20131028

 体操とダンスの授業は時にはとても楽しい。器用さを見せなくてはならない、それには危険が伴わないわけではない。でもどうして恥をさらすことができようか。たしかに、僕たち生徒はおたがいに笑い者にしたりしない。しない? いやそうでもないな。口で笑うことが許されないなら耳で笑うのだ。それに目でも笑う。目は笑うのが好きだ。目にあれこれ指図するのは難しい。なんとか出来はするけれど、でもかなり難しい。たとえば、ここでは目くばせは禁じられている。目くばせは人をばかにしているからやってはいけないのだが、でも時々はやってしまうこともある。もともとの本性を完全に抑圧することなど、しょせん無理なのだ。とはいってもある程度はできる。本性をすっかり改めたとしても、つねに仄かな気配や名残りはあり、それにつねに表にあらわれる。例えばのっぽのペーターは、彼独特の変わった個性からうまく抜け出せていない。ときどきダンスの時間に優雅に動いて見せなければならないとき、彼はまるで丸太棒のようなのだが、ペーターにとって丸太棒こそ天性の素質なのであり、いわば神の賜物なのだ。ああだけど、広げた両腕の長さほどの丸太棒がのっぽな人間の姿をして現れたら、どうして笑わずにいられるだろう。俯いて胸に向かって派手にぷっと吹き出してしまう。大笑いは一切れの丸太棒と正反対なものだ。そこには燃え立たせるもの、心の内でマッチに点火するものがあるのだ。マッチは忍び笑いをする、押し殺した笑いのように。僕は響きわたる笑いを抑えられるのが、ものすごく好きだ。外に飛び出たがっているものをそのまま解放してはならない、それがくすぐったくてとても気持ちよい。出てはならないもの、自分の中に押し込んでおかなければならないもの、そういうものが好きだ。抑圧されると辛いが、そのぶん価値が高まる。そうなのだ、告白しよう、僕は抑圧されるのが好きだ。たしかに。いや、いつも〈たしかに〉そうであるわけではない。〈たしかに氏〉には退却してもらおう。言いたかったのは、何かをしてはならないということは、つまり、どこか別の場所でそれを二倍にして実行するということだ。投げやりに安っぽくすぐに与えられる許可ほどつまらないものはない。僕はすべてをこの手に入れて体験したい。例えば笑いだって徹底した経験が必要だ。心の中で笑いすぎて粉々に弾け飛んでしまい、そのシューシュー音を立てている粉をどこに片づけたらよいやらわからなくなってしまったら、そのとき僕は笑いとは何なのか理解するのであり、笑いに笑ったのであり、僕の心を揺さぶったものの正体を完璧に知ることになるのだ。したがって僕は、次の事実を無条件に受け入れ、固い信条として守り続けざるをえない。つまり、規則というのは生活に銀メッキ、いやもしかしたら金メッキさえ被せるものであり、すなわち生活に魅力を与えてくれるのだ。なぜならきっと他の事柄や欲求もほとんどすべて、この禁じられた魅力ある笑いと同じにちがいないからだ。例えば泣いてはいけないとすると、この禁止が泣くことの意味を拡大する。愛の欠乏に耐えることが愛するということだ。愛が禁じられたら、僕の愛は十倍になるのだ。禁じられたものはすべて、多種多様な方法で生きている。つまり、死んでいるはずのものこそが、いっそう生き生きと生きているのだ。一事が万事そうなのだ。実に素敵な、実に日常的な言い方だが、でも日常的なものの中にこそ真の真実があるのだ。また少々おしゃべりが過ぎたかな。たんなるおしゃべりだってことは認めよう。だって何か書いて行を埋めなくてはならないのだから。禁じられた果実とはなんと魅惑的なことか。
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳「ヤーコプ・フォン・グンテン」)

この段落はほんとうにやばい。気が狂っているとしかおもえないむちゃくちゃな文の運びだ。主題がずんずんずんずんなだれこんでいく。「邪道」はおそらくこんなふうに書くべきだった。