20140105

2日(木)
5時半起床。めざましが鳴りひびくち同時に推敲!という意識が血流よりもはやく全身をかけめぐり一発で覚醒しきった。飯も食わずストレッチもせずパソコンにむかった。ある程度手を加えたところで近所のコンビニに出向いて牛乳とサンドウィッチを購入した。帰宅してからコーヒーを入れてふたたび原稿にとりくんだ。麻痺の連続だった。これで完成と何度もいいきかせてプリントデータを送信しては仕上がりのプレビューを見て書きなおすというのを12時過ぎまで延々と続けた。そしてついに、とうとう、ようやく、ここにきて、今度こそ、ほんとうに、脱稿した。
疲れた。
くりかえしだけの三ヶ月だった。けれどそのおかげで(…)の不在が本来もたらすはずだったさびしさをほとんど感じずにいられたのは幸いだった。BCCKSにデータをアップした。当初の計画どおりデータ本は無料で読むことができるように0円に設定した。本を読むためにいちいちアカウントを取得するのも手間だろうと思い、「タチヨミ」でも全文読むことができるように設定したのだが、アカウントを取得してログインなどせずとも無料本ならば問題なく読むことができるということに後になってから気づいた。紙本の価格も原価ぎりぎりにすればいいんでないかと考えたりしていた時期もあったのだが、紙本を購入してくれるひとびとというのは要するにタダで手に入るものにわざわざお金を出してくれる程度にはこちらの作品や才能を買ってくれるひと、投資してやろうと考えてくれるひとなんだろうからここはひとつ甘えてもいいんじゃないかと思ったというか、むしろこれだけのものを作りあげたのだぞという自負めいたものとこの三ヶ月の神経消耗戦の記憶が原価ぎりぎりの値段設定を拒むようなところがあって、結局、原価がたしか800数十円なのだけれどそこに印税分400数十円を上乗せした一冊1292円に価格設定をセレクトした(本の価格は自由に選ぶことができるわけではなく規定の値から選択するようなつくりになっている)。送料込みでちょうど1500円前後。紙本の質や頁数なんかに照らし合わせてみるとずいぶん強気な価格設定のようであるなとわれながら思いもするのだが、数年前にアレホ・カルペンティエールバロック協奏曲』を中古で購入したときも日焼けしまくったうすい文庫本一冊に1500円以上支払った経験がこちらにもあるしおもしろい書物には金を出し惜しみしないのが読書好きなひとびとなんだろうし「A」のような小説をおもしろいと評価してくれるひとというのはまず例外なくハードコアな読書好きだろうし、というわけでこの価格設定とあいなったわけだけれどハードコアな文学依存症なひとびとにたいするもうひとつの偏見がこちらにあることをいま思い出した。彼らはたぶんみんな貧乏だ。1500円は痛手だろう。堪忍してください。
BCCKSの編集画面を開くとたびたび「未保存の編集データがあります。復元しますか?」と、いつもきっちり保存しているにもかかわらずウインドウに表示されることがあって、いちど「いいえ」を選択したところなぜか推敲二周分くらい古いデータが出てきたことがあって苦々しい思いをしたため、それ以来いつも「はい」を選択するようにしているのだけれど、「はい」にしたら「はい」にしたで若干古めのデータが再現されてしまったことがこちらの把握するかぎり一度だけあって、今回も最終チェックを終えてBCCKS上にいよいよ公開するという段になって例のメッセージが表示されてしぶしぶ「はい」を選択したという経緯があったものだからなんか嫌な予感がするというかせっかく修正した細部が元通りになってしまっているんでないかという懸念もなくはないのだけれど、だからといって頭からつぶさにチェックするわけにもいかないというかそういうことをしだしたらまたここもダメあそこもダメみたいになってしまって推敲の蟻地獄にふたたび身を沈めるはめになってしまうのは明白だったので、ええいままよ!とかまわず公開した。いちおうマスター原稿は手元にあるのだし、もういい、めんどい、これ以上のおれの神経を狂わせてくれるな、という感じだ。誤字脱字のたぐいが見つかったら修正したうえで奥付の版を変更すればいい。そうすれば不完全な本を購入させてしまったひとたちにも「初版本」の結果的な贈呈というかたちでどうにか埋めあわせをすることはできる。
