20140304

1日(土)
3月だぜ!
7時前起床。前夜の暴飲暴食を考慮してバナナ一本の控えめな朝食。
8時より12時間の奴隷労働。忙しい一日だった。どうも今週に入ってからじわじわ客足が伸びはじめているらしい。一年のうちでもっともヒマだといわれているのが2月であり、一年のうちで二番目に忙しいのが4月なので、これからは出勤するたびごとにいそがしい気分が更新されていく右肩上がりの足掛け三カ月である。
Eさんがめんどうくさい仕事をたのまれたとぶつくさ文句をいっているので、どうしたんすかとたずねてみると、知人経由で右翼の宣伝DVDの作成を頼まれているという話だった。
帰宅すると暖房がつけっぱなしになっていてすごくへこんだ。ものすごく大目に見てもせいぜい200円から300円程度の損失でしかないはずなのに、どうしてこんなにもずっしりがっくりくるのか。職場でいろいろとつまみ食いひろい食いをしていたので、納豆と冷や奴だけの質素な献立で夕食をすませた。風呂に入っているところに大家さんから声をかけられ、なんといっているのかシャワーの音でよく聞こえなかったのだけれど、とりあえず差し入れだろうと思い適当な返事をした。おもてに出ると、案の定、みかんとどら焼きがこちらの脱ぎすててあった衣服のうえに置かれてあった。
どらやきを食してから前日分のブログを書き記そうとしたのだけれど、記憶が虫食いだらけでどうしようもないし、かといって語られる内容とそれを語る形式を一致させる式の論理で、虫食いだらけの記憶を虫食いだらけの文体を駆使して表現したいという意欲もないので、適当にすませてさっさと消灯した。自律神経訓練法を寝床にもぐりこんでから試してみるつもりが、3分もたたぬうちに入眠しきった。寝付きがよすぎる。
 
2日(日)
6時半起床。ヨーグルトとクリームチーズとバナナとみかんの朝食。
8時より12時間の奴隷労働。今日も今日とてけっこうな忙しさであった。昼前に母親から父方の祖母が死んだとのメールが入ったので、おりかえし電話をかけると、昨夜、というか正確には今夜、ちょうど日付がまわるかまわらないかの時刻に逝ったらしい。逝くまぎわに親族から連絡があったらしいのだが、仕事の都合上父親はこの時期昼も夜もない生活を送っており電話のあったそのときは就寝中だったらしく、かわりに母親が受け、そうして父が起きてからあらためてその事実を告げてしばらく、通常どおり真夜中に家を出て出勤した父のもとに逝ったという報せが届いたのだという。今晩が通夜で翌日が葬式になるらしく、仕事を終えてから特急で駆けつけても間に合うわけでもなし、通夜は欠席して翌日の葬式には出られるよう朝一で京都を出てくれとのことだったので、了承した。
Bさんとふたりになったときに、先週日曜日にYさんと食事にいったときになにか話を聞いていないかとたずねられたので、どういう話かとたずねかえしてみると、Yさんがここを辞めるかもしれないということだった。いちどEさんとYさんの立ち話をぐうぜん耳にしてしまったことがあるらしく、そのなかでYさんは、もうひとつの仕事のほうの規模が大きくなりそうであるので、その場合はここを去ることになるかもしれないからと話していたとのことで、気になったBさんは後に盗み聞きするつもりは毛頭なかったのだけれどと断りつつ、そういう方向で話が進んでいるのかとYさん当人に問うてみたのだという。まだ本決まりではないからなんともいえないけれども、またいろいろとのそのあたりを含めてお話したいこともありますし、いちど飲みにいきましょうと言われたといって、それでひょっとして(…)くんだったらなにか知っているんでないかと思ったというのだけれど、Yさんの去就についてはたしかに昨年末あたりにいずれそう遠くないうちに去ることになるかもしれないとの可能性をにおわされたことがあるきりで、それにしたところでどこまでが本気であるのかとんと見当もつかないところがあるというか、これはYさんにかぎらずこの職場で働く男性陣ほぼ全員についていえることであるけれど、つながりやらコネやら人脈やらをやたらとひけらかしたがるところがかなりあって、Yさんの転職にしたところで大手で働くこれこれの友人知人がいてそのひとたちにこっちに来ないかと誘われているだとか店をひとつ任せたいと相談されているだとか、だいたいにしてそういう論法で可能性をにおわせるだけにおわせておきながらいつのまにかその話はお流れになっているというのがこれまでのパターンではあるので、とりあえずのところはことが本決まりになるまで傍観しておけばそれでいいんでないか、Eさんもおそらくは真に受けてはいないだろうと応じた。そのような密談めいた話の流れから、いったいどういうふうに話題が切り替わったのか、いまひとつ定かでないけれども、と、書いているうちに思い出した、転職の話題からBさんもこのままでは生活が苦しいので夜の仕事を別ではじめようと考えているという話につながり、老後の蓄えがどうのこうのだとか独りきりの暮らしのきびしさがうんぬんかんぬんだとかを土台にして、バツイチの四十代というむずかしさから表立ってはだれもたずねることのできなかったBさんの恋人の有無について今だったらいけるんじゃないのかと思われる楽勝な瞬間があったので、えいやっと清水の舞台から飛び降りる気持ちで切り出してみると、ずっとむかしこの職場で働いていた同年代の男性といちおういまもつきあってはいるのだという端的な返事があった。