20131029

自分を尊重すべきもの、価値あるものだと見なさずにすんで僕はなんて幸せなんだろう! 小さく、そのまま小さいままでいるのだ。ひとつの手や状況や波が、権力や影響力の支配する場所まで僕を引き上げたり持ち上げたりすれば、僕は自分を優遇していた境遇を打ち破り、地の底の無言の暗闇に向かって自分を投げ込むだろう。僕は下層圏でしか息をすることができないのだ。
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳「ヤーコプ・フォン・グンテン」)



10時半起床。12時より表紙画像作成。途中で休憩をはさみつつ17時まで。完全に麻痺ってしまった。どれが正解なのかもうさっぱりわからない。ひとまず候補として新しく作成されたものは以下のとおり。フォトショップがあればもうすこしマシなふうにできるんだろうけど、むかし路上でポストカード売ってたときにぜんぜん知らないひとからもらったあのデータCDどこにいっちまったんだろう。
(…)
小雨の止んだところで近所にある整形外科まで歩いて出かけた。大病院とちがって混雑していないのがありがたいが、担当医師の態度がどうにも気にくわなかった。問診のさいに腰痛は以前からあったのですかとたずねられて、腰というよりも首肩背中と背面全体が、と答えかけたこちらの言葉をさえぎって腰痛はなかったんですねと、おれがたずねているのは腰についてであってそれ以外の情報は余計であると断じるような勢いでかぶせられて、カチンときた。レントゲンを撮った結果、腰骨の畸形であることが判明した。背骨のいちばん下のパーツが骨盤と一体化しているらしく、腰痛持ちにはときどき見られる畸形であるという。胸骨のみならず背骨まで畸形であるとはまことに不便な身体である。骨盤と一体化しているそのためにクッションとしての機能が失われており、結果、椎間板に負荷がかかりやすいとのこと。重いものをもったりするときはなるべく気をつけるようにしてくださいといわれたのでやはりじぶんには自重トレーニングしかないなと思った。腰の具合はそれほど悪くない、治りかけているところだろうというのだけれどそんなことはこっちもわかっていて、重要なのはこの状態で運動してもいいかどうかのその一点である。というわけで問うてみれば、問題ない、ジョギングも腹筋もかまわないとのことで、このお墨付きさえもらえればあとはもうどうでもいい。畸形もクソも知ったこっちゃあない。おまえのツラも二度と見たくない。
受付のきれいな姉ちゃんから湿布をもらって3000円近く支払って、それで帰宅するなりさっそくストレッチをして懸垂をしてジョギングに出かけた。懸垂がぜんぜんできなくなっていてげんなりした。おもえばSの滞在していた二ヶ月間ほとんど筋トレらしい筋トレなどできていなかったわけであるし(そのかわり毎日すごい距離を歩いたが)、もともと華奢な骨格のもちぬしであるのでとにかく簡単に肉が落ちてしまうこともあるしで、腹筋なんかも三段目の割れ目がけっこうあやしいことになっていて、目に見えて劣化している。じぶんの体格と筋トレの関係はほとんどシジフォスみたいなアレになっているとこれはしょっちゅう抱く感想であるのだけれど、しかし文句ばかりいっていてもしかたあるまい。よりよく書き、読み、学び、生きるために必要な訓練である。たやすわけにはいかない。ひさしく途絶えていた習慣を本日より再開する!