推敲が長引きそうだったので(…)には先に帰省していてくれと伝えてあったのだけれど部屋の掃除をしていたら思ったよりも時間がかかってしまって電車を乗り過ごしてしまったと連絡があったのでそれじゃあ当初の計画どおりそろって帰省しましょうかとあいなった。鞍馬口から地下鉄で京都駅にむかい近鉄の改札を抜けた先で落ち合った。コンビニでおにぎりをふたつ買ってホームでひとつ食い電車に乗りこんでから残るひとつを食った。推敲地獄から解放されたよろこびもあり、というかべつだん特別なことがらではなくごくごくいつもの光景ではあるのだけれど相づちを打つだけの簡単なお仕事ですなT相手にあることないことばかすかしゃべりまくっていたら大和西大寺でおりなければならないところを乗りすごしてしまって、だだっぴろい田園のどまんなかに横たわるやたらと敷地のひろい寺院めいた建物をながめながらこんなものあったっけかとはてなと思うもつかのま奈良駅に到着してしまい、おいこれミスっとるがなとなって元来た道をひきかえした。(…)駅に到着したのは16時半だった。二十年に一度のお祭り騒ぎに金のにおいを嗅ぎつけた田舎者どもが体裁だけとりつくろったこぎれいな駅前の見慣れぬ光景のなかでぼけっと立ちつくしているとまもなく母親の車があらわれたので乗りこんだ。(…)を実家の前でおろしたのちスーパーにむかって注文してあったオードブルと寿司を受けとった。車内で母に父方の祖母の具合をたずねると案の定つれない返事があった。葬式にだって別に出なくてもいいとさえいってのけてみせるので、父やんにも面子ってもんがあるやろと大きくなりそうになる声をおさえて応じた。母と祖母の間でかつてなにがあったか知らないしべつに知りたくもないが、じぶんの母親がじぶんの息子にないがしろにされる父親の気持ちを考えてみろといいたくなる。これは父方の親族の悪口を当の父の目の前でものの分別もつかぬ兄や弟を味方にしてしきりに口にしていた十数年前の光景のなかで常にひそかに感じつづけていた憤りとおなじ性質のものだ。小学校一年生のじぶんは将来じぶんが子を持ったときその子の無垢な口からじぶんの母を蔑ろにする言葉が飛び出すことを考えては胸をきりきりと痛めたものだった。
実家に立ちより犬猫と簡単に戯れたのちすぐに母方の祖父宅にむかった。父は現在23時出勤の生活を送っているということで、平時はたしか4時だったか5時だったかそれくらいの早朝に家を出ていくのがならいで、盆と正月は書き入れ時なものだから常よりも2〜3時間早い出勤になるというのも例年のことなのだけれど、この大晦日から正月にかけてはまさかの23時出勤で、これ暦のうえでは前日じゃねえかという話である。一日中ひたすら魚をさばいて刺身にしたり寿司を握ったりこねたりしているらしい。たいへんな話だ。ゆえに父は例年どおり自宅にとどまった。祖父は補聴器を装着していた。祖母は常とかわらず元気そうだった。兄と兄嫁もやって来た。生まれて二日目に(…)をひきつれて帰省していらいとなる姪っ子との再会も果たしたが、率直にいってその当時のおおきさがどれくらいのものであったかいまひとつ覚えていないので((…)がだっこしている写真はいちおうパソコンに入ってはいるんだけれど)、おっきくなったやろーとしきりに同意をもとめる周囲の語調にいくらか消極的にあいづちを打つことしかできなかった。