20140602

 そうしたら、といきなり続けた。空港に降りて荷物を取ってもう閑散としたリムジンの停留所に立っていると、海外旅行の帰りらしい老夫婦がトランクを積んだ車を押してやって来た。品の良い老紳士風だけれどなんだか猿のような面相が浮いているな、と眺めて相手が見返すようにするので目をそらしかけた時、その御亭主がふっと前へ進むのをためらったかと思うと崩れ落ちた。奥さんが屈みこんで助け起そうとする。御亭主の手がわなわなと震えて、奥さんの手ではなくて袖の、肘のあたりを掴もうとしてははずれる。その縋りつこうとする手の動きの、切迫がある境を超えた時、奥さんの顔に怯えが走って、腰が逃げた。二度にわたって、袖を掴んだ手を振り払おうとした。まもなく警備員が駆けつけて、救急車が呼ばれた。
 平然として見ていた、と驚いたのはリムジンの走り出した後になる。実際にはリムジンの近づいたのも構わず空港の建物の中へ走って近くの警備員を呼んだのは自分だった。それなのに、その足でゆっくり間に合って、騒ぎをよそにバスに乗りこんだ自分が今になり、役目を見届けてその場から去るところのように見えた。
 まるで死神の手先だ、と笑った。
古井由吉『野川』より「徴」)



 めざましは10時にセットしてあった。携帯のアラームは10時45分。起きれるわけがなかった。12時ちょうどに宅配業者がおもての戸越しにMさーんと二度三度くりかえしてこちらの名を呼ぶのに飛び起きた。ねぼけた頭で荷物を受けとり紙片を受けとった。ぼうっとしていると、あの、受け取りのサインを、とうながされたので、ああそうだったと受けとった紙片にじぶんの名字をぼろぼろの筆跡で書きつけた。部屋は蒸し暑かった。布団をたたんで枕元のPCをデスクの上にもどした。届いたばかりの箱に貼付けられてある紙片の「品名」欄に「本・DVD・マルクス」と記載されているのを認めたとたん寝起きの半醒半睡のテンションも加わって吹き出した。下宿が下宿なので過激派のアジトとして公安にマークされるかもしれない。「ご依頼主」の欄に記入されているAさんの本名に落ち着かないものをおぼえた。AさんはやはりAさんであるほうがこちらにはしっくりくるのだった。箱の中身にはDVDが三本(ビクトル・エリセミツバチのささやき』『エル・スール』とアラン・ロブ=グリエ『囚われの美女』)とでかい本が二冊(『独身者の機械』と『絵画の準備を!』)とマルクス(の胸像をかたどった貯金箱)とカプセル(のなかに丸めておさめられた手紙)が入っていた。前回の小鳥の粘土細工といい今回のカプセルといいAさんの雑貨趣味はいちいちユーモアがあってオシャレである。ありがたく頂戴します。このご恩はいずれなんらかのかたちで!
