20130414

 忘我体験(エクスターゼ)なるものをなんらかの系列に《編入》するのは私にとっては大事なことではない。私の関心をひくのは、忘我体験における、系列化することのできない固有性なのである。むろん忘我体験にも、それをとおしてなら出来事と出来事の因果的関連のなかへ組みいれられうるような一面がある。しかしそれがこの書の対象なのではない。忘我の体験者のことを私たちは心理学的、生理学的、病理学的に解明できるかもしれない。私たちにとって本質的なものはしかし、そのような解明の向こう側にとどまり続けるもの、すなわち彼の体験なのである。私たちはここでは秩序を形成しようとする概念、ことのほか暗いところに隠れてはいても、秩序を形成しようとしている、そのような概念に耳をかたむけるものではない。私たちは、自分の魂について、またその魂の言い表しがたい秘密について語るひとりの人間の言葉に耳をかたむけるのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「序言」)

 けれども、魂それ自体から起こって、魂のなかでなにかと接触したりなにかに抑制されるというようなことなく、みずからの独自性においてのみ育つ体験もある。それは営為のかなたで生じてみずからを完成するのである。他者から自由に、他者には立ち入れないものとして。それは養われる必要がないし、いかなる毒の作用もこの体験にまではおよばない。この体験のなかにある魂はみずからの内部にあり、自分自身をもち、自分自身を――際限なく――体験するのである。この魂がみずからを一体なるものとして体験するのは、もはや、それが世界のひとつの事物にすっかり自己を集中させたということによるのではなく、それがみずからのうちにすっかり自己を埋め、みずからの根底にまですっかり沈潜したからなのであり、このときそれは同時に種子であり外皮であり、太陽にして眼、盃にして飲みものなのである。このようなもっとも内的な体験こそ、ギリシャ人たちが忘我(脱自)すなわち、出てゆくことと名づけたものである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)



4時半起床。「偶景」作文。4つ追加して計163枚。8時より12時間の奴隷労働。朝っぱらからガラガラ声の(…)さんのテンションが高い。きのうは中学の同窓会があり朝方までずっと飲んでいたのだという。睡眠も一時間しかとっていない。そんなんでだいじょうぶなんですかとたずねると余裕余裕おれまだまだいけるぜんぜん潰れる気がせえへんと鼻息荒く、昨夜はモッテモテだった、主婦はちょろい、主婦は楽勝、もうみんなおれのとりあい、バンバン身体触ってきよる、と聞いてもない戦果を吹聴し、それも同僚がひとりまたひとりと出勤するたびに同じことをくりかえすほどであったが、昼前であったか、唐突に「きもちわるい……」と言い残し姿を消した。探索したところロビーの片隅にもうけられたブースのソファーでぐったりと横になっていた。昼過ぎくらいに復帰した。復帰するなり、おれの回復力はすごいと言い出したので、こりゃあかんとなった。今日は今日でまた義弟がマイホームにやって来るのでしこたま飲みにくるだろうといった。
仕事を終えて(…)に連絡をとる。いったん帰宅して着替えたり荷物を片付けたりしたのちくら寿司へ。信じられないほど混んでいた。観光シーズンだから?それとも新入学生の増加ゆえ?積もり積もった話をひとつずつ消化していく。そのまま(…)に立ち寄るつもりだったが満席だったのでわが掘建て小屋に進路をとりなおしパラッパラッパー。トランプをはじめるものの一瞬で飽きてあとはずっと音楽を聴いたり踊ったりしていた。若干首をふりすぎた気がする。めずらしいことに(…)がすぐ寝オチした。2時半ごろまでひとりでぐだぐだやっていた。Diva『The Glitter End』収録楽曲は総じて酩酊と相性が良いという発見。音楽を評価するにあたっての基準が変わりつつある。