これについてはしかし、かつてYさんが内緒で聞き出したのをTさんに酒の席で伝え、それがそのまままた別の酒の席でじぶんに伝えられたという経緯があり、うちの同僚は基本的にものすごく口が軽くて秘密もプライバシーもあったものでなく(その最たる人物が歩くスピーカーことEさんである)、周囲がそんなだから口が堅くて自身のこともあまりしゃべらない男という評価がどうもじぶんにはつきまとっているらしいのだけれど、しかしイニシャルトークながらもだれの目につくともわからぬ辺境の一画にてあることないこと詳細に書きちらかしているじぶんも同類といえば同類だろう。Bさんの恋人についてはじぶんの耳に入った一年前の時点では半ばもう終わったものとして伝えられていたところがあったのだけれど、それがじっさいはまだ続いていたことが今回判明し、めんどうくさいから秘密にしておいてねとたのまれたのでもちろんはいといってうなずいたのではあるけれども、結婚は考えていないんですかとたずねると、結婚というものがあまり考えられる対象ではないのだみたいな返事があって、詳細をぽつりぽつり聞いてみるに、この業界ばかりをバイトとしてずっと渡り歩いているみたいで、同僚とケンカしては辞めて別のホテルへというのをくりかえしている実家暮らしの四十男みたいな、先日はじめて職業訓練校に通って資格をふたつみっつ取得したはいいけれども仕事にもとめる条件が高すぎるそのために結局就職の話もなあなあになってしまっていて、間違っても「将来」がどうのこうのという話になるような相手ではないのだという。くらべるのよくないと思ってはいるんだけれどもの前置きがあったのち、それでも前の旦那にはとてもよくしてもらったという思いがあるからやっぱりいまのひとは、とBさんはいって、Bさんが嫁姑問題だけが原因で離婚するにいたったというのは本当なんだなとあらためて思うと同時に、それはとても未練の残るつらいものだったろうなとも思った。離婚すると決めて実家にもどったとき、それじゃあこれからおまえはひとりきりで苦しく生きるはめになるのだぞ、それでいいんだな、とさんざんにおどされまくったその経験が響いていて、みじめなひとりものの生活をじぶんは送らなければならないという思いが強迫観念のようにつきまとっていて老後にそなえてすこしでも多くお金をためなければならない、再婚などしてはいけないと考えている節がないこともないというようなこともBさんはいっていた。そうこうしているうちに上からJさんがおりてきて、話はいったんそこで途切れたわけであるけれども、第三者からすればいまひとつ要領のつかむことのかなわぬいちだん抽象化した暗号めいた言葉でもってBさんは心情の吐露を小声で再開し、吐き出すものをすべて吐き出しおえると、われわれのあいだでつちかわれた秘密の共犯関係をたしかめるような思いきったあけすけさで、老後の備えはちゃんとしとかなあかんよと第三者であるところのJさんにいってみせた。するとJさんはとても驚いたように、おねえそんなこと考えとんのか、と応じ、ワシはな、今日一日と明日一日、それっきりや、それっきり考えてやな、今を生きるってやっちゃ、それでもうこれはアカンと思うたらやな、首まわらんとなったらやな、富士のやな、麓へいってやな、それでしまいや、といつもの自説を開陳しだしたので、このあいだ富士いくどころかぼくんとこ来て二千円貸してくれいうたやん、とつっこんでやると、こちらもやはり上からおりてきたTさんが、それにねJさん、樹海行くにも新幹線代一万円はかかりますよ、また(…)くんかマネージャーに銭借りやなあきませんやんといって、一同笑った。
口の軽さというのは硬直した関係性をひっかきまわし流動性をもたらす強烈な刺激剤だと思った。秘密の把握というのがある関係に強みと弱みのもたらすのだとすれば、ひとの秘密を第三者に漏らす口の軽さは、権力の天秤を揺るがしにかかるトリックスター的なアクションだ。
火曜日にTとふたたび四条のほうに繰り出す予定だったのが、祖母の葬式の都合上お流れになってしまったので、その旨メールで伝えると、今晩はどうするという返信があり、翌朝に早起きを控えているのでとりやめにしておこうかとも思ったが、日曜夜おなじみとなったくら寿司から喫茶店のはしごも実をいうと今日が最期であるとの見通しが告げられたので(来週の日曜日はじぶんが東京にむかうし、その次はTが同僚らとの送別会、そのまた次の日曜日にはTはすでに京都を去っている)、それじゃあ行っておこうかとなった。
Tのおっさんから、身内に不幸があり今晩通夜に出席しなければならないのでお休みしますという電話があった。すごい偶然。
こちらが職場をあとにするまぎわ、母から電話があり、出棺が翌朝9時に決まったので、そうなると朝一の電車に乗っても間に合わない、兄が車で京都までむかえにいくといっているがどうかとあり、続いて兄が電話にかわって、焼いてしまうまえに顔をおがんでおいたほうがいいだろうと思って、というので、ツレと飯を食いに行く約束をしているのでそのあとでもいいかとたずねると、いつでも都合のいい時間でかまわないとあったものだから、それじゃあ0時から1時のあいだに京都に着くという段取りでとお願いした。