ただ顔がぱんぱんにふくれあがっているというか、両頬などほとんど越冬前のげっ歯類のごときありようで、体重をたずねてみれば8キロ、これは本来一歳児の適正体重なのだという。ちょっとしたダンベルくらいの重さだ。目も見えているらしく、鼻の頭を指先でつついたりすると、よだれにてらてらと濡れた舌をだして笑った(笑っているのか泣いているのかわからないような表情だったが、兄夫妻にいわせると笑っているのだという)。ときどきよくわからない声をだした。菩薩の拳feat.愚地独歩のすきまに指先をさしこむとちょっとびっくりするくらいの力強さでぎゅっと握ってみせるのでおどろいた。手のひらはとても温かかった。ときどきぐずることもあったが、比較的おとなしい娘らしかった。ぐずるときはたいてい暑がっているのだという。触れればたちまち了解できるほど高い平熱の持ち主だった。鼻歌をうたってやるとよろこんだ(サビに入ったとたんにぐずりだしたときにはなんでやねんとなったが)。食後の眠気にうとうとしながら畳のうえに姪っ子とならんで寝転がっていると、知らぬうちに写メを撮られたらしく、その画像が兄と兄嫁と母と父と兄嫁の母の計五人のあいだで共有されているらしいiphoneの育児日記アプリかなにかに「叔父と姪」というタイトルでアップされているのを後になって母親から見せてもらった。便利な時代だという感心よりも還暦前の三人がスマートフォンなライフをそれ相応にエンジョイしているという事実にまずおどろく。最近いよいよガラケーをもっている人間を町中で見ない。ガラパゴス諸島の生物の大半は絶滅危惧種であるという。
とちゅうで叔父が食卓に合流したので、最近京都のほうには来ているのかとたずねてみると(叔父は観光バスの運転手である)、ぜんぜん行ってないという。別の地域にばかり行っているのかと続けてたずねると、もう仕事やめたわ、これからはパチンコ一本で食っていくと返事があったので、おもわず母親のほうに顔をむけるとにこにこしているので、うわーマジかよと爆笑した。これまでにもパチンコの稼ぎだけで車を二台も購入したりプレハブ小屋をおったてたりけっこう荒稼ぎしているという印象があったが、いよいよその一本に特化しても問題なしとの結論が出たらしい。でもまあ子供三人とも独立しとるしな、というと、アホおまえそれでもまだまだ金いるやろが、とあったので、どうせろくでもないやましい遊びに使うんやろ、というと、おまえ正月早々あんまでっかい声でそんなんいうな、とおそらくは奥さんのいるであろう二階をにおわせながら天井を指さしてはにやついてみせる。(…)(叔母)は極道もんとくっついて娘ほっぽりだして蒸発するし叔父は女たらしのパチプロやし親族がこうもヤクザもんばっかやと日向も歩けまへんわ、というと、(…)ちゃんも順調にそのラインにのっとるやん、と弟が割り込み、母が大口をあけて笑った。
食卓は早めに辞してのこる時間はずっと祖父を相手に戦争体験の聴取をした。このあたり((…))やこのあたり((…))のくだりを紹介すると、それに刺激を受けてか、あたらしい挿話がつぎつぎに判明した。祖父は世間話をしているときよりも思い出話をしているときのほうがずっと生き生きとして見える。口もよくまわるしこちらの問いかけにもたちまち応じてみせる。のこされた生よりもすぎさった生のほうがずっと長く、重く、大きい傘寿である。満州での経験については以前聴取してしっかり記録してあるので、今回は敗戦後の混乱を中心にいろいろと語ってもらった。まさに立て板に水だった。増援部隊をむかえにいくために上官についていって満州を去り九州にむかったその途中で敗戦が決定し、満州にのこった仲間たちはみんなシベリア送りになったという話は前回聞いていたので、その後九州から故郷までどうやって帰ったのかをたずねると、軍のトラックに乗ってひとまず駅までむかったのだという。その道のりの途中、熊本の飛行場でドラム缶をごろごろと転がして運び出そうとしているひとびとを目撃した。