帰宅してシャワーを浴び、大家さんにいただいた鮭とひじきをおかずに夕飯を喰らい、ネットを巡回したのち、昼間のうちにプリントアウトしておいた原稿をもって逃現郷に出かけたのが21時、そこから1時までぶっ通しでひたすら朱入れしつづけたのだけれどなにが信じられないって、これだけ何度もくりかえし推敲を重ねているにもかかわらずいまだに紙面が真っ赤になってしまうようなページがざらにあるという事実でこれほんといつになったら終わるのか、そもそも終わりがあるのか、なにをどうもって終わりとすればいいのか、それを考えると気が遠くなるというかこのままだと一生推敲し続けるはめになるような予感さえして絶望的な気持ちになる。少なくとも11月いっぱいは「A」と付き合うことになる見込みがすでにたってしまっていて、英語の勉強がぜんぜんできていない現状なんかに焦慮と苛立ちもおぼえるし、とにかくはやく終わらせてしまいたいのだけれど表紙の一件もふくめてぜんぜん目処がたたなくて原稿をいじくっているだけで一日があっという間に終わってしまう。どうにかならないものかこの状況は。
店を去るまえに例のごとく(…)さんからパンの耳をいただいたのだけれどそのとき(…)ちゃんから(…)ちゃん毎週見かけるのにもうかれこれ一年ほどおしゃべりしていないというようなことをいわれて、一年ってことはないんでないかと思うのだけれどたしかにこのところあんまりしゃべった記憶がなくてこれはべつだん(…)ちゃんにかぎった話でなくほかの顔見知りの方々にも該当する事実なのだけれど、喫茶店では基本的に作業をする前提で来ているところがじぶんにはあるためにどうしてもなんていうかこう口数の少ないネクラみたいに映ってしまうんでないか、感じのわるい男、無愛想で対処に困る客になってしまっているんでないか、そしてそんなじぶんが長居することによって店の空気をわるくしているようなところがなくもないんでないかと、これは以前よりちょくちょく覚えていた懸念ではある。ゆえにその旨伝えたところ、べつにそれはかまわない、それが喫茶店というものだからという(…)さんからの返事があって、かまわないといってくれるのであればこれから先もこんな具合で好き勝手やらせていただければと思うのだけれど、それにしたところでたとえイヤホンを装着した状態でパソコンや原稿にむかってトイレに立つ以外の間はひたすらカタカタカリカリやっていようとも外からのアプローチすべてを遮断しているわけではないのだし話しかけてくれるひとがいるのであれば応答ぐらいするつもりの心構えではいちおういるのであるし、事実(…)さんや(…)さんとは顔をあわせればそれ相応の世間話などするのだから、と、ここまで書いたところで気づいたけれど世間話をするのはたいてい(…)をともなって店をおとずれたときであって作業をしに店をおとずれたときではない。おひとりさまのときはわりと淡々と挨拶だけしてそれでおしまいだったりすることの自覚をいま抱いた。それとはまた別の話というかどこかつながっているアレでもあるのだけれど、長時間の作業を終えたあとのあの異様にしゃべれなくなるというか口下手になってしまう現象はなんなんだろう。今日はとくに顕著だったと自己認識しているのだけれど、支払いをしてパンの耳を受け取ってそれでたちさる前に簡単な立ち話、のつもりがもうぜんぜん言葉が出てこないし頭は回らないし、これ身体の疲れや寝不足や薬理的なアレなんかとは根本的に異なる事態できわめて独特の症候というべきというか、傍から見ていたらほんとうにもう五年ぶりに外の世界に躍りでたひきこもりの口ぶりみたいになっているんでないかと思われるくらいにぜんっぜんしゃべれなくなる。がっつり作業に集中したあとはとくにそうなりやすくて(…)ともそれでいちどたしかケンカしていて、あのときはたしか日中ようやく別行動をとることができた日でその日は自室でずっと書き物をしていたのだけれどひさしぶりの作文タイムということもあってシャブなんて非じゃないほどナチュラルに覚醒しきって集中し続けたのだけれどその反動がほんとうにひどくて、帰宅した(…)との会話がもうなにひとつ盛り上がらないというかものすごく困難というか相手のしゃべっていることは耳にしたそばから理解できなくなっていくしじぶんがしゃべっていることも口にしたそばからわからなくなってしまうしで、ああいうのは一種の失語体験なんだろうか。
帰路、薬物市場にたちよってネット料金の支払いをすませたのだけれどそのときたまたまiPodからニーナ・シモンのSeems I'm Never Tired Lovin' Youが流れていて、たぶん(…)が帰国してからこれまでのあいだでいちばん彼女のことをなつかしく思い出した。というか厳密にいえばこの楽曲と薬物市場と夜の組み合わせから連想されるのは(…)当人ではなくて(…)の来日にむけて毎日はりきって英語の勉強をしていた期待感とそわそわの日々であり、薬物市場で作業を終えた午前四時の帰路を半袖いちまいでケッタでえっちらおっちらやりながらたどった夏本番を間近にひかえたあの高揚感であって、だから浮かびあがってくるのは彼女の像ではぜんぜんなくてあくまでも夏の夜のあの蒸し暑さであり、現実の困難に幻滅する以前のピュアな期待感であり、勝ち目のある恋心であり、片思いの認識だけが可能にしてくれるひとつのひたむきさであって、そういうもろもろは死してなおとても美しい。ほんとうにとても。
帰宅後牛乳を買い忘れていたことに気づいたのでコンビニに買いに出かけた。帰り道にとてもきれいな双子っぽい女の子とすれちがった。パンの耳にバターを塗ろうとしたら包丁に巨大ななめくじがひっついていて、いったいいつの間にという感じだった。水場で洗いながしてから塩をかけた。くるくる丸くなって苦しそうに触角をのばしたあとに冷えて固まり死んだ。