帰宅するとすでにTがいたのでそろってくら寿司に出かけた。京都を去るのがすでにせつないとTはいった。例のごとく喫茶店にはしごをして、だらだらどうでもよろしいことをしゃべった。0時半をまわってそろそろ家に戻っておいたほうがいいかと思われたので支払いをすませると、Yさんに小説を売ってほしいと頼まれた。このあいだ四条に出かけたさいに万置きするつもりでかばんの中に入れておいたのが二冊あったので、そのうちの一冊を、原価がいくらであったかもう忘れてしまったのでとりあえず700円で売った(しかしいま思えば一冊につき送料込みで原価1000円くらいしたような気がする)。薬物市場で甘いものを買ってぶらぶら帰路をたどっている途中に兄から到着の電話があったので、家の近所の通りに路駐して待ってもらうことにし、部屋にもどってから甘いものをさっさとたいらげて支度をととのえて、それでTと別れて車に乗り込んだ。車には弟の姿もあった。腹が減ったという兄弟ふたりがネコドナルドに立ち寄ったその際に助手席から後部座席に移動した。前の席で会話をするふたりの高い声でやりとりされる早口を聞きながら、オタクっ気のあるひとはどうしてそういうしゃべりかたになるんだろうかと思った。ネコドナルドで注文した商品が出てくるまでのあいだひっきりなしに例の口調でおしゃべりを続ける兄弟を前にして恥ずかしさを感じると同時にそういうものに恥ずかしさを感じてしまうじぶんは何様だといういきどおりをおぼえもした。後部座席に移ってからの帰路のほとんどをiPodストラヴィンスキーを聴きながら寝て過ごした。
実家に到着すると犬っころがひんひんひんひん鳴いて飛びかかってからだをすりよせてとしてくるのでよしよしとなだめながらしばらく相手をした。時刻は3時をまわっていた。父はすでに出勤したあとだった。風呂も入らずに弟の部屋にいって布団にもぐりこんだが、布団のなかに入りこんできた犬っころの毛に花粉がつきまくっているそのせいかくしゃみが止まらなかったので、マスクを装着してふたたび寝床につきなおした。携帯のアラームを7時にセットした。京都の自室にくらべるとやはり寝つくにはいくらか時間がかかった。つまりここはすでに気安い我が家ではなかった。
 
3日(月)
7時に起きた。気だるくてたまらない身体をふるいおこして風呂に入り、ひげ面を多少はマシになるよう整えた。ボディピアスをつけていくのはさすがにまずいだろうと思って外したのだが、そのなかにリングを通していたサージカルタイプのものぐらいだったらまあかまわないかと思ってそのままにしておいた。仕事で使用している黒のスーツをそのまま喪服として用いるために職場から持ち帰ってきていたのだけれど汚れも皺も目立つたいそうな代物で、おまけにうっすらとストライプも入っている。先日Tとおとずれたユニクロで白のワイシャツを購入したばかりだったので未開封のそれをそのまま持ってきておいたのが、封を開けてみたらコットンのボタンダウンで、いろいろ微妙にまちがえた服装になってしまっているけれどもう知ったこっちゃあないしネクタイもうまく結べない。時間がなかったのでとりあえず適当に結んでおいて会場に着いてから兄に結びなおしてもらえばいいということになり、父の運転する車に母と弟とじぶんの三人が乗りこんで会場にむかった。父は平静だった。いつもとかわらず陽気に軽口を叩いていた。享年92歳となればまあ大往生であるし、こちらのうかがいしれぬ親族間のごたごたも関係しているのかもしれないが、悲しみのまったく見当たらないさっぱりとした表情だった。じぶんも父方の祖母には二十年近く会っていないわけであるし、そもそも父が何人兄弟であるのかもしらないしじぶんのいとこにあたるものが何人いるのかもまったくしらないぐらいなのだから、動揺しようにもできないといったほうがいいくらい平静ではあるのだけれど、ただなにかしら複雑な事情のあるらしい親族の集う場で待ちうけているであろう波乱や悶着のたぐいにたいしてどのような距離で接するべきかそちらのほうにたいする心配がわりとあり、とくに母とのあいだをどう取り持ったらいいものか、なんせ相手の素性がしれないというか素性はしれているのだけれどどういった人物であるのかさっぱりわからないしそもそもだれとのあいだにいかなるトラブルがあってこのようになかば絶縁状態になってしまったのかさっぱりなので取り持つにも取り持ちようがないというアレで、車内ではなごやかに談笑しながらもしかしひそかに魔窟にむかうような気分でもあった。香典はいくら包めばいいのかとたずねると、所帯持ちではないのだから一万円が妥当だろうとあって、前夜Tに同じ質問をするとせいぜい3000円かそこらだろうとあって安心していたところにこの一撃だったのでマジで!?と血を吐いた。弟は非所帯持ちに加えて無職なので香典を免れていた。うらやましい。しかしその弟も先日両親の還暦祝いにフカヒレのコース料理をふるまったという話で、あいつのどこにそんな金があったのか、またパチプロの叔父の打ち子でもしたのかとたずねると、たしかに例の叔父の手伝いで稼いだが今度は打ち子ではない、祖父宅の大掛かりな片付けを三日にわたって手伝ったその報酬としてリサイクルショップで引き取ってもらった家具類の引き取り価格の何割かをもらったという話で、なんともやくざな稼ぎかたをしているやつだと笑った。
会場に到着するとすでにこちらの一家以外の参列者は着席済みだった。思っていたよりもずっとせまい一室で、入り口奥の壁面いっぱいが遺影やら花やらくだものやらのそなえられた祭壇となっており、その手前に置かれたキャスターつきの台座のうえに棺が設置されていた。祭壇にむかう中央通路をはさんだ両側に椅子のならべられている教会式の間取りになっており、祭壇にむかって右手の前から二列目がまるっと空いていたのでそこに腰かけた。父方の親族の一部は創価学会員で、祖母も信者だったその関係で式は学会方式で進行するらしいのだけれど、前日の通夜では南無妙法蓮華経がこれでもかというくらい繰りかえされてあまりにもヒマだったものだから兄と弟は心のなかでひたすら何度いうか数をかぞえていたという。結果は500オーバーだったらしい。着席してまもなく念仏がはじまった。兄の隣の席についていたので念仏をとなえているうちにネクタイを結びなおしてもらい、こちらを結びおえたところで背後をふりむくと相変わらずネクタイのだらしないままの弟がいて、というこの記憶をさかのぼるに少なくとも中央通路右手のならびに着席していたのはわれわれの前列にいた家族(のちに父親の兄一家であることが判明する)とわれわれだけということになり、同数の人員が中央通路をはさんだ左手にあったと仮定しても、せいぜいが二十人程度の参列者だったのではないか。中央通路をはさんだ向こう側に見覚えのある顔があり、父の双子の兄だろうとまもなく見当がいったのであるけれど、その近くの席に年齢も風貌も磯崎憲一郎に似た、参列者のなかでは比較的若い部類にはいる男前の男性がいて、あれはいったい誰なんだろうと思って気になり、あとになって母親にたずねてみたところ、ずいぶんと年齢が離れてはいるもののどうやらじぶんの従兄にあたるらしかった。
念仏を終えてから棺の蓋を開け、祖母の顔のまわりに参列者が順番にしきびを一束ずつ敷き詰めていった。祖母の顔は小さかった。口をあんぐりと開けて、目は閉じていた。土気色というのは要するにこういう色のことをいうのだなという顔色をしていた。生者の色合いではまったくなかった。たましいの抜けた死者の身体を空っぽであるとするたとえはしっくりこないと思った。むしろ人間である軽薄さから逃れて物質として充足し自重を遂げたものとしての奇妙に緊密な重量感すら感ぜられた(しかしこれもまたひとつのクリシェにすぎないように思われる、死を語るのにクリシェをまぬがれることは可能なのだろうか?)。開いた口のなかに目を遣ったとき、ある種のなまなましさ、グロテスクな印象を抱いた。そのときはじめてグロテスクとはあくまでも生にまつわる印象なのだと思った。口内にぎりぎり残存するかもしれぬ水気が生の印象をかすかに保っているそれがために醸しだされるあやうい印象。重傷の怪我人を目の当たりにして吐くひとがいても博物館に飾られたミイラを見ても吐くひとがいない理由はここにあるのかもしれない。棺にはそのあと祖母のゆかりの品(お気に入りの衣類とお経とあとなにか布切れに包まれたもの)が親族の手によっておさめられた。それから男性陣に棺を台座からもちあげて霊柩車に運びこむようアナウンスがあったが、これは力仕事は男性にという単純な理由からなのか、それとも女人に汚れを見る古い文化の名残なのかわからなかった。霊柩車に棺が運びこまれ、よく映画で見るようにいよいよクラクションを鳴らす場面がはじまるぞと思って構えていると、アナウンスがその開始を告げた直後に道路の向こう側から一般車両がやってきて、しかもそれがヤンキーの改造車だったので、現実の滑稽、と思った。それからクラクションがぷおーんとなって、霊柩車が焼き場のほうにむかって走り出した。
焼き場まではシャトルバスが出ていた。焼き場の駐車場はせまいということで、なるべくバスを利用するようにという話があったので、兄と弟だけがバスに乗りこんで、じぶんと両親は一台の車に乗り合わせて焼き場にむかった。車内ではどの参列者がじぶんのどういう関係にあたるのか質問ばかりして過ごした。父は四人兄弟らしかった。なんとなく七人兄弟というイメージがあったのでそんなにも少ないのかと思った。父の上に歳の離れた長女と長男がおり、その下に父と父の双子の兄がいるらしかった。話を聞いてみるに、うちの母ともっとも厄介な関係にあるのが父の双子の兄の嫁であるようだった。先ほどの出棺のさい、父の姉が母にむけて、これをいっしょにおさめようと祖母の衣類を手渡してきたので、ふたりそろってその衣類を祖母の遺体にかぶせてやったのだけれど、そのあとにすかさず例の双子の兄の嫁が棺に接近し、ふたりがわざわざかぶせてやった衣類を乱暴にはぎとってじぶんの手でかぶせなおすということをしたらしく、じぶんはその一部始終に気づかなかったのだけれど、父は目の当たりにしていたようで、いくらうちの母親を目の敵のようにしているとしてもああいう場でああいうふるまいに出ることは絶対におかしいし、そもそもうちの母親のみならず祖母と直接血のつながったその長女にたいする無礼でもあるだろうにと呆れかえっていて、そういう話を聞いていると、よりによってそういう場でいやがらせをしてみせる女の意地の悪い魂胆よりもむしろそういう場でのいやがらせこそがもっとも痛烈に響くとする田舎臭い文脈や血族という名の呪いやらがすべてがわずらわしくなってきて、げんなりしてしまう、21世紀も15年が経過してこれかと思う。去年の夏に姪っ子が産まれたさいにその夫婦からご祝儀が送られてきたのだけれど、その後であったかその前であったかわからないけれどもとにかく相手方に孫娘が産まれたときにこちらがご祝儀を送ろうとすると、そんなものは必要ないと断られたということもあったらしく、こちらだけ受け取るものを受け取ってそれでおしまいというのはおかしいだろうと父が双子の兄にいうと、たしかにそれはそうだといちどは引き下がったものの、しかしすぐさまおりかえしの電話があり、いいややはり受け取れないと強情を張られたらしく、そこで父も、こっちが祝儀を受けとっておきながらそっちが受け取らないということはようするにおれの顔を潰すということになるのだぞ、それをわかったうえでなおおまえは祝儀を受け取らないのだなと念押しすると、それでも受け取らないといったので、そこまでいうんだったらなにかしら事情があるのだろうと考えただけなのかあるいは相手にむけてそう口にしたのかはわからないけれども、それ以上はもう踏みこむまいと思ってそれっきりにしたということで、その一件についてもおそらくは嫁のほうの差し金なのだろうけれど、いずれにせよ先ほどの祖母の衣類の一件と同じ、血族の陰湿な嫌がらせ、土くさい田舎の皮肉の味がして、どいつもこいつも中上健次の世界に住みやがってとだれにあたればよいのかわからない憤りをおぼえる。