ドラム缶の中身はガソリンである。兵隊に見つかったぞとあせったひとびとはあわてて逃げ出そうとしたらしいが、とっつかまえる気なんてさらさらない、好きなだけ運び出してしまえばいいと祖父が告げると、見逃してくれたお礼にとトラックにドラム缶をいくつかわけてくれた。それで駅前まで無事にトラックでたどりついたところで、あまったガソリンを汽車で運ぶわけにもいくまじ、たまたま近くにいた地元民がガソリンを欲しがっていたので無料であげることにしたらしいのだけれど、さすがにそんな高価なものをただでもらうわけにはいかないと金を支払ってくれたという。ただいざドラム缶をゆずりわたす段になって中身がガソリンでないことが判明したらしく、モービルオイルで、それじゃあやっぱりこの金を受け取るわけにはいかないと返金しようとしたところ、いやいやあんたガソリンよりモービルオイルのほうがもっと高価だからと返答があり、ゆえに志願兵としての給料とあわせてこの時点で4000円祖父は手元に有しており、これはとんでもなくでかい金額で、このときの祖父はじつにリッチであった。それで本州のほうにいざ戻る段になったのだけれど駅は半端ない混雑っぷりでとてもじゃないけれど汽車になど乗れそうにない、さてどうしたものかと思っていると上官がこれを持っていけと「公用」と記された腕章をゆずってくれ、はたしてそれを装備して改札にむかえば楽々とショートカット、楽々と優先みたいなアレで苦もなく汽車に乗ることができた。汽車のなかには予科練の若者が大量にいた。彼らの大半は眠りほうけていた。祖父の道連れが中身のいっぱいにつまった彼らの鞄の口をあけて中からパンを盗んだ。ふたりでくすくす笑いながら食べた(この挿話を語るときの祖父のいたずらっぽい表情はほとんど中学生のようだった)。汽車をおりた。腹が減っていた。もうずっと何も口にしていなかった。我慢のならなかった祖父は駅のホームで飯盒をセットし、満州で手に入れた白米を炊き、やはり満州で手に入れた牛肉の缶詰といっしょに食べた。白米はむろんのこと牛肉など当時だれも口にすることのできるものではなかった。祖父の周囲にはわらわらとひとだかりができはじめた。そのなかのひとりが祖父に声をかけた。同郷の人間だった。米を食わしてくれないかというので、半分ほどわけてやった。周囲のひとびとにもできればわけてやりたかったが、ひとりにやればおれもおれもとなることは明白だったので、祖父は黙々とひとりで食事をとりつづけた。米をわけてやった男は牛車を持っていた(あるいは彼とはまた別の同郷の人間であったかもしれない)。家までのせていってやってもいいというので、祖父は巨大な荷物をすべて牛車に運びこんで、牛の歩みで故郷にもどった。汽車に乗っているあいだも駅で食事をとっているあいだも祖父の荷物が盗まれることはなかった。荷物にもやはり「公用」のしるしが施されていたからである。牛の歩みはのろかった。大量の荷物と祖父をのせた牛車が吊り橋をのろのろとわたると、ぎしぎしとうなりをたててなにかがちぎれるような音をたてた。牛車の男の家で白米をごちそうになった。祖父はそこから歩いて実家にもどるつもりだったが、牛車の男は祖父を家まで送るといって聞かなかった。のこされた家路をふたたび牛の歩みでたどった。帰宅するころには23時をまわっていた。家は寝静まっていた。
親類の子の話だったように思う。帰郷した祖父は一歳になる幼子が飢え死にしたのを知った。死ぬまえの床で一歳の子は「まんま、まんま」とくりかえしつぶやいたという。その話を聞いたときに祖父はたえきれず泣いた(この話を思い出すといまでも泣けてきてしかたがないと祖父を半世紀以上経ったいまもなお瞳をわずかにうるませるのだった)。その子の家の障子紙は、下から数えて二番目か三番目の桟より下のものだけがぼろぼろに破れていて新聞紙でつぎはぎにされていたという。幼子がつかまり立ちした痕跡だった。その挿話がいちばんこたえた。あまりに痛々しい偶景だと思った。
