をゆっくりと吐く家を、私は一度見あげたきり後も振り返らず走ったが、壕の蓋に土をかぶせるために子供たちを外で待たせてひと足踏み留まった母親はいよいよ走る間際に、玄関の路と庭の境の、垣根に沿って植えた薔薇が一斉に先端から炎を吹いて、その火が横へつながって流れたのを見つめてしまったようで、避難者の群れに混じった後で、綺麗だった、とようやく気落ちした声で話した。荘厳だった、ともしもそんな言葉を持ち合わせていたらの話だが、私も炎上寸前の家の姿をそう伝えたかもしれない。どちらも、恐怖の恍惚のようなものだ。生涯の光景というものは恐怖の極でこそ結ばれる。しかしその底に恥の念がふくまれていた。屈辱や恥辱ばかりでなく、現実に起こった事の前で子供ながら不明を恥じるような心だった。
古井由吉『野川』より「花見」)



 6時20分起床。ひさびさにきりっと冴えわたるようなめざめだった。歯を磨き、水場に出て顔を洗い、部屋にもどってストレッチをした。それからパンの耳を1枚とミルクの朝食をとった。ホットコーヒーを飲む気にはなかなかなれない蒸し暑い起き抜けだった。おもてに出るにも半袖のシャツ一枚で十分だった。昨晩のいかにも熱帯夜めいた寝苦しさといい、早朝にもかかわらずまるで平気な夏服といい、とうとう夏本番がやってきたという感じがする。まだ梅雨入りさえしていないのに。衣替えをしなければいけない。
 職場にいたる路地を折れたところで背後からこちらを追いぬいていく白いワゴンがあって、これEさんの車じゃなかったっけと思いながら前をゆく車の内側に視線を投げかけてみると、バックミラー越しに認めたこちらにむけてことさらおおげさに腕をふりまくっているシルエットが目についたので子どもかと思って笑った。職場に到着し更衣室に入るとJさんが先に着替えていて、目が合ったとたんにどちらからともなく昨夜の一件を思って吹きだした。職場の電話が鳴ったので出るとYさんからで、いま起きたところだから少し遅れるとあったので、あのあとテンション上がってひとりで風俗でも行ってたんですかと茶化した(昨晩は性感ヘルスのやばさ、というかドライオーガズムの中毒性についてYさんがひたすら熱弁をふるいつづける一幕があったのだ)。次いでBさんが出勤し、昨晩のできごとをふたりそろってEさんに報告しているうちに、五分遅刻のYさんがあらわれた。二万円ちょっとを記録したレシートをワイシャツのポケットに忍ばせておき、朝礼で一礼したときにJさんの足元に落ちるように細工してベタな笑いをとった。手落としたものを拾いあげたついでに昨日オーダーした品目に目を通していると「玉ねぎ」とあって、それを目にしたとたんに思い出したのだけれど、有り金すべてを使い果たしてすっからかんになったJさんが面目なさげにわれわれの前にあらわれたあと、もう気にしなくていいからとりあえず楽しく飲み食いしようとみんなでうながしてみても思いきり気落ちしたままで口数すくなく、しかたがないのでこっちで注文決めちゃいますよとYさんが席についたあと適当な品をまとめてオーダーし、次いで魚介類の駄目なBさんがじぶんの好みの品をオーダーし、こちらはけっこうふらふらだったのでふたりにおまかせすることにしてパスし、そうしていよいよJさんの順番になったところでJさんは食べたいものないんですかとだれからともなくたずねてみると、ものすごくかぼそく弱々しい声でぽつりとひとこと、「玉ねぎ……」とあって、あれには死ぬほど笑った、そしてそのエピソードをとっさに思い出して披露した今朝も今朝でみんなでいっせいにひざから崩れおちるほど笑った。Jさんは四六時中照れくさそうにしていたが、昨晩にくらべるといくらかふっきれたのか、すこし元気になっていたのでよかった。
 Tが携帯電話を水没させてしまったとフェイスブックに書きこんでいたらしく、それを見てコメントしたEさんにたいしてあいつに伝えておいてほしいと伝言を頼まれたという報告が、正確にはきのうの夕方の通話時にあった(そしてそれを昨日付けの記事に書き忘れていた)。ひとあし先に泳ぎやがって! うらやましいやつ!
