20131024

目は考えごとを仲介して伝える、だから僕は時々、何も考えなくて済むように目を閉じるのだ。そんなふうにして何もしないでいると、突然、生きることはなんて厄介なのだろうと感じることがある。何もせず、なおかつきちんとした態度を守る、これはエネルギーを要する。それに対して、何かを創り出す人間は楽だ。
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳「ヤーコプ・フォン・グンテン」)



9時起床。洗濯。10時半より「A」推敲。14時死亡。脳みそがどろんどろんによどむような気怠さ。外の空気を吸って洗濯してやりたいがあいにくの雨降りである。頭のなかがカユいんだ。
買い物に出かける気力さえなかったが、しかしだからといってありあわせのもので夕食をすませるとなると外の空気を吸う稀少な機会がうしなわれてますますどろんどろんになってしまうように思われたので男・無法松、ド根性出して家を出た。傘をさしながら片道十分の道のりを歩いてぶつくさやった。スーパーではじつにひさしぶりに豚肉を買った。殺人事件のあった家の前を通っているはずなのだけれどどの家が現場であったのかいまひとつ覚えていない。コンバースがボロボロすぎるせいで水たまりをどれだけ完璧に避けようとも雨の日に外出すれば必ず水がしみこんでうっとうしい。そろそろ買い替えないと。女性に好まれる男性のタイプとしてしばしば清潔感という要素があげられるけれど、靴はボロボロだしズボンの裾も黒く汚れてるし上着はほつれてるしそもそも390円で買ったものだしひげ面だし、部屋の畳は腐ってるし小蠅がよくわくし鍵はないし窓はないしそのくせ13万円の椅子はあるし、職場はダーティーだし同僚もダーティーだし上司もダーティーだし業界そのものがダーティーだし残りものと拾いものと貰いものでやりくりしてるそもそもの生活がやっぱりダーティーだし、と、ここまでくるともはや清潔感うんぬんの話ではない。
ずいぶん早い夕飯を食したのち大西巨人をぺらぺらやって仮眠をとり、18時に起きてからシャワーを浴びた。それからふたたび大西巨人をぺらぺらやったりしつつ徐々に推敲へのモチベーションを高めようと努めたのだけれどしんどいものはしんどいしつらいものはつらいし背中だって痛いものは痛い。ゆえにとりあえずの助走というかストレッチとしてこうしてブログを書いているのだけれど、大西巨人のあの独特の文体ってなにかこう癖になるところがあるというか、遊び・隙・弛み・だらしなさみたいな(「物語」に対置すべき概念としての)「小説」的要素をまったくもたない文体でしかしその小説を書いてしまっているというか、いま読んでいるものはエッセイなのだけれどたとえば『神聖喜劇』(大傑作!)なんかはある意味脱線に次ぐ脱線でなりたっているというかそもそもの脱線という概念を無効化してしまう細部が細部のままに無機的に積み重なって構築された全体としての小説になっていてすなわち完璧な小説でありその完璧さが非小説的文体と折衷しているのが妙味になっているのだけれど、それが『深淵』なんかになると細部もクソもない骨組みだけの図式がごろりと投げ出されているような按配でそこに加えて肉をもたないやはり骨組みだけとでもいうべき例の文体が加わるわけであるのだからいったいこれは何なんだという異様な相貌をていしてこれはまたこれですごい。ぜんぜん名前負けしていない化け物じみた孤高の書き手であると思うし、文学賞のたぐいを一度も受賞していないところがハクになるのもこのひとくらいだろうと思う。完全に世界にもてあまされている。
20時。ようやく覚悟が決まった。「A」推敲。最初の30分ほどはなかなか気分がのらずに苦戦したが、例のごとく部屋の照明を落とし香を焚き、コーヒーをバカスカ飲んでいたら完全にスイッチが入った。気づけば1時半になっていた。ここまで集中力が持続するものかと驚くと同時に体に負担のぜんぜんかかっていないらしい現状に感動する。ペンネームにミドルネームとしてアーロンを入れてもいいのではという程度にはハーマン・ミラーに感謝しているマジで。
日記が短いというのはいいことだ。それだけ作業にみっちり時間を費やすことができたというほかならぬ証左なのだから。今日はコーヒーを10杯近く飲んだ気がする。そろそろ小便が泥水みたいな色になるんでないか。