20130430

(…)個としてのアイデンティティとクラスとしてのアイデンティティをきれいに選り分けることはおそらく困難であると思われる. クラスとしてのアイデンティティ規定をどんどん削ぎ落としてゆけば, その人間の個体としてのアイデンティティも次第に形式的なもの, 空虚なものとなってゆかざるをえないからだ(そして, この空虚で形式的な「自己」こそを単位として, 近代の国民国家はそこに自らの創出神話を充填してきたとも言えるのだ). むしろ, 個体としてのアイデンティティは, 大枠としては, さまざまなクラス・アイデンティティのそれ自体個性的な布置, という形で捉えなおさざるをえない側面があるのではないだろうか.
細見和之アイデンティティ/他者性』)



10時起床。洗濯。12時より16時まで瞬間的に英作文し続ける。徒歩で生鮮館に買い出しへ。もはや花粉におびえることはない。徒歩だ。いまやだいすきな徒歩が許されるのだ。二ヶ月ぶりに路面をたっぷりだらだら踏みしめて歩くのだ。むろん移動中はDuoる。マスクで口元が隠せないため独り言をぶつぶつつぶやくていになるが、かまうことはない。年をとるにつれて色んなことがどんどんどうでもなっていく。かまうことはないさと開き直ることができるようになる。年をとるにつれて、という表現はしかしおそらく妥当でない。羞恥心はたしかに年をとるにつれてすり減っていくものなのかもしれない。そういうのとは別に、このところ、当然のことと見なされている常識や良識と呼ばれるたぐいのあれやこれにたいする根本的な疑問のようなものがぐんぐん育まれているような節があって、こういうのはたとえば哲学やら現代思想やらをかじったり形式の更新に意欲的な芸術家の痕跡をたどったりしているうちにおのずと鍛えられていった生産的な疑心暗鬼みたいなものだと思うのだけれど、その疑心暗鬼が最近、本当に、きわめて力強いリアリティをともなって社会そのものを対象として迫ってくるようになった。なぜ、この社会がこの社会というかたちをとるにいたったのか。なぜ、これらの常識が常識として通用してしまっているのか。なぜ、これらの価値観がこれほどまでにくまなく浸透してしまっているのか。ありえたかもしれない他の可能性について思いをめぐらすといえばじつに凡庸なロマンチシズムのごとく聞こえるかもしれないが、ここに実感がつきまといはじめている。きわめてアクチュアルな問題として皮膚感覚でせまりきている。いくところまでいけば狂気のきざしとして見なされるであろうこの底なしの「なぜ?」が、しかしきわめて聡明な理性の産物であることにたいする確信もある。芸術家がしばしば隠遁生活を余儀なくされることの意味がようやくわかった。彼らは狂ってなどいない。ただいくらか聡明すぎただけだ。
買い物に行って飯をつくって筋トレをして飯を食ってウェブ巡回して仮眠をとって入浴してストレッチしたところで21時半。ウェブ巡回から仮眠にいたるまで30分程度の勉強時間をはさんでいるのをさしひいても作業を中断してから5時間は経過している。なぜなのか? ウェブ巡回がネックなのかもしれない。こいつに一時間は確実にもっていかれている。なんだったら二時間もっていかれているかもしれない。気になることがあれば検索せずにはいられないのだ。そして検索の結果導きだされた解答がまたひとつの問いを提起する。おわらない。キーボードを叩きまくる指先。じつに現代人らしい凡庸なことこのうえなしの病をわずらっている。
風呂上がりに便意(大)を催したときはいつも賽の河原を思う。積みあげた石を崩された気分だ。