告別式の場には双子の兄夫婦の娘もおとずれるだろうし、そのときに隙を見てほんとうは祝儀を送りたかったのだけれど拒絶されたから仕方なく取りやめたのだとこっそり告げようかなと母がいうので、父とそろってそんなややこしいことをしてくれるなと制した。むこうにはむこうでむずかしい事情があるのかもしれないのだし、その娘(というのは要するにじぶんのいとこに当たるわけで、しかも同年齢らしかった)が両親とどんな関係にあるのかだってしれたものでないのだから余計なことをしてかえって火に油をそそぐ結果にだってなりかねないと、それくらいのことは考えたらわかるだろうに、こういうところはうちの母親もやはり感情的になりやすいというか、そもそも善意を建前にした陰湿な嫌がらせとして受け取られかねないし母親自身そういう含みのまったくないこともないのではないかと思われもした。ほやしの、別にの、おれらの世代がどうやろうとほんなもんぜんぜん、ぜんぜんおまえらには関係ないんやからな、おまえらがな、子らの世代でじぶんであの子はいいっていうてやな、ほうやって判断してつきあうんは勝手なんやから、ほうすりゃええんやから、と父がいうので、まったくもってそのとおりだと思った。父のこういうこだわりのなさには好感が持てる。母にはないものだ。母にはきっと心のどこかで父方の親族のだれとも関係も交渉も持たないことをわれわれ兄弟に望んでいるところがある。それははっきりわかる。そしてその思いにじぶんは、父の双子の兄の嫁が持つ悪意の原始的なかたちを見なくもない。
女はいつも面倒くさい、厄介な面倒を起こすのはいつも女だ、と父は続けて言った。職場で耳にするたびに嫌悪感をおぼえるフレーズであるが、このときばかりはちょっと身にしみるところがあった。男同士の関係には直接的な暴力の可能性が前提されてある。つまり、ある一線を超えるとおれはおまえを殴るからな式の緊張感がそこには暗黙のうちにある。女同士の関係にはそれがないのかもしれないと思った。そこで前提されてあるのは間接的な暴力の可能性であり、その迂回がそのまま関係の悪化したさいの複雑なよじれやこじれに結びつくのかもしれないというぼんやりした体感を得た。
父は通夜の日も葬式の日も朝早く、というか深夜から出勤している。スーパーブラック企業やわ、と母がいったので、笑った。
火葬場までの車中では職場の同僚らについてもいろいろと話した。祖母の葬式当日に殺人で前科をくらったJさんの話をしてたいがいなひともおったもんやなと大笑いしている状況がおかしかった。
火葬場でもまた読経があり焼香があった。焼き場の担当者は喪服ではなく作業着のようなものを着ていた。骨の焼けるまで一時間半ほど時間があるから控え室でお待ちくださいとあった。控え室では菓子と仕出しが出た。家族でひとつの座卓について飯を喰らった。美味かった。海老を縦半分にばっさりきったその断面にマヨネーズをかけて焼いてあるのが出て、これむかし母やんがお水しとったときにときどき持って帰ってきた客の残りもん思い出すわ、とつぶやくと、まさしくその店の仕出しだという返答があったのでおどろいた。割り箸の袋を見るとたしかに見覚えのある名前があって、うおー懐かしいとなった。夜遅く酔っぱらって帰ってきて、と話をむけると、お母さんお酒は飲まへんだよ、というので、なにいうとん、しょっちゅう父やんの車で迎えにきてもらっとったがん、ほんで帰ってくるとえらい酒くそうて、なっ、ふところから万札だして今晩だけでこんだけ稼いだいうてひけらかしとったがん、というと、えらい笑い上戸やったよな、と弟もいい、男のひとにお酒ついで笑っとるだけでこんなにもらえるんやでって自慢されたんすげえ覚えとるわ、ほんでいっつも客の残りもん包んでもってかえってくるんやけどこの海老のときは当たりでな、夜中にこれ食うのすっげえうまかった、と話しているそばからつぎつぎに思い出す記憶があった。あのころほんとこれからどうしよってくらいうち貧乏やったでな、あんたらも食べ盛りやし、昼の仕事だけではもうとてもやったんやで、ほんとににっちもさっちもいかへんだんやから、と母はいった。水商売は兄の同級生の母親の紹介ではじめたらしかった。それは初耳だった。
予定よりも若干早く骨の焼けたという報せがあった。年齢が年齢だけに骨はもろく人体の原型をとどめていなかった。長い菜箸のようなもので骨をつまんで骨壺に入れた。骨をひととおり拾ったところで後ろにいた父のほうをふりかえると、目がほんの少しだけ赤くうるんでいるように見えたが、それはこちらの感傷の投影にすぎなかったかもしれない。まったく同じような目のうるみを、もうほとんど記憶にない祖父の葬式の現場でも見たことを思い出した。光の加減でそう見えるのかそれとも本当にうるんでいるのか判断がつかずどうなんだろうと思った小学校四年生時の記憶だった。祖父の死は小学校低学年のころのできごとと記憶していたのだが、実際は四年生時のできごとであることが車内の会話で判明していた。三つ上の兄がちょうど期末テストの期間中だったらしい。正方形の棺に屈葬されていた記憶があると告げると、それはおそらく別の葬式だろうといわれた。祖父はごくごくふつうの棺におさめられたらしい。屈葬の土葬は母方の親族のだれかだろうという話だった。
出棺のあった会場にふたたび戻ることになった。告別式は14時からで、開始までまだたっぷりと時間はあった。母はいちど家に帰って犬を庭に出してやればどうかと言った。小便をさせてやったほうがいいのではないかという懸念からの提案という体裁をとってはいたが、じっさいは開始までの小一時間を父方の親族に囲まれて過ごす気詰まりからの言葉だったんではないかと今となっては思う。焼き場を出るまえにおもての喫煙場で、磯崎憲一郎似のTくんとはじめて言葉を交わした。兄と弟はすでに焼き場にむかうシャトルバスの車内で言葉を交わしていたらしくなじんだようすで、こちらにも気さくに声をかけてくれたのでどうもと応じた。きみはあれ、物書いとるんやろ、芸術家なんやな、というので、一円も稼ぎないっすけどね、と答えた。おまえまだ煙草吸っとんか、と父が笑っていった。むかし海岸沿いの道路を運転させてもらったってさっきもバスん中で話しとったんやで、と兄がいった。Tくんがまだ小学生のときに、父が車の運転席にTくんを座らせてハンドルを持たせてやったことがたびたびあるらしかった。ほんなことあったか、と父はびっくりした顔でいった。死んだ兄の墓参りの帰りなどにじぶんもやはりまた運転席の父のひざのうえに腰かけてハンドルを握らせてもらったことがあるのを思い出した。あれはこわくてしかたなかった。
父の運転する車で告別式の会場にもどった。会場の入り口で弟とTくんが立ち話をしていたのでそこに加わるといきなりSの話をふられた。どうやらバスの車内で弟が去年の夏のできごとを話したらしかった。それをきっかけに一昨年の夏のタイ・カンボジア旅行での出会いから去年の夏のふた月にわたる滞在のあらましをざっと語ることになった。途中から会話にスキンヘッドの男性が加わった。このひとは父親のいとこにあたるらしかった。物腰の穏やかなどことなくゆとりのある好感触の男性で、たっぷりとした喋り方ひとつとってもある種の知性のようなものが感じられた。こちらが話し終えると、中学生の娘が最近西洋人と結婚したいと言っているのだといって笑った。なにかのきっかけに場を離れてひとりで会場の近所をぷらぷらとひとりで散策した。良い天気だった。マスクを装着していても花粉の飛散しているのがはっきりと鼻にむずむずと感じられる風の強い昼日中だった。ふたたび会場入り口にもどるとこちらのほうをながめてにやにや笑いをするTくんの顔が目につき、また弟か父か母かしらないがいらぬ情報を吹き込んだのだろうけれども、こちらの顔を見るなり、きみはきみの人生だけでもう本書けるんやないか、といった。人生語んのはやさしいけど書くってなるともうちょい距離あったほうがええんちゃうかな、と答えた。
まもなく葬式の受付をするように頼まれた。受付なんてしたこともないし、というかそもそも葬式に出席した機会が数えるほどしかないので、いったいなにをどうすればいいのかさっぱりだったのだけれど、とりあえずTくんからもろもろレクチャーを受けた。ためしにやってみろという父親が出席者という設定で受付までやってきたので、教えられたとおり、本日はお忙しいところどうもありがとうございますといって頭をさげて記帳を差し出し香典返しを手渡すという一連の流れをやってみせると、葬式でそんなにやにやしとるやつあるかアホと駄目出しがあった。受付に三人兄弟全員が控えている必要もないだろうといったのだけれど、ほんじゃあぼく抜けるわと弟がはやばやと逃げやがったそのせいで結局兄とふたりで受付に居座るはめになった。とはいえ、もともと参列者のそう多くないのに加えて入り口に近いほうを兄にまかせることにしたそのおかげでこちらにまで役目のまわってくることはほとんどなく、立ちっぱなしで腰が痛いのをときどきほぐしながらただぼうっとしているだけで時間が経った。とちゅうでパチプロの叔父がやってきた。母方の祖父の代わりにそちらの一族の代表者というかたちでやってきたわけであるのだけれど、受付にいるこちらを見るなりにやにやしながらやって来て、ワレ似合わんことしとるやんけというので、Mちゃん(とわれわれ兄弟はその叔父のことを呼ぶ)くらい葬式の似合わんひとおらん、存在が不謹慎やわと言い返してやった。観光バスの運転手を辞めて晴れてパチプロになったMちゃんは当然のことながら毎日パチンコを打ちに出かけているのだけれど、昼間っから連日来店するMちゃんのことをほかの常連客たちはあのひとはいったい何者なのだろうと陰でうわさしまくっているらしく、目下のところ、どこかの会社の社長だろうという仮説が有力視されているようだとMちゃんは見当違いにも誇らしげに口にした。
