20131103

 フランツ・カフカは『ヤーコプ・フォン・グンテン』を読んで「良い本」だとみなした。「もちろんこんな人たちも、外側から見ると、どこでも走り回っていて、僕は自分も含めたうえで何人か数え上げることができますが、でも彼らは価値の低さによってではなく、かなり良い出来の小説の中の、あの光の効果によって際立つのです。」(一九〇九年、エルンスト・アイナー宛ての手紙)カフカは友人であり作家・評論家のマックス・ブロートの誕生日プレゼントとしてこの小説を贈った。
 カフカ全集の編者として知られるマックス・ブロートは、カフカを通じてヴァルザーを知り、すぐに熱狂的支持者となった。一九一〇年十二月、彼は出版したばかりの自作の詩集『詩による日記(Tagebunch in Versen)』を、「心よりの敬意をこめて」という献辞を添えてヴァルザーに送った。また文芸誌「パーン(Pan)」にヴァルザー評を掲載して、敬意を存分に表現している。「なんという文、なんという文構造の新しさ、なんという無意識の幸福!……このような新しい文体の発明にわれわれの時代のもっとも偉大な文学行為を見ない人、こういう人は文学の本質についていまだ予感のかけらも魂の中に感じたことがないのだと言ってかまわないだろう。」(一九一一年十月十五日)
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳『ローベルト・ヴァルザー作品集3』より「訳者後書き」)



5時起床。きのう夕食をとっていなかったので玄米、納豆(みょうが・おくら・生卵)、もずく、えのきと豆腐の味噌煮を食べた。朝からしっかり食べるのはなかなか心地よいものである。こうやって献立を書き出してみると典型的なまでのじぶんの食事風景だと思う。(…)にもらった筋トレ本に理想の食事として掲載されていた献立というのがふだんじぶんのとっているものとほとんどまったく同じだったのだけれど、Q.それじゃあどうして栄養失調になどなるというのだろう? A.食事回数が少ないからである。朝昼晩しっかりとるべきなんだろうけれど、食後の眠気による作業効率の低下を考えると、今日はコーヒーがぶ飲みで乗りきろうかと、毎度そんな気持ちになってしまってだめだ。頭はいつもできるだけキンキンに冴えていてほしい。ぼやけていてもかまわないのはセックスと酩酊、すなわち、陶酔にかかわるひとときだけだ。
8時より12時間の奴隷労働。(…)さんが借りてきた猫のようにおとなしい。だからこれはこれでやりにくいんだっつーのと(…)さんとひそかに語り合った。帰り道は雨にふられた。職場を出る時点ですでにけっこうな雨量だったのだけれどかまやしないと傘も借りずに自転車を漕ぎ出したことを一分で後悔した。クソ濡れねずみ。帰宅するなりシャワーを浴びて半額品の総菜を主菜に簡単な夕食をとった。洗い物をしようと玄関をでると水場に通り魔がいて、シンクの上に電気プレートを置いて焼きそば的なものを調理しながらその場で立ち食いしていたみたいなのだけれど、えらい形相でこちらをふりかえるものだからなんだこの野郎と思って、あとどんくらいでそこ空きます、とたずねると、えっ?と聞き返しながらたぶんイヤホンか何かをはずして問いなおすので、いや洗い物したいんやけどな、そこあとどんくらいで空くの、というと、いやあの、えーと、とやたらとおどおどしはじめて、なんだこいつクソ気弱なくせして大家さんにたいしてだけはあの態度なのかよと例のクレーム用紙を思い出して少し腹が立った。いやいやもうええよ、そっちすんでから使いますわ、と告げて部屋にもどった。部屋に電気くらい引けばいいのに。
Washed Out『Paracosm』が届いていた。
ずいぶんたまっていたブログの読み直しをしておこうと思ったのだけれど、一年前のいまごろというのはちょうど「ブログ」の更新を停止してプライベートな「日記」を書いていた時期だった。日記のほうがブログよりも文量は少ないが、その日のハイライトだけをぱぱぱっと簡単に記述して置き去りにしていくようなきっぷのよさがある。そしておそらくはそうした記述の経験が「偶景」を執筆する契機になったんでないだろうか(昨年11月3日の日記に「今日からなるべく毎日偶景的な断片を書くことにする。」とある)。ただしこちらの「偶景」は、文学と文学でないものをへだてる薄皮一枚のその線上にバルトの見出した「偶景」とは大きく異なる、というかほとんど対義である。バルトが逃げ去ろうとした文学の領域そのものへの後退であるのだから。むろんバルトにとっての後退がこちらにとっての前進でもありうる、そうした絶対性なき幾何学のもとに個人史はあまれるべきであるというのがこちらの考えであるので、文学史にとっての後退であろうとこちらにとってみればおおいなる歩みのいつもとかわらぬ一歩である。97歳のじぶんの息絶える地点が19歳のガキのいままさに走りだそうとして靴ひもを結びなおしているその地点に重なるということはおおいにありうる。ただしその重なりとはあくまでも絶対性の幾何学のもとに把握された空間的な座標上でのできごとでしかない。持続と特異性、あるいは、持続の特異性。以下、昨年11月の「日記」より。「偶景」に採用できそうなものだけをコピペ。

17日
大雨の中、古本市場へ。書籍の売却という名の処分。裏面に鉛筆で値段が書かれているために買い取りできませんとか言われたので、消せばいいだけの話なんだから消しゴムでも貸してもらえないだろうかと頼むと、(消しゴムは)ありませんとの返答。こちらも鬱陶しい客であるが、そちらも鬱陶しい店員だ。

18日
本当にうれしかった。好かれている、だとか、愛されている、だとか、そういうのよりもきっとじぶんがいちばんしっくりきて、なおかつ、うれしいのはたぶん、面白がられている、という身の置き方なのかもしれないなと思った。

21日
どうでもいいひとにたいしてほど思わせぶりな言葉はすらすらと口を突いて出る。

30日
面白かったのか面白くなかったのかそれさえよくわからない読後の余韻が残る小説というのは、これまでの経験からするとほぼ間違いなく、じぶんの読みの力量を上回る作品であると、ひとまずはそのように認めることが近年の習慣となっている。これは「世界とお前が対立するとき、おまえは世界の側につかなければならない」というカフカの言葉を踏まえたものだともいえる。