20131224

この本は、評価を拒絶するかわりに、全ての人に向かって開かれている。そういう意味で「聖書」の一種である。
(鈴木創士『中島らも烈伝』より中島らもエドモンド・ジャベス『問いの書』について書いた書評の一節)



10時起床。(…)と遊園地にいく夢を見たようなそうでないような。(…)さんに電話して祖母の一件を伝えてから歯をみがきストレッチをし、洗濯機をまわした。部屋のなかにいると郵便受けがことんと音をたてるのが聞こえてきたので電気料金の明細かなと思って湯をわかすべくおもてに出たついでに調べてみるとはたしてそのとおりだった。腰痛のためにポリタンクに入った灯油を運ぶ気にはとてもなれないということもあって今年はファンヒーターを使用せず、かわりに今年の夏に徹底的に清掃してよみがらせたエアコンを使用しているのだけれど設定温度18℃とはいえ、自室に滞在中はほとんどずっと点けっぱなしでいるしもちろん一日の大半は自室にいるし、というわけでえげつない金額になっているんでないかとひやひやしながらのぞいてみたのだけれど2600円で、こんなもんかよとびっくりした。しかしこれでも対前年同月比は+120%とある。いぜん住んでいた閉鎖病棟アパートはなぜあれほど毎月電気代がかさんでいたのか、冷房も暖房もいっさいなしにもかかわらず毎月2500〜3000円のあいだを推移してこれはいくらなんでもおかしいと大家さん相手に何度か訴えたこともあったのだが、50番さん(とじぶんは部屋番号で呼ばれていた。まるで囚人だ!)は部屋に冷蔵庫を置いているし炊飯器も使うしだからでしょうみたいな理屈で押し通されてしまって、こちらとしてはずっと漏電か何かが原因ではないかと疑っていたのだけれど、しかしタイ・カンボジア旅行で一ヶ月部屋を空けていたあいだ電気代は基本料金以外は0円だったのであれはいったいどういうことだったんだろう。各部屋の扉の上部に備えつけられていた電気メーターの数値をもとに大家さんが割り出す電気料金算出方法の計算式がおかしかったとかそういうことだったんだろうか。
トーストとバナナとコーヒーの朝食をとったのち洗濯物を干した。12時だった。BCCKSのプレビューを参考にしつつ「A」の推敲をはじめたが、じつにしんどかった。前半の難所二点に対応するだけで完全にすり減ってしまったというかこれが最後の一周だぞという気負いのせいでこれまでいちども引っかかることのなかった細部のあれこれすべてが修正すべき瑕疵のように思われてきてめまいを覚えた。ここにきて読みすすめる目がいっそう明晰に冴えはじめるというのはあまりに残酷な話ではないか。祖母の一件もあるし、じぶんに残された時間がどれだけなのかわからないというその不透明さがまたこちらの焦慮に火をつける。なんとしても年内には手放したい。
おもてに出るとあるかなしかの雨が降っていたが、雨であるとはっきりと断言するのがすこしためらわれる程度には皮膚に付着したその冷たさに固体の感触が残るようであって、雪かみぞれか、いずれにせよすぐに止んでしまったそのなかをぶつくさやりながら歩いてスーパーにむかった。総菜コーナーにクソでかい骨つきもも肉が積まれておりしかも20%オフだったかで本来ひとつ500円もするのが400円みたいなアレでこれは買うほかあるまいと年にいちどの贅沢をゆるした。帰宅してから腰痛の懸念をおぼえながらも腕立て伏せをし、前回の反省をふまえてしっかりストレッチをして両脚の筋肉をほぐしてからジョギングに出かけた。途中ですこしだけ歩いたが、なかなか良いペースで走れたように思う。帰宅してからシャワーを浴びて部屋にもどりストレッチをしていると大家さんがやってきて、帰省のさいにはご両親にどうぞよろしくと手みやげをいただいた。けっこうな和菓子とみえる。玄米とレタスのサラダと肉のかたまりの特別なディナーを喰らったのち仮眠をとった。めざめると21時半だった。後半戦がはじまろうとしていた。
コーヒーを入れてから22時よりふたたび「A」の推敲に着手した。日中の作業と同様ことごとくすりへるばかりだった。やはり一日通しで推敲に取り組む場合は作業場を変えるなりして気分転換をはかるべきなのだろうが、BCCKSのプレビューを確認しながらという性格上ネットの使用可能な自室でしか作業できないわけで、こんなことならこれまでどおりプリントアウトしたものを相手に赤ペンで書きこんでいったほうがよほど効率的なんではないだろうかと思った。0時をまえにして集中力が完全にとぎれてしまったので部屋着のままコンビニにでかけて午後の紅茶のリッチなやつ(最近コンビニでなにか飲み物を買うとなるとこればかり選んでしまう)とシュークリームを購入し、ブログをここまで書き進めてから飲み食いした。腕立て伏せの反動からか、すでに腰のあたりが重く鈍くそしてだるくなりはじめている。腰に負担のかからない方法を意識してはいるのだが、これがどうやらなかなかむずかしいらしい。
じつの母の死をまえにして父はいまどんな気持ちでいるのだろうと思った。
2時すぎに作業を終了した。文章の流れのなかで引っかかるとても些細な違和感、ほんのかすかなあるかなしかのとどこおりの気配をいちいちおおげさにとりあげて執拗に首をひねりつづけるのはもうやめようと思った。おそらく現時点でじぶんが難所として把握しているいくつかの瑕疵は、傍目からみればいったい何がどうだめなのかさっぱりわからないものだろう。じぶんに固有の理想、固有のリズムともいうべきものに、配置した言葉の連鎖がカチっとはまりこんでくれない、ただそれだけのことにもう三ヶ月もこだわりつづけているのだ。だれもが異なる心音をもつように、だれもが異なる理想のリズムをおそらくは持っている。直接耳にすることのかなわぬそのリズムにのっとった文章をうみだすには、なんでもいいからとにかく語を組み合わせて一文を形成し、できあがったその一文がしっくりくるかこないかを事後的に判断するという、ただひたすらに具体的な手作業をつづけるほかない。とにかく球を投げる。そうして打ちかえされてきたものの響きに耳をかたむける。あとは、「これだ!」というものが確信が得られるまで地道に延々とそれらの作業をくりかえすだけである。理想とはつねに不可視であり、適当にでっちあげたものの反響からその輪郭がうっすらとのぞく程度にすぎない。そのかすかな気配だけをたよりに誤差を修正し確信に接近していくこと。試行錯誤とはまさしくこのようにきわめて具体的な営みをいう。