 暑いし頭はまだまだぼうっとしているし胃は重たいしでどうにもしんどい起きぬけをひきずりながら歯を磨き顔を洗いクソ適当にストレッチをしたのち、昨日付けのブログを投稿してからバナナを二本食べた。すると2時だった。蒸し風呂のようなこの部屋ではなにもやる気になれないのだが、冷房を入れるにしてもリモコンの電池が切れてしまっているので設定温度をいじることができない、それは困る。ビブレのなかに家電屋が入っているのでそこにむかうことにした。夏服がぜんぜんないのでずっとむかしに購入した股上の深い濃紺のジーンズに蛍光緑のミッキーTシャツを着てビーニーをかぶりリュックサックを背負うという裏原系(死語)装束に身を包んで家を出た。ジーンズは買った当初はそれ相応にゆとりのあるサイズだったのだが、今日ひさびさに脚を通してみると腹回りもふくらはぎもふともももぴったしはりつくぐらいだった。購入した当時はこれまでの人生でいちばんやせていた時期、すなわち50キロを割っていた時期である。プラス10キロの成果とみるべきだろう。
 家電屋で単四電池を購入したあとフロアに点在するソファに腰かけて文法問題集を解こうとしたが、デスクがないとさすがにやりにくかったのですぐに席を立って、一階にあるハンバーガーショップに入った。チャイティーとドーナッツを頼んで小さな丸テーブルの席に着いた。斜め向かいには白人女性がひとりイヤホンをつけたiPhoneをときおりぐりぐりと操作しながらノートにむかっていた。前の席には子守りをまかせられた若い祖母がベビーカーのなかの孫のほうをのぞきこみながら冷たいドリンクを飲んでいた。彼女はやがて孫と同じように眠りはじめたが、母親とその娘がつれだって戻ってくると席をたち、四人そろって立ち去った。白人女性の去ったあとの席に大学新一年生という感じの男の子がひとりやってきた。そわそわして落ち着かないようすを見るに、どうもカフェや喫茶店ファストフード店にひとりでおとずれることの普段あまりないタイプのように思われた。
 一時間半ほど勉強したところで眠気にたえられず席を立った。前夜の名残りか、朝から頭がずっとぼうっとしっぱなしだった。スーパーで食材だけ購入して帰宅するなり、生鮮食品を冷蔵庫に片付ける一手間すら惜しんで二つ折りして壁際に寄せてあった布団に倒れこんだ。扇風機の風を浴びつづけるのはよくないのにと思いながら寝た。
 めざめると20時半をまわっていた。二三時間は眠ったらしかった。頭がきりっと冴えていた。気分転換のはずが翌日までひきずりものにならないのでは本末転倒だと思った。身体を起こして水場に立った。玄米・インスタントの味噌汁・冷や奴・納豆・茹でたササミ肉・トマトときゅうりと赤黄パプリカのサラダを食った。
 22時を前にして喫茶店に出かけた。一日に二度もおもてで過ごすのは浪費であるが、気分がくさくさしてしかたなかったし、なにより暑かった。0時半ごろまで滞在して『レトリックと人生』の続きをひさびさに読み進めた。映画鑑賞の時間を削って英語の勉強をはじめた。のみならず読書の時間まで削ろうとしている。この選択ははたして正しいのだろうかと考えた。八十歳までいきながらえるじぶんをイメージした。するとやはり英語習得にたいする投資はしかるべきものであるような気がした。それも早ければ早いほうがきっといい。
 パンの耳をもらって店をでた。駐輪場でちょうど帰るところだったらしいSちゃんにばったり会ったのでおやすみなさいとあいさつした。SHOP99に立ち寄ってカップコーヒーとイヤホンを買った。喫茶店に到着すると同時にイヤホンがぶっ壊れてしまったことに気づいたのだった。一年に二度か三度はあたらしいものを買い直している計算になる。ここ最近の生活をふりかえってみるにiPodで音楽を聞くのはジョギング中かおもてでの作業中くらいで、いずれにせよ音楽のための音楽ではなくノイズを遮断するための耳栓めいた使い方でしかない。移動中に聞くのはたいてい英語の教材であることも加えて考えてみれば、もはや音質にこだわる理由などなにひとつないのではないかという気がして、それでphilipsから100均のイヤホンへと今日をもってして鞍替えすることに決めたのだった。帰宅してからためしに買ったばかりのイヤホンでHくんの音源をきいてみたらさすがにひどいこもり具合だった。しかし自室で音楽を楽しむのにはきちんとしたヘッドフォンがあるのでかまわない。
 風呂に入った。チャバネのでかいやつがまた一匹いたので、熱湯をかけたうえにシャンプーを垂らして退治した。部屋にもどりストレッチをしてからパンの耳を一枚焼いてカップコーヒーといっしょに夜食とした。それからここまで一気呵成にブログを書いた。書き終えると2時だった。そのままたてつづけに「G」に着手して5時まで改稿にはげんだ。131番まで。就寝準備を整えて『レトリックと人生』片手に布団のうえに寝転がった。扇風機のスイッチを入れたまま寝た。風は直接当たらないように調整した。おそらく6時半をまわっていた。