 これもまたやはり昨夜の時点で耳にしていた話なのだが、職場の更衣室に落ちていてはいけないものが落ちていたらしい。もちろん真っ先にYさんが疑われるにいたったわけだが、じぶんのものではないという。当然のことながらEさんのものでもなければこちらの私物でもない。となればいったいだれのものなのだろうか? Tのおっさん? Mさん? Nくん? Tくん? Hさん? だれであってもおかしくはない気がしないでもないわけだが、あとになってEさんのひそかにこぼすところによるとやはりYくんだろう、脇が甘いぞと指摘されるのをいやがりとぼけているのだとのことだったが、真相は藪の中。別にだれだろうと知ったこっちゃあないが。
 客がミニスカポリスのコスプレを部屋に置き忘れていった、というかおそらくは使い捨てていったので、隙を見計らってスーツを脱ぎ無理やりそれを着用したうえで(むちゃくちゃピチピチだった)、柳沢慎吾ばりにウーウーいいながら休憩中の面々のところに突入していき、従業員ひとりひとりに(リアルに)該当する罪状を読みあげていくというクソネタを披露した。写メをガシガシ撮られたので近いうちにファイティングポーズをとっているミニスカのおっさんの画像がウェブ上に出回ることになるかもしれない。目にすることがあっても拡散希望とかしないでください。
 煙草も買えないらしいJさんのために代金をもってやった。おおきにMくん、来月の給料日まで堪忍してや、というけれども給料日はまだまだ先である。いま率直にいって手元にいくら残ってるんですか、とYさんがおおまじめな顔つきで問うてみせると、「う〜ん、8円!」という返事があったので、ここでもまた死ぬほど笑った。うまい棒すら買えへんやん! いっそのこと0円いうてくれたほうがすがすがしいわ! と総員でつっこんだ。100円のもんなんか買うたときに消費税分だけ出してくれるやろとEさんがぼそりとつぶやいた。とどのつまりJさんは給料日からの10日間で8万円まとめて一気に溶かした計算になるらしかった。
 TのおっさんにむけてEさんがとうとうクビを宣告した。明日からもう来なくていいといったらしかった。おもてに呼びだしふたりきりになったところで告げたようなので詳細はしれない。ただあとになってEさん当人の口から聞いたところによると、娘がカラオケに行きたがっているといっていたので歳の近いTさんを誘ってみただけだというかなり苦しい弁明に終始していたらしい。が、まったくおなじような言い訳をOさんとの一件の際にもTのおっさんは口にしていて、たとえその弁明が本当であろうとなかろうとそのような誤解をされかねないアプローチをこの先も(同僚の若い女性に)かけ続けるのであるならば次はないからな、もうかばいきれないからなと宣告されていたのにもかかわらずの今回の体たらくで、養育費や慰謝料ふくめてもろもろ二千万はかかる試算になっているのだという泣き落としにも出られたらしいが、そこはきっぱりとはねつけたといった。離婚の原因になったのも出会い系経由の浮気で、日中の本職も同僚の女性にちょっかいを出したとかいう理由で異動を喰らっている筋金入りらしいので、更生の見込みなしとEさんは踏んだらしかった。
 系列支店の閉店までほとんど日がないと知らされた。売買の契約が締結したその数日後にはもう閉じるようにと買収先から通達があったようなのだが、それはいくらなんでも従業員のことをないがしろにしすぎだろうと社長が怒って交渉した結果、どうにかして確保することのできた猶予がたった一週間ちょい、むこうの従業員の大半は兼業であったりパートであったりするらしいのでいますぐ路頭に迷うということはないらしいのだが、おなじ理不尽がいずれこちらにも降りかかるのではないかとBさんなどはかなり心配しているようである。その社長がMさんのことをものすごく嫌っているらしいという話はきのうの飲み会でも伝え聞いていて、なんでも今回の系列店閉鎖にともなう幾人かの従業員の引き受けを理由にしてさっさとあの男を切ってしまえとわざわざEさんのもとにじかで電話をかけてくるほどらしく、Tのおっさんが辞めたところでまたあらたなターゲットを見つけて中学生以下のいびりを開始するだけにきまっているので、それができるのならさっさとそうすればいいのではないか、そのほうがほかの従業員のためにもなるに決まっていると考えるこちらとしては、社長そのままガンガンいこうぜという感じではある。社長からすればMさんというのはEさんがここに赴任する以前の責任者、直接の面識はむろんないしすべて伝え聞いた情報にすぎないとはいえそれでも人間のクズと断言することをこちらとしてもはばかる気にはいっこうになれないNさんという女性の体制下で好き勝手やっていた残党でしかないという認識らしい(そしてその乱暴な認識はほとんど完璧に的中している)。