20240523

 人間はみずからが原因であり、行為者であると信じている——
 すべて起きることは、なんらかの主語〔主体〕に相関した述語の関係にあるというのだ。
 すべての判断命題には、主語〔主体〕と述語への深い完璧な信仰が、あるいは原因と結果(Ursache und Wirkung)に関する信仰が潜んでいる。そしてこの原因と結果に関する信仰は(つまり、あらゆる作用(Wirkung)は行為であり、あらゆる行為はなんらかの行為者を前提にしているという主張であるが)、主語と述語に対する信仰の実は一例なのであり、結局のところ、主語〔主体〕があるという信仰が、基本的信仰として残るのである。
 わたしはなにかに気づくと、その理由を探そうとする。ということは究極的には、それをもたらした意図を探しているのであり、なによりもそうした意図の保持者、ようするに主体〔主語〕を、行為者を探しているのだ。……(略)……だが、因果律に対する異常なまでに強固な信仰をわれわれが持っているのは、特定の事象が連続して起きるという大いなる習慣のゆえではなく、ある出来事を解釈するにあたって、なんらかの意図によって起きたと解釈する以外にしようのないわれわれの無能力のせいである。すべての出来事はなんらかの行為であり、すべての行為には行為者がいると考えるのは、生きて思考しているもののみが、作用を生み出す唯一の存在であるとする信仰である——意志に対する、意図に対する信仰である——。つまり、「主体〔主語〕」に対する信仰である。主語および述語なる概念に対するこうした信仰は、大いなる愚鈍ではなかろうか?(断想2〔八三〕〔〕は訳者による補足)
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.332-333 ニーチェ『遺された断想』より)



 8時15分起床。トーストとヨーグルトの朝食。ケッタで外国語学院へ。駐輪スペースで電動スクーターにのったJから声をかけられる。ずいぶんひさしぶりだ。
 10時から一年生1班の日語会話(一)。「道案内」。2班にくらべるとやはり理解度が劣るかなという印象。いちばんできるのはS.MくんでもS.EくんでもなくS.Gくんかもしれない。学習委員のY.Tさんは先学期にくらべるとやや落ちたなという印象。
 授業を終えて教室をあとにする。廊下で二年生のR.IさんとE.Sさんから声をかけられる。リスニングの授業を終えたところだという。ケッタで新校区にもどる。キャンパスがアホみたいに混雑していたので、食堂には立ち寄らず寮に直帰し、トマトラーメンをこしらえてメシ喰うないや喰う。
 昼寝。30分のつもりだったが、3時間以上寝てしまった、目が覚めると15時をまわっていた。なにしとんねんカッペが。洗濯機をまわし、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返し、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は16時半近かった。

 S.Eくんの作文コンクール用原稿を詰める。とりあえず既定文字数におさまった。あとは締め切りまでに細かいところを修正すればよい。K.Kさんの原稿も同様に詰める。
 四年生のK.Kさんから微信。返信が遅くなってしまって申し訳ない、追試の問題を教えてほしい、と。問題用紙をそのまま送信する。答えまで教えるわけにはいかないが、簡単なものであるので、自分で準備してほしいと伝えたその流れで、大学を卒業できないかもしれないという話を聞いているので心配している、仕事に熱心になるのもいいが、学生であるのだからまずは卒業を優先して事にあたってほしいと続ける。こんな遠回しな表現ではマルチ商法にコントロールされている脳みそにショックをあたえることなどできるはずもないのだが、どこまで踏み込んでいいのかがわからない。K.Kさんからは通り一遍の感謝の返信。ハートの絵文字がたくさん付されているのに、これも「成功学」で学んだマナーなのかなとちょっと気色悪くなる。
 第五食堂で打包。メシ喰うないや喰う。チェンマイのシャワーを浴び、S.Eくん、K.Kさん、S.Sさんの三人に作文コンクール用の原稿を送る。こちらが構成および内容に多少手を加えたバージョンに対して三人とも問題なしとのこと。これで残すところはK.Kさんの原稿のみだ。
 今学期の残りスケジュールをチェックする。日語文章閲読の授業も最後の三コマはすべてテストにあててやろうかなとたくらむ。そうすれば今後授業準備はほぼ必要なくなる。卒業生のY.Eくんから微信がとどく。日本語教師として大学の教壇に立つ準備をしている彼であるが、「〜に招待する」がオッケーで、「〜で招待する」がアウトな理由がちょっとわからなくなってしまったという。学生らがしょっちゅうつまずくポイントだ。以下のように説明する。

