20140321

(…)でもこの編集(モンタージュ)という側面は、ある意味では、あまりおおっぴらにすべきものじゃありません。なぜなら、これはきわめて強力ななにかだからです。事物と事物の間に関係をうち立て、それによって人々に、事物を、状況をはっきりと見させるなにかだからです。私が言いたいのは……妻を寝取られた男は、妻とその相手の男が一緒にいるところを見たことがなければ、つまり、妻の写真と相手の男の写真を手に入れ、それらを並べて見たりしたことがなければ、あるいはまた、相手の男の写真を見たあと、鏡で自分自身を見たりしたことがなければ、その浮気についