20140320

 自分自身に対する、欠くべからざる、絶対的な信頼に関して、セヴィニェ夫人の言葉――「私自身の言うことにだけ耳を傾けるとき、私は驚異的なことをなす。」
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)



 11時起床。雨降りの起きぬけで少し肌寒かった。ひさしぶりに暖房を入れた。パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。前日分のブログをアップし終えた時点でデザインや機能にかんしてとくに不満を抱くところは見当たらないように思われたので、これでよし、引っ越し通知を送ってももう大丈夫だろうと判断した。ゆえにH兄弟にはそれぞれ携帯から(HくんにはうわさのYくんにもよろしくと添えて)、Aさん(ブログにアップされている小説について少し触れて)とWさん(手術の無事をお祈りして)とWさん(展覧会情報の提供に感謝して)にはそれぞれパソコンのほうからメールを送信した。これで通知すべきひとにはひとまず通知し終えたということになる。と考えたところでTにはまだ告げていなかったことを思い出し、「長い!」という理由でほとんどこちらに訪問することはないらしい活字嫌いの男であるのだけれど、これからは週に一度コーヒーを飲みながらおたがいの一週間を報告しあうわけにもいかないのだからひとまず報告しておいた。Wさんからは日記も文学の重要な一形式であると認識しているというような返信があった。一時期ブログを休んでプライベートな「日記」にかまけていたことがあって、第一日目の冒頭にじぶんの死後にその日記が発掘されて出版される未来を想定したうえで意気込みみたいなものを書きつけたことがあるのだけれど(パウル・クレーが死後の出版を見越して日記を「制作」していたという逸話を耳にしたのがたしかきっかけだったと思う)、結局その日記は長続きすることなく、一年くらいはたしか続いたような気がするのだけれど基本的にグダグダで、なによりもまず量に乏しかった。その点ブログはやはり以前から、というかここ最近ますますそういう実感が強くなりつつあるのだけれど、だれかに語りかけているという実感が(こういう言い方が許されるのであれば、書き言葉でしゃべりかけているというような感覚が)とても強くあって、そのおかげで書きつけていく(語りかけていく)過程であれもこれもと話題が転換し増長しときに肥大化し、結果として量を生み出すことになる。そしてこの量が気持ちいい。手癖だけで記述をぐいぐいのばしてのばしてのばしきっていく感じがなにからなにまで吐きだしていく告白の露悪的な心地よさと手をむすんで一種とりかえのきかない快楽を生み出しているようなところがある。中毒だと思う。ブログ中毒。死後出版にあたいするかどうかは謎だが!
 昨日にひきつづき「G」の読み直しにとりかかった。BGMはDizzy Gillespie『At Newport』とRobert Ashley『Automatic Writing』とIsabelle Faust『Bartók: Violin Sonatas』。修正しおえた断章から順次通し番号をふっていくことにした。とりあえず17番まで終わった。漢字の開きの基準表も作りはじめた。たぶんそれほど遠くないうちに「G」はかたちになるだろう。400枚までにはあと140枚あるし修正の過程で削除する断章も少なくはないだろうけれど、気持ちはすでにゴールを見据えている。400枚で終わらせるという明確な基準を設けることができた、これがなによりもおおきい。今まではずっといつ終わるのかどのように終わらせるのかわからないという不透明な雲行きのなかでやってきていたから。「J」をボツにして以降、そのような視界の悪さはじっさい悪化する一方だったのだ! あとはひさしぶりに手応えらしいものを感じることができたのもよかった。ただ、『A』もそうだが、じぶんの書くものはわりと文学的に行儀がいい。書き手として熟練に域にさしかかったとき、いずれは洗練に見切りをつけて破壊へと舵を切り、その先で待ち受ける見知らぬ風景の発見へいたるという困難な試練に身をさらさなければならないだろう。そのことを考えるとすこしだけ自信がしぼむ。そんなことがはたして可能なのだろうかと腰がひけてしまう。
 「G」の終り、ということを考えると同時に次回作への期待とあこがれが胸にともることになる。ずっと以前に失敗に終わったマンスフィールド-ウルフ的な群像劇に再チャレンジしたい(と書いたところで以前のブログにアップしてあるくだんの失敗作を読み直してみた(2011/11/26)、なにがだめなのかは一目瞭然だ、語りの配分を完全に見誤っているのだ、おそらく徹底して地の文に主導権をゆだねるようにすればいいのだ、そうすれば日本語で「意識の流れ」を扱うという困難もきっと突破できる!)。ブリル叔母がでてくるマンスフィールドのいちばんすぐれたあの短編を下敷きにして、今度もまたロマサガ3から世界観を引用するかどうかはわからないけれども、デプレシャンの『二十歳の死』のように物語の不確かな中心に「出産(あるいは死産)」を配置した、開拓民の村での群像劇を書きたい。
 東京滞在時にHくん相手に熱く語ったことでもあるのだけれど、小説とは別にやはりRPGを作りたいという強い気持ちがある。たとえばPC版の『RPGツクール』でも購入して作りあげたデータをネット上で無料で公開するという手段でもかまわない。『タクティクス・オウガ』や『クロノ・クロス』よりももっとずっとすごい最高のエンターテインメントを生み出すことができるという自信がある。 『A』のサイドストーリーとかスピンオフとかあるいは世界観だけを共有したまったく別の島(国)での話とか、いろいろ考えているだけで血液がふつふつ煮立ってくるほど興奮する。ただどのタイミングで着手すべきなのかはちょっとわからない。たとえば小説に行き詰まったときなんかに気分転換というか現状打破の祈りをこめてまるっと一年ほどかけて制作にとりかかるみたいな、そういう着手の過程が理想的かなとは思う。なんにせよ死ぬまでにはぜったいに一本、非のうちどころのないマスターピースを作りあげてみせる。これは小説もおんなじ!
 図書館に行こうと思ったら相変わらずの雨ふりだったのでやめにした。かわりにスーパーまで歩いて出かけた。ひさびさにコートを着用した。マスクで曇るのが邪魔くさいのでめがねをかけずに出かけたら身体をうまく動かすことができないじぶんがいておどろいた。なんでもない日常的な動作でさえ(あるいはなんでもない日常的な動作であるからこそ?)ここまで視覚に依存しているのか! いぜん購入したマスクはすこしおおきすぎるのか、隙間からすーすー風が入ってきてあまり意味のない気がする。帰宅すると同時に鼻水がだらだらとたれてきて、そうしてすぐにつまった。玄米・納豆・冷や奴・鶏胸肉とたまねぎと菜の花を塩こしょうと殺人ニンニクでタジン鍋したしょうもない夕飯をかっ喰らった。それからTさんいうところの「聖徳太子みたいなヒゲ」を短く整えてから風呂に入った。
 風呂からあがってからふたたび「G」にとりかかろうとしたが、テキストファイルを開いて文字列をながめただけで胸のあたりに吐き気未満のだるさをおぼえたので、ああこれはだめだと思った。もうちょっとバランスよくやらないとたやすく麻痺にかかってしまう、それどころか重症化してしまう、そうなるともうだめだ、ボツにするほかなくなってしまう。テキストファイルを目にしたときの生理的な反応というのが麻痺の程度を計る指標としてたぶんいちばん信用に足る。「私自身の言うことにだけ耳を傾けるとき、私は驚異的なことをなす」! イエス! まったくもってそのとおりで!
 『夜のみだらな鳥』を図書館に返却してしまったので、かわりにいぜんFさんからゆずってもらったジョン・バンヴィル『海に帰る日』を寝床にもぐりこんでからぺらぺらやった。そうして2時には消灯した。