以下をまず原則として理解しておくといい。
 
(1)場所+で=その場の動作
 
・例文
教室で勉強する。
部屋で寝る。
運動場でジョギングする。
 
(2)場所+に=存在・移動/方向
存在=いる、ある
移動/方向=行く、来る、入る、座る、住む、泊まる……
 
・例文
部屋に猫がいる。
机の上に花がある。
教室に入る。
ホテルに泊まる。

・違いの例
(1)庭で花を植える
(2)庭に花を植える
 
(2)は、そのまま理解すればいい。
(1)は、実は、少し変わった解釈も可能。なぜなら(1)は「その場の動作」だから。(2)と同じ意味でも理解できるが、
 
(庭に出て)鉢植えに花を植える。(その鉢植えをその後、別の場所に持っていく)
 
こういう理解をすることもできる。

家に招待する
→「に」は「移動/方向」の意味。招待の移動先が「家」。
 
家で招待する。
→「で」は「その場の動作」。だから、仮に「私は彼を家で招待した」という文章があれば、「私は彼が私のうちにいるとき、来週開催されるパーティー/食事会などに彼を招待した(誘った)」という意味になる(とはいえ、この文章は不自然なので、普通は使わない)。

 その後、少々やりとり。Y.Eくんは日本語を使う職に再就職することができたことをよろこんでいるようだった。前職にくらべると給料は少なくなるんだろうが、やはり興味のある事柄にかかわる仕事のほうがいいという。そりゃそうや。

 寝床に移動後、A Prayer Journal(Flannery O’Connor)の続きを読みすすめる。A Prayer JournalはFlannery O’Connorが若いころ(20歳だったか?)に書いた私的な文章がまとめられている一冊で、すべての文章がDear Godおよびそれに類する呼びかけからはじまるその書き出しのとおり、神にあてて書かれた文章という性格を有しているものであって、さっき私的な文章と書いてしまったけれどもはたして神に対する呼びかけからはじまる文章を私的というのはただしいのかどうかというアレがあるけれどもそれはともかく、つづめていえば作家の死後に発見されて出版された若書きのノートだ。読んでいて、O’Connorってこんなに信心深かったんだとびっくりするし、いや信心深いという表現は正しくないのかもしれない、信心を保つことができない、恩寵に触れることができない、charitableであることができない、そういうじぶんにたいしていらだち、幻滅し、ときに投げやりになり、それでもそうありたいと願い、祈る、そういう幅の広いゆれうごきを見ていると、聖書の逸話をグロテスクに換骨堕胎しては「なりそこねたキリスト」らを幾人も送り出す、あれらの小説群の母胎としてこうした葛藤があったのだという安易な結論に飛びついてしまいたくもなる。それはともかく、A Prayer Journalにカフカに対する言及があって、ちょっとびっくりした。こちらの知るかぎり、O’Connorがカフカに言及しているのを見るのは、これがはじめて。

I have been reading Mr. Kafka and I feel his problem of getting grace. But I see it doesn’t have to be that way for the Catholic who can go to Communion every day.

Please give me the necessary grace, oh Lord, and please don’t let it be as hard to get as Kafka made it.

 上の引用に微妙にかかわる内容だけれども、O’ConnorってけっこうCatholicであることにこだわるというか、作家としてもCatholicであることが有利に働くという論理を、Mystery and Mannersにも書き残している。

Christian dogma is about the only thing left in the world that surely guards and respects mystery. The fiction writer is an observer, first, last, and always, but he cannot be an adequate observer unless he is free from uncertainty about what he see. Those who have no absolute values cannot let the relative remain merely real-time; they are always raising it to the level of the absolute. The Catholic fiction writer is entirely free to observe. He feels no call to take on the duties of God or to create a new universe. He feels perfectly free to to look at the one we already have and to show exactly what he sees. He feels no need to apologize for the ways of God to man or to avoid looking at the ways of man to God. For him, to “tidy up reality” is certainly to succumb to the sin of pride. Open and free observation is founded on our ultimate faith that the universe is meaningful, as the Church teaches.
(Flannery O'Connor “Mystery and Manners”より“Catholic Novelists and Their Readers”)