まもなく告別式がはじまった。またもやクソ長い南無妙法蓮華経のはじまりだった。式がはじまり次第受付のほうから席のほうに移動するように命じられていたのだけれど、遅れてやってくるひともいるかもしれないしむこうにいったところで退屈だからと兄がその場にとどまることを提案したので乗っかることにした。出棺のときにせよ告別式の前にせよ会場で小田和正の「言葉にならない」のとても無害なインストがしぼられたボリュームで流れていて、こういうのってどうなん、おまえちょけとんかいうて怒るひともなかにはおるんちゃうの、出棺のときのあのお涙頂戴なナレーションとかもそうやけどさ、馬鹿にしとるみたいに聞こえるときもあるわ、と漏らすと、まあいちおう葬儀のまえにだいたいの段取りはしてあるやろ、喪主がオーケーしとるんやしな、ほれに演出もまあ大事やで、クソリアリズムだけやとまかりとおらんこともあるやろ、と兄はいった。それからぼんやりと突っ立っちながら壁越しにきこえるお経のいまひとつビブラートのかかりきらない調子であるのに耳をかたむけながらやはり読経というのはミニマルだなと思った。iTunesにお経は何種類かインポートしてあるはずなのでまた京都にもどったら聴きなおしてみようと考えた。
ポール・スミスのジャケット34000円を購入しようかどうか迷っているみたいな話をしているときに葬儀会社のひとがやってきて、焼香がはじまったのでこちらへどうぞというので、すすめにしたがって会場入りした。そうして本日三度目の焼香をすませた。焼香をするまえとあとに親族にむけて一礼するあの間合いあの呼吸は何度やってもつかめない。妙なこわばりを四肢に覚えてしまう。焼香をすませて座席にもどるために歩いていると最後尾の列に腰かけているパチプロの叔父が死ぬほどニヤニヤしながらこちらをながめているのに目が合ってしまって吹き出すのをこらえるのがやっとだった。本当にどうしようもないおっさんだ。
読経が終わると弔電の読み上げがあったのだけれど、池田大作からのメッセージにエコーという言葉が用いられていて、読経のエコーを送らせてもらったとかなんとかそういうアレだったように思うのだけれど、いくら新興宗教といってもエコーっていうのはないだろうと苦笑した。もうちょいそれらしい雰囲気のある言葉をセレクトすればいいのに、ゴーストライターも定型文をこしらえるときくらいはもうちょっときちっと身をひきしめて仕事をしろよと思った。読経していた僧侶(という表現でいいのかどうかわからないけれど)がマイクの前にたってしばらく定型文らしいお悔やみの文句めいたものを読みあげていたのだけれど途中からいきなりつっかえつっかえの方言丸出しの言葉に切り替わり、どうやら装われた標準語のイントネーションからはっきりと地方の響きにきりかわったあたりを境にして故人にたいする僧侶の個人的な印象のようなものが述べられはじめたらしかった。祖母は死を機会に名誉会員だかなんだかの称号を与えられた。
告別式が終り、故人の息子娘とその配偶者が入り口にならんで見送りにでているあいだぼうっと席に腰かけて祭壇の片付けをながめてたり、スーツのポケットに忍ばせておいた『どくろ杯』の続きを読みすすめたりした。兄はおそらくじぶんたちのいとこにあたるであろう同世代の女性の腰かけているとなりにいって彼女の抱っこしている赤子と戯れていた(のちに彼女は父の双子の兄の娘でありじぶんと同い年であることが判明した)。ひとの子の親になったもののふるまいだと思った。兄は結婚する以前はおれはぜったいに結婚などしないと言い張っていたのだけれど蓋を開けてみればこの体たらくで、そういうのを見ているとじぶんにしたところでいつかは家庭を持ちたいと思うようになるんだろうかとふと想像してみたりもするのだが、つい先日Tよりおまえだけはぜったいにそうならないと謎のお墨付きをもらったばかりであるしじぶんでもやはりそう思う。まず憧れがない。結婚願望のないことを口にするひとの大半そうであるようなあきらめを正当化する論理での言い張りではなく、端的に願望がない、憧れがない、希望がない。むしろなるべくひとりでいたいという願望がある、憧れがある、希望がある。
告別式のあとに親族だけで祖父の眠る墓場にむかう段取りになった。その墓を参るのもおそらくは十数年ぶりだった。骨を墓場におさめるといったっていったいどうすればいいのだと親族らの戸惑うなか、父が墓石のみぞおちにあたる引き出しのようになっている一画を力ずくでひっぱりどけて、そのなかにおさめられてある土に汚れた白い袋のようなものを取り出した。結び目をひらくと骨がばらばらと出てきて、それが祖父の骨だった。父はその骨を手づかみでふたたび墓石の腹のなかに放りこむと、その上に焼いたばかりの祖母の骨もそそぎいれるよう長兄に命じた。父は集団心理につきものの戸惑いの金縛りの中からひとり抜け出して行動するのが得意なタイプらしかった。火葬場で配られた弁当も親族全員が遠慮してだれも蓋を開けないのを目の当たりにするが早いか、こういうのはひとりが食いだしたらあとに続いてくるもんやといって遠慮なしにばりばりと天ぷらにかぶりつきはじめて、事実そのとおりになった。骨を墓石の腹の浅く掘られた地中に埋めなおしたのち、最後の南無妙法蓮華経があった。祖父も祖母も熱心な学会員だったらしいが、長女いがいの息子三人はだれも宗旨を継がなかったようだった。ゆえに読経時も僧侶にあわせて声を出しているのは長女一族のものだけで、あとはみな数珠をひっかけた手を申し訳程度にあわせて伏し目になったりぼうっとあらぬところをながめたり目をつむったりして、(…)平野に吹きすさぶ尋常でない寒風に肩をちぢこませて耐えていた。