祖父の家はひどく貧しかった(貧乏にまつわる挿話にかんしてはこれまでたくさん耳にしてきた)。祖父はなによりもまず多額の借金を返済したかった。いまなら4000円ある。農協をおとずれて借金を返済したいと告げた。村長に調べてもらうと元金よりも利子のほうがふくれあがっている始末だった。おまえは長男でもないのに家の借金を返しにきたのかという質問にそうだと祖父は応じた。しばらく奥の間で相談する気配があった。それからふたたび村長がやってきた。利子は帳消しにする、支払いは元金だけでいい、とあった。とどのつまりは、見上げた根性だ、というわけだった。祖父は金を支払った。それから関連する書類をすべて受け取り、司法書士のところにいってすべてあずけた。借金はそれだけでなかった。農協ではないどこかの組織団体にかなりの額を返済しなければならなかった。こちらは農協とは異なり人情話の通ずる相手ではなかった。祖父はふくれあがった利子ふくめてすべて支払った。そうして書類を受けとり司法書士にすべてあずけた。これでチャラだった。手元にのこった金はわずかだった。
なにせ食べるものがなかった。祖父はしばしばイナゴを餌にしてトノサマガエルを釣った。それを煮て食べた。うまいうまいといって家族みんながこぞって食べた。
(…)の闇市で質の悪い石けんを2円で購入した。それを紀伊長島に出向いて10円で売った。その利ざやで魚を買って地元に帰り、村でほかの食料や必需品と交換した。
祖父の家をあとにしてからは(…)の実家まで母に送ってもらった。当初の予定通り(…)に散髪してもらった。ほとんど坊主に近いくらいの短髪となった。これでいい。とてもすっきりした。その後(…)を呼び寄せて三人で田舎の二大聖地のひとつガストにいき(もうひとつの聖地はむろんジャスコ!)、ドリンクバーとスイーツでぐだぐだとくだを巻いた。(…)と会うのは夏のキャンプ以来である。あのときはパツキンのほうの(…)もいたのでなかなか近況報告を楽しむというわけにもいかなかった。ゆえにまるっと一年分のおもしろエピソードをあらいざらい開陳することになった。「ドスとチャカと(…)さん」の話題がやはりいちばん衝撃的らしかった。facebook上では同級生の情報が乱れ飛びかっているというので、(…)や(…)のiphoneでかつての同級生の写真を数枚見せてもらった。だいたいみんなそれほど変わっていないように見えた。昨年あたりから怒濤の結婚&出産ラッシュがはじまっているらしく、写真の大半は赤ん坊をだっこしていたり結婚式のものであったりした。結婚願望も家庭願望もみじんもないのだけれどこれにしたところでひょっとするとなにかしらの抑圧の産物ではないのかと自問する程度にはおのれの自意識にたいして冷静に接しているつもりなのだが、これらの写真をながめてみてもやはりなにひとつ騒ぐものはなかった。周囲の連中が結婚しはじめるとそれまでまるで平気だったのがいきなり焦りはじめるみたいな話をたびたび耳にするのだけれど、いまのところはそういう気配はまったくない。それともアレか、(…)や(…)や(…)といった今でも付き合いのある地元連中が結婚してはじめて焦りらしきものを覚えるんだろうか。しかし現状の率直な思いとしてはやはり、ひとりきりで過ごす時間をこれ以上うばわれたくはない、このまま最低でも週に五日は確保しておきたいという気持ちが強い。むしろ焦りがあるならばこの生活リズムこの時間割このライフスタイルがなんらかの外部要因から瓦解してしまうそのときにこそむけられているといえる。歳をとればとるほど残された時間のなかでいったいあと何枚の原稿を書くことができるのかと、胸のあたりにじりじりとしたものを覚える。「A」を手放し「邪道」をボツにしたいま、そのような焦慮にこがされる時間が増えた。