20140603

 出不精というのは、行かずともよいところにはふらりと行くくせに、行かねばならぬところには呼ばれても、とりわけ気の向かぬことはなくても、いざとなるとどうしても足が向かない、そんな頑是ないようなところがある、と昔年寄りが話していた。
古井由吉『野川』より「徴」)



 めざましは12時に設定してあった。めざめると14時半だった。弁明はするまい。歯を磨き顔を洗い部屋にもどりストレッチをした。おもてでは風がびゅーびゅーと吹いていた。背中が痛かった。頸椎に由来する痛みではたぶんない。肩甲骨に沿うてのびる筋肉が攣っているような、負担をかけすぎた筋繊維がミシミシと音をたててちぎれかけているような、そんな痛みだった。眠っているあいだの姿勢が悪かったのかもしれない。パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。今日もまた暑い一日らしかった。
 16時から冷房を入れて英語の勉強をはじめた。27度設定のドライだったが、15分としないうちにスイッチを切った。いちど熱気をうすめさえすればあとは扇風機で十分まにあった。19時に達したところできりあげた。年内に手持ちのテキストはすべて終らせることができるかもしれないと思った。あとは乱読してボキャブラリーを増やすだけというところにまでどうにかして持っていきたい。
 ストレッチをしてからジョギングに出かけた。日が暮れてあたりはすでに薄暗かったが、かまわず鴨川に出かけた。とても気持ちよく走れたあの日の夕刻とおなじだった。犬を連れた姿はひとつもない。ジョギング中の人影とも滅多にすれちがわない。貸し切りの河川敷というのはなんとも贅沢な話だった。 蚊柱にも出くわさなかった。日が暮れると連中はどこかに引っ込むものなのかもしれない。ひとつめの橋の下にはホームレスらしい男性がひとり壁際に直接腰をおろしうつむいていた。ふたつめの橋の下は真っ暗闇だった。みっつめの橋の下では制服姿の女子高生と私服姿の同年齢らしい男とが別れを惜しむように世間話をひきのばしていた。それらすべてのかたわらを立ち止まることなく駆けぬけた。観察はする、しかし寄り添わない。記述の倫理である。
 シロツメクサの芝生で軽く休憩をとってから下宿にもどった。風呂場でシャワーを浴びた。ゴキブリはいなかった。部屋にもどりストレッチをした。背中の調子はいくぶんマシになっていたが、あやしいといえばやはりまだまだあやしい。背中全体を寝違えたのかもしれない。朝の印象とは打って変わって、やはり頸椎と関連するところがあるらしいと目星をつけた。玄米・納豆・茹でたササミ肉・トマトときゅうりと赤黄ピーマンのサラダをかっ喰らった。ウェブを巡回したのち一年前の日記を読みなおした。風の強い日だとあった。風呂場にゴキブリが出たので熱湯をかけて殺したとも書いてあった。祝福と呪いの相殺しあっていかにも退屈な日々のぬかりない繰りかえし。
 0時より「G」に着手した。頭をきりっとさせるために冷房をいれた。朝とおなじようにすぐに消してあとは扇風機の世話になった。Twitterでこのあいだやりとりした方が俳句を投稿しているのを見て、このあいだの蚊柱について検索する過程で知った正岡子規の作品を見たときにも思ったことでもあるが、「G」でやろうとしているのは俳句に近いと思った。思ったと同時に、当たり前か、バルトはそもそも俳句から偶景というコンセプトを抽出したのだ、それを逆輸入しているんだから親近性あって当然ではないかと思いなおした。であればなぜいまのいままで当の俳句にあたろうとしなかったのか。うかつなことである。英語の勉強が本格化するとまとまった読書もいよいよ困難になる。詩集や句集のたぐいは合間あいまに読みやすい。ひとまず正岡子規だけでも図書館で借りてこようと思った。作業はいまひとつはかどらなかった。背中の痛みもあったし、きのうに引き続き悪戦苦闘している難所のためでもあった。とちゅうで気分転換をかねてコンビニに出かけた。水とおにぎりを買った。部屋にもどっておにぎりを食べてからふたたび原稿と対峙した。無駄だった。
 あきらめて2時半より一時間弱ほど『レトリックと人生』を読みすすめた。それから就寝準備をととのえて『今昔物語』片手に床に就いた。消灯するころにはおそらく5時をまわっていた。