最後に父の実家にむかうことになった。おとずれるのはやはり十数年ぶりだった。告別式を終えた時点で解散と考えていたらしい母のひきのばされる解放のひとときのたびごとに険しくなる顔つきにどの道さいごなのだからそれくらいおとなになって我慢してくれよと内心かすかに苛立った。実家をおとずれたところで別段何をするわけでもなし、ただ仏壇のまえに祖母の遺影を置いて余っていた香典返しを各自にふりわければそれでおしまいというもので、なにやらせわしなく立ち働いている様子の女性陣を尻目になにもすることがないので棚のなかに眠っていた古い写真などをながめた。そのなかに一冊、祖母の女学校時代の卒業アルバムが出てきたのであるのだけれど、とんでもない美人で有名だったという話をあらかじめ耳にしていたにもかかわらず当時の写真を目の当たりにすると驚かずにはいられないというか、これ原節子そっくりじゃんという半端ない美しさだったのでたまげた。母親までもがなにこれ!むっちゃくちゃ美人やなあ!と感嘆の声をあげるほどだった。華族の出で、金持ちで、近隣でも有名なほどの美人で、英語を自由にあやつり、日本初の女性金メダリストと文通友達で、まったくもって画に描いたようなお嬢様だった。まったくもって画に描いたようなお嬢様であるそのために、料理から洗濯から掃除からすべて女中任せで、そのせいで戦争で財産を没収されて没落し家に出入りしていた大工の男と結婚したあとも家事のたぐいにはいっさい手をつけず、母が結婚後一時期父の実家に同居していたあいだも一日の大半を寝床でごろごろしながら過ごしており、それを見て母は病弱なひとなのだと思ったらしいのだけれどじっさいはただの怠け者だったといって、父もそれをいっさい否定せず本当になにもしなかった、いいとこのお嬢さんだったからぜんぶ女中まかせでなにひとつ身についていなかった、とうなずいていた。そういう意味でもやはり近隣では有名で、出入りの大工と結婚したのも没落だけが理由ではなく貰い手がほかになかったからだという話もあるようだったが、真相はもはや定かでない。
一組また一組と親族が去っていき、最終的にわれわれ家族五人と父の長兄の計六人だけが居残ることになった。父は最後の最後まで双子の兄と口を利くことがなかった。母と例の兄嫁との仲が冷えるのはまだしも父とその双子の片割れの仲が冷えるのを目の当たりにするとけっこうどうしようもない。なんどかその兄、というかじぶんにとっては伯父にあたるわけだが、その伯父と目の合いそうになるときがあったのだが、きまって逸らされた。なにかを噛みしめているような、後ろめたさと恨みがましさの双方をこらえぬいているような赤い顔つきさえ認められて、しかもその表情を親族間のごたごたとはなかば無関係といってよい甥のこちらにまでむけることがあったものだから、率直にいって、あまりいい気分はしなかった。そこまで多弁な表情をさしむけるくらいなら、いっそ腹の底を割ってぜんぶぶちまければどうかと思った。来いよ空手家、と何度も念じた。反対に長兄のほうは温厚な人柄で、それほどの屈託もなくこちらに接してくれているように見えた。古い写真の入ったアルバムを見せてあげると、こんなものあったのか、しらんかった、と微笑みながらページをたぐり、その写真のなかの一枚を父が指さし、これ兄貴やんか、というと、いやおれじゃない、おれはこんときにはおらん、とそういいながらも、しばらく眺めてから、いやこのズボン見覚えがある、これおれやな、おれこのズボン買ったわ、ぜんぜん流行ってなかったけど、とあって、ぜんぜん流行ってなかったけどの一言で爆笑した。長兄は父と十歳以上の開きがあるらしかった。その娘ふたり(うち片方は奥さんの連れ子らしかった、これも初耳だった)もすでに三十路を半ばをまわっておりあるいは四十路にさしかかっているのかもしれないが、Tくんと同様、じぶんとの間柄でいえばいとこということになるにもかかわらず、年齢の開きがもたらす実感でいえば親戚のおじさんおばさんという距離感をおぼえた(しかしふたりともタイプの異なる若々しい美人であった)。長兄のさらに上に姉がおり、この姉には娘と息子がひとりずついて、息子のほうがTくんで、娘のほうは現在栃木だかにいるらしく、双方ともに四十をまわっている。この姉の嫁ぎ先の旦那さん(つまりTくんのお父さん)は去年死んだ。で、この事実は二年前か三年前に知ったばかりで、たぶんブログにもいちど書き記したはずなのだけれど、父の姉の嫁いだその先というのが、母親の曾祖父(遊び人)が結婚前に孕ませた若い娘さんの子であるらしく、ゆえにそこを軸に家系図がアホみたいにねじれるというか、その事実はずっと父方の親族には伏せてあったらしいのだけれど(母親も結婚後に事実を知った)、父方の祖父の葬式に出席した母方の祖父がその場でばらしてしまったらしく、それでまたてんやわんやの騒ぎになったということも過去にあったらしかった。まったくもって付き合いの途絶えていた父方の親族のなかで、唯一この「(…)のおじちゃん」とだけはいまにいたるまでほそぼそとした交流が保たれてあったのも、義理の親族としてはじまった付き合いでありながらも血のつながりのあることをやがて知った母にたいする「(…)のおじちゃん」の愛情のようなものが関与していたようで、事実昨年逝くまえにも母を秘密裏に呼び寄せ、ほかの親族には内緒で母の息子(すなわちじぶんの兄)にたいする遺品として金の指輪をゆずったようだった。そういう家系図のねじれから、母にはみずからがその「いとこ」でありながら同時に「義理のおば」にもあたる人物がいるらしく、こうして書きつづっているこちらまで整理がつけられず頭の痛くなってくるような複雑さがこの一族にはある。
長兄をひとり残して父の実家をあとにした。駐車場でこれから仕事にいくという兄と別れ、のこる四人で車に乗りこみ帰路についた。帰宅してからまもなく豚肉とほうれん草のしゃぶしゃぶを食べた。そうして20時になるまえに二階の弟の部屋にあがり、寝床にもぐりこんでまもなく意識を失った。