20130514

(…)真の「喪」とは――仮にそのような呼び方が妥当だとすればだが――死者の存在を想起=内化する主体の能力に存するのではなく, まったく逆に, 死者に生起した死を想起=内化せぬ記憶の非 - 能力に存するのだ. 自然死という慰めの外部で歴史の暴力によって犠牲者に到来した死という出来事は, 犠牲者自身にとってもみずからの人称性の内部に取り込むことのできない絶対的異質性だったはずであり, そうであってみれば, 誰も自己の「固有」の名において所有することのできぬその出来事を, みずからもまた人称化せず, 内化せぬ仕方でみずからに書き込むこと, 死者の名が固有化できず人称化できぬまま指し示している出来事の力を, そのまま刻みつけ, 痕跡化すること――それこそが, われわれに可能なもう一つの「喪の作業」であるだろう. デリダは, そのような「喪」の可能性についてつぎのように書いている――

それは他者としての他者, すなわち, 全体化可能ではなく, それ自体にとってそして同一者にとって不適合な痕跡である. この痕跡は, もはや内面化され得ぬものとして, すなわち不可能なErinnerung[想起=内化]として, 喪において内面化される. 喪に服した記憶の内部においてかつその彼方で, その記憶を構成し, 横断し, もはやその記憶のもとには限定されず, あらゆる再自己固有化――たとえそれがコード化されたレトリックやさまざまな比喩からなる慣習的システムや, 擬人法, アレゴリー, そして哀歌的で苦痛に満ちた換喩といった諸実践において行なわれるものであれ――に立ち向かいながら.
(「ムネーモシュネー」『記憶――ポール・ド・マンのために』所収)

 決して主体のもとに内面化されず, 「あらゆる再自己固有化に立ち向か」う「痕跡」――それこそが, 非 - 固有化の経験としての死を, その暴力を, 人称化(「レトリック」「擬人法」「アレゴリー」「換喩」による)ぬきに転写することを可能にするのであり, そのようにして一つの場を構成するとき, われわれははじめて死者たちを記憶し, 死者たちを「喪」において保持したということになるだろう.
 だから, 犠牲者をめぐる責任主体が構築可能となるのは, ここから出発してである. 死者に対して責任(responsibility)を負うとは, 死者を内面化し, 内面化することによって内なる裁きの場を形成することではない. 死者の通過した出来事がその再自己固有化に抗う痕跡において歴史の暴力を指し示しているとすれば, われわれに必要なのはただ, その痕跡の呼びかけに応えること, それも, あらゆる想起=内化の試みを必然的に挫折させることによって, みずからの固有化の働きにおいてではなしに, つまりはみずからの現前性の場においてではなしに, その呼びかけに応答することである. すなわち, 想起=内化の不可能な痕跡のためにみずからの記憶を開ききり, 別の記憶の主体となることで非現前的なる他者からの呼びかけへの応答可能性(responsibility)の場を作り出すこと――いかなる現在もなしに, いかなる内面や内部性の幻想もなしに.
守中高明脱構築』)