そのNさんがクビになるにいたった直接のきっかけというのを今日はじめて知ったのであるけれど、気にくわない従業員の鞄を包丁でズタズタにするなどのえげつないようなイジメをくりかえしていたのが本社の耳に入って問題化、けれどそこで引っ込むわけでもなく当のいじめた相手にむけて飲み会の席でおまえのせいでクビになったらどうしてくれるか、その場合は損害賠償を払え、来月の給料もその次の月の給料もすべてわたしの口座にふりこめみたいなことをつめよりまくったと、しかもその現場を社長が目にしていて(ということは会社単位での飲みの席だったのかもしれない)、社長は要するにそちらの筋の人間で、しかもわりあいクラシックな価値観の持ち主である(Eさん曰く「ミーハーな部分がある」)ので、仁義にもとるそのような手合いは許せないというわけでかさねてブチギレ、かくして全従業員にたいしてヒアリングをするにいたった、そしてそのヒアリングにあたった担当者のひとりがEさんだった、と、だいたいにしてそのような因縁と経緯があったらしい。いじめの首謀者は、というか少なくとも社長が目撃するにいたった例の現場でいちばん気焔を吐いていたのはNさんとTさんのふたりであったらしく(この点について当日現場に不在であったYさんは、Nさんはひどすぎる、あれはいくらなんでもやりすぎだとあとになってからTさんの口よりさんざん聞かされていたので、じっさいにその場に同席していたBさんが、当日のTさんはNさんに負けず劣らず横暴だった、ひどかったと昨夜暴露したときにはかなりおどろいていた)、そのふたりをそれぞれ別室に引き離したうえで特に入念にヒアリングをした結果、NさんはすべてTさんがやったと言いはなち、Tさんはなにもしらない、いじめなどなかったとすっとぼけつづけたのだという。TさんのとぼけはおそらくNさんをかばってのことだろうけれど、そのNさんはといえばすべてTさんのせいであると断言してはばからず、最終的にはTのやつにはめられてわたしはここを去ることになったのだとまでいってのけたらしい。
 そういう話をじぶんとEさんとYさんの三人でしているとき、Eさんが途中こらえかねたように、おれはアルバイトとしてNさんにつかえていたわけじゃないし以前ここがどんな空気だったか噂には聞いていたけれども直接は知らない、クビをはねられたらすぐに路頭に迷うほど生活に困った状態で理不尽の支配する職場に勤めたこともない、だからこういうことをいうのはしょせんゆとりのある部外者の無責任な放言でしかないのかもしれない、それでもだ、それでもどうしてあんなふうなひどい行為がまかりとおっているのに従業員のだれひとりも声をあげようとはしなかったのか、それはおかしいと言い出さなかったか、おまえは間違っていると指摘するものが出なかったのか、それを問いたい気持ちはある、というようなことを(彼特有の気遣いと用心深さで)かなり婉曲気味に口にした。その当時からいまにいたるまで居残りつづけるすべての従業員にたいするかすかな不信感の、しかしけっして取り除きようのない核心はようするにここにあるのだと、この話についてはこれまでなんどかEさんとプライベートで会ったときに聞いたことがあった(じぶんがEさんからふしぎに信頼され心を許されているらしいのはおそらくEさん赴任以来はじめてあらわれた「新人」であるからというのもおおいにある)。Tさんとはちがって直接そのような行為に便乗することこそなかったとはいえ、それでもやはり傍観者に徹していたにはちがいないYさんはいささか気まずそうに、ぼくが入ったときにはもうそんな空気でしたからね、こういう職場やし変な人間ばっかやって面接のときにも聞かされてたから、もうこれがふつうなんやろと思うてたんですよね、といった。ストックホルム症候群とか傍観者効果とかいう言葉がすぐに脳裡に浮かんだ。Nさん体制下にあったときのYさんはほとんどまったく口を利くことがなかったという。
 帰路スーパーに立ち寄るとすでに寿司は売り切れだった。しかたがないのでかわりに値引き品の竜田揚げを買った。帰宅してから汚れたまま放ったらかしになっていた皿を水場で洗っていると乳母車をひいた大家さんがやってきて、いつものことであるけれども料理と洗濯物の手際をやたらとおおげさなもってまわった言葉遣いで褒められた。それ補聴器のイヤリングなんか、とこちらの左耳にぶらさがっているものを指さしていうので、これはただのかざり、と答えた。玄米・インスタントの味噌汁・納豆・冷や奴・竜田揚げをかっ喰らったのち洗濯機をまわし風呂に入った。風呂場にはまた一匹かなりでかいゴキブリがいた。こちらが服をぬいでいるあいだにどこかに逃げた。
 部屋にもどりストレッチをしてから洗濯物を干した。それからブログをここまで一気呵成に書きあげると1時だった。ヨーグルトを食ったりコーヒーを飲んだりしてふたたび冒頭から読みなおし修正を加えると2時だった。歯を磨いてから『今昔物語』片手に寝床にもぐりこんだ。寝入りばなに隣人の帰宅する物音でいちど目がさめたのでひさびさに耳栓を装着した。