周縁部も含めて, 実践の領域全体を規定するのが「カタ」の第1の性格なんですね. だからこそ, 挨拶や, その領域の限界をしめす諸形態が重要性をもってくるわけです. 限界というのは, 境界線ではなく, 移行の空間なんですけど. だから, すべてをコード化するというのは, まるで第二の自然を創造するようなものですよ. そして, コード化と複雑化において常にもっと遠くへ行こうと努めることになるわけです. 茶道の形成がよく示しているのは, それが常により大きな, より微細で複雑なコード化へと向かっていったという点です. 「作法」の時間的な構造から, その空間, 建築, 所作, 道具, 言葉遣い等々にいたるまでそうなのです……. 未決定の領域を残しておくことには意味がないということでしょう. 役者がわりあい自由にしていると思えるところでさえ, やっぱりコード化があるんです. だからこそ弓道にとって, 弓を引く動作を構成するいくつかの所作をコード化するだけでは十分ではない. 弓の発射そのものに先立つ, 試合場に入ってくる瞬間にまでさかのぼる過程を, 一連の所作や振り付けによって複雑にしなくてはなりません. だからこのコード化は, その過程全体をおおっていく傾向をもつわけで, 最終的には少なくとも見かけ上, 行為者に自由な余白を全く残さないところにまでいくんです. なぜならこのコード化は, 行為者に属するのではなく, すべての人に属する, あるいは誰にも属さないものですから. それはこうしたものとして与えられ, 受け取られているんです.
(小林康夫・船曵建夫・編『知の論理』よりドゥ・ヴォス, パトリック「『型』の日本文化論 対話を通して身体を見る」)
11時起床。だるいが無理やり起きる。洗濯物を干している途中、あたらしい小説の構想が不意に浮かんだ。というよりは「邪道」をいったん手放そうとようやく踏ん切りがついたその流れで、それまでせきとめられていた次作への意欲が堤防を越えてあふれだしたというべきかもしれない。英語の勉強の片手間に書きつなぐことのできる、短いものがいいと思った。「祝福された貧者の夜に」というタイトルがまろび出た。構想よりもはやくタイトルが浮かぶというのは、小説にタイトルをつけるのがあまり好きでないじぶんとしてはたいへんめずらしいことである。「邪道」はいずれ続きを書くことになるのかそれともボツにすることになるのかいまはまだわからないけれども、経験的におそらく後者だろうなとは思う。いちど手放したものを後で書きつないだことがいちどもない。一年以上書きつないできたものを切り捨てるという判断はなかなか簡単なものではないというか、どっこいしょっと老後の重たい身体でせいいっぱいの寝返を打つような思いきりが要請されるが、作品としてはかたちに残らずともこの実験作を書きつなぐことで得た執筆作法上の技術や、論理の転がし方と戯れ方、認識の変容などはぬぐいさりがたくこの身体にしみついているのでまったくもって無駄ではないし、これを無駄と呼ぶのであればそもそもの話およそありとあらゆる営みは無駄というほかない。
最近よく実験的に生きるということを考える。与えられたこの生さえをもひとつの芸術作品として実験的にこねくりまわしてみたいという思いがあるし、そういう無茶のできるタイプの人間というのはたぶん限られていて、幸か不幸かじぶんはおそらくそのタイプである。鬼が出るか蛇が出るか、いずれにせよ稀少な選択肢が授けられているのであれば、帰結を考慮せずそれをひとつの特権と見なしてひとまずはおもいきり行使してみるのもある種の道理といえるのではないか。だれも目にしたことのない風景にだって出くわすかもしれないし、その結果、この世界の地図を書き換えることにだってなるかもしれないのだから。
前日分のブログを長々と書いて14時半。発音練習&音読。途中、パソコンの下に敷くタイプというかその上にパソコンをのっけるタイプの冷却器の異音が気になったので、ひさしぶりにファンの埃を掃除した。左右にひとつずつ設置されてあるファンの片側の回転速度が明らかに遅い。耳かきの綿の部分を利用して埃をさらったり、さきっちょの部分を利用して回転速度に待ったをかける原因となっている髪の毛などをとりのぞく。明らかにじぶんのものではない茶髪の長い髪の毛がいっぽん出てきて、さてこれは誰のものだろう。思い出が駆けめぐる。
きりのよいところで作業を切り上げて整骨院へ。のち筋トレ&ジョギング。汗だくになって風呂場にむかうとまたもや全裸の大家さんと遭遇して、うわーと思って引き返そうとすると、入っておくれやし、と呼びまねく声があって、まるでひるんでいない。シャワーでざっと汗をながしてから部屋に戻り、音読の続きにとりかかって無事に単元を片付けおえたところで23時をまわっていたのではなかったか。食材がないのでフレスコに買いに出かけようと思ってわざわざ着替えまですませたのだけれど、昨晩どか食いしたことであるし今日は控えめにしたらいいんでないかと思いなおし、結局コンビニでカップのコーヒーだけ買って帰ってきてレタスとチーズと豆腐とイトメンのチャンポンメンという時空間を軽々と横断するラインナップの夕餉をとった。
食後は延々と瞬間英作文。灯油の残りを処理するために玄関のそばにある小窓を開けてそちらにむけてヒーターをつけっぱなしにしながら作業にはげむ。4時前にケリがついたので就寝。立誠小学校でやっているファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』、結局観に行かずに終わりそうな気がする。デーブリーンによる原作は南草津まで歩いて出かけた日のお供だった。