21時半すぎより薬物市場で『Forest』読み進める。3時間かけて452ページまで。先日(…)相手にも語ったことであるが文法の勉強というのもまったくやったことがなくすべてなんとなくとニュアンスと勘と適当さで乗り切ってきたものだからなるほどこういうルールが、規則が、法があったのか!と目から鱗みたいな瞬間なんてしかしぜんぜんない。いちおう目を通してはいるものの、こんなもんだいたいニュアンスでなんとかなるだろうと思いながら読みすすめている。体系というのがむかしからどうも苦手だ。そうじゃあない。体系にたいする指向性みたいなものはたぶんある。ただその体系の材料となるものをありあわせのもので間に合わせてしまう妙な創意工夫の精神があるせいで、できあがったものが俄然いびつなものになる。
薬物市場からの帰路、例のごとく(…)に立ち寄りパンの耳だけ回収してさっそうと立ち去る。みるみる目減りしていく執筆タイムをカウントダウンしながら帰宅したものの、いざ部屋に入ろうとすると自室の扉が開かない。鍵をさしこむのだけれど右にも左にもまわらない。扉は引き戸である。鍵をさしこんでひねるとあの中東の曲刀みたいなフックが差し込み口から抜けて無事に扉がスライドするという仕組みのものなのだけれど肝心のそのフックがどうも変なところでつっかえてしまっているんでないか。フックと差し込み口の位置に目星をつけたうえで扉と扉の枠組みのあのすきまに鍵をさしこんで上下にスライドさせてみると途中でカチンと行き当たるものがあり、なるほどフックは差し込み口にむかってはまりこんでいる。はまりこんでいるもののそのはまりこみかたにおそらくはトラブルの原因があるのだろうと、それゆえにそのはまりこんでいる部分めがけてさしこんだ鍵の先端でガチガチ突いたり叩いたりしてみたのだが、いっこうに埒があかない。そうこうしているうちにものすごくイライラしてきて、そもそもこの引き戸だってじぶんがバイトに出かけている間に大家さんが勝手に、こちらには無断で、連絡のひとつもなしにいきなり交換したものであるし、というか今回のこのトラブルだってじぶんが薬物市場に滞在していた間にまた例のごとく合鍵をもって不法侵入した大家さんのチョンボによるものなのではないかと怒りの矛先がじわじわと彼女に向いだし、と、ここまで書いたところでそもそも大家さんはじぶんの留守中に部屋をおとずれたときはいつも解錠した鍵を施錠しなおすことなく立ち去るのだからこれは大家さんのせいではないかもしれない。だがどちらにせよ腹が立つときは腹が立つものだ。ひとまず朝が来るまでネコドナルドに滞在するか(鞄の中にはいちおう『Forest』があるのだから手持ち無沙汰な時間を過ごすことにはならないだろうがしかし眠気との不毛な闘いに貴重な時間を費やしたくなどない)、それとも(…)に連絡をとって一泊させてもらうか(だがやつのアパートは遠い)、あるいは(…)にトンボ帰りして朝までどこか片隅で寝かせてもらうか(しかしパンの耳をいただくだけいただいて立ち去るという乞食の離れ業を披露したその直後に自室に閉め出されましたといってすごすご舞いもどるのは滑稽の極みというものではないか!)、そんな諸々を考えているうちにますますイライラしてきて、もういいや、この扉ぶちこわしちまおう、そんでこわれた部分はガムテープかなんかで補償しよう、文句をいわれたら大家さんが勝手に差し替えた扉のせいでという論理で対抗すればいいやと、とりあえず引き戸の下部とレールの隙間に指先をさしこみそれを無理矢理力ずくで持ち上げてガタガタやってやることでボロボロに劣化した木製のレールをぶちこわすというか脱線をよびまねくというかそういうアレをもって連鎖的にフックをぶちこわすみたいなきわめて曖昧かつ乱暴な計画にしたがってひとまず当の隙間に指先をさしこんでそいやっともちあげてみたところ、バキバキバキ!という音についでカチャン!と、耳にした途端にフックがしかるべき位置に落ち着いたそんな音が聞こえたのであらためて鍵をさしこんでみたところ、無事に解錠に成功した。引き戸も見たところ無傷だった。祝杯のコーヒーを冷凍前のパンの耳とともにいただいた。
ここまで書いたところで2時。ブログなんて書いているから時間がなくなるのだ。こんなものはクソの役にも立たない。4時半まで作文。「偶景」2つ追加して計169枚。「邪道」プラス1枚で計456枚。「邪道」がいろいろときつい。