12時過ぎだったかそんくらいに起床。青っ鼻はこれまでに比べるとマシだがしわがれた声色は相変わらず他人のものである。歯磨きをするためにおもてに出ると今日も三十度越えの熱気。郵便受けに保険会社からの書類が入っていたので早速中身を確認し、いくつか気になる点があったので担当者に問い合わせ、それからきのうに引き続き半袖夏服に着替えて今年初となるストローハットをかぶり、近所にある自転車屋へ自転車を持っていって修理見積もりを出してもらおうとしたのだけれどうちではできないと断られ、かわりに別の自転車屋を紹介されたのでそこまで持っていって見積もりを出してもらい、と、その前にまずは保険会社から送られてきたインスタントカメラで自転車と血のついたパーカーと破れたTシャツの写真を撮ったりしたのだった。見積もりを出してもらったところで保険会社の担当者にこれくらいの値段になるようだけれどと伝えようとしたところ、留守で、あるいはほかの契約者との電話中だったか、とにかく連絡がとれず、それだからひとまず自転車は店にあずけたまま折り返しの電話がかかってくるまで時間を潰すことにし、コンビニでコーヒーを買って、自室で飲みながら瞬間的に英作文しつづけ、そうこうするうちに折り返しの電話があったのでだいたいこれくらいになるみたいですよと伝えると、うちの会社からではなく契約者のほうが直接自腹を切って支払うといっているみたいな返事があって、それってつまりどういうことですかとたずねると、小額の補償ならわりあいそういうことがあるんですよとのはぐらかすような返事が解せない、医療費と物損補償費というのは別カテゴリーになっていてそれらを両方とも保険で支払うとなると今後支払うべき月々の保険料が割高になってしまうので契約者が自腹を切るとか、あるいは保険会社を通しての物損補償となると経年劣化などの厳密な審査ゆえに満額補償されないそのことで被害者の感情を悪くしてしまい今後の交渉に差し支えが出るのをおそれてとか、たぶんそういうカラクリなんだろうとだいたい見当はつくといえばつくのだが、いずれにせよこちらにとって不都合な話ではない。ふたたび自転車屋に出向き、当初伝えておいた右ブレーキとペダルの修理だけでなくライトの交換も追加でしてもらうことにし、15分ほどで終わるとのことだったのだけれどとりあえず閉店時間までには引き取りに来ますからとだけ伝えていったん自室に戻ることにし、それでふたたび熱気のこもった窓のない部屋で瞬間的に英作文をし続けるなどしたのだけれどコーヒーを買ったのはむしろこの直前ではなかったか、瞬間的に英作文しはじめたのもこのときが最初であって、先ほどはむしろ書類に必要事項を記入するなどしていたのでなかったか。パーカーとTシャツの定価や購入日をはっきり覚えていなかったのでネットで調べるなどしてそれでもはっきりしないのでもういいやだいたいで、どうせこんなもん経年劣化うんぬんでまともに補償してもらえやしないのだからとやけっぱちになって書き込んだのがそうだ、さっきだ。
瞬間的に英作文しつづけて日が暮れて19時前だったか、あるいは18時半だったか、そんな誤差はどうでもいいといえばどうでもいいのだが、きりのよいところでふたたび自転車屋に出向き、金を支払い、領収書をいただき、よみがえったケッタにまたがり、茶色のプラスチックのペダル、LEDのライト、手応えのある右ブレーキ、田村隆一の詩だったかにおんぼろになった船を修理するたびにパーツを交換していき最終的にもともとのパーツはひとつもなくなってしまうみたいなことを何かの比喩として語っているものがあった気がするのだけれど、あれはそもそも本当に田村隆一の詩だったか。以前の職場で商品のAVやエロ本をすべて商品棚をのせた土台の端っこに片寄せてやってできあがったそのわずかなスペースに腰かけて本を読んだり横たわって仮眠をとったりしていた四年間の営みを思い出した。田村隆一のうすい詩集もそこでたしかに読んだ。ほこりくさい店、うんざりする女の裸、ゆるやかにきざしはじめる不感、エトセトラ、エトセトラ。たえまなく生まれ変わる新陳代謝サイボーグのごときケッタに乗ってコンビニに行って、保険会社から提出するよう求められている病院代とタクシー代と自転車修理代の領収書をそれぞれ念のためにコピーし、これにて本日に業務終了、帰宅してからふたたび瞬間的に英作文し、ケリのついたところで夕飯を食べた。風呂に入った。ストレッチをした。0時半。それでもまだまだ蒸し暑い部屋である。きのう(…)とチャットしているときに京都の真夏を窓のない部屋でふたり過ごす不安を告げたところ、ビニールプールを買って部屋の真ん中に置いておけばいつでも涼むことができるわよと、こいつ多分半ばは本気でいってるんだろうなという発言があったのだが、ところで(…)から電話があったのは何時ごろだったか。たぶん夕方くらいだった気がする。事故うんぬんよりも電話に出たこちらの変声期っぷりのほうにむしろ驚いているようだった。蒸し暑い部屋をのがれて深夜、薬物市場に出向き、すずしくひとけのない店内でひとり音読教材の先行リスニングを小一時間こなし、のちここまでまとめて日記を書いて2時過ぎ。「偶景」作文。3つ追加して計186枚。4時前に帰宅して5時前に寝た。
これ(http://youpouch.com/2013/05/13/119987/)すばらしい。こいつ((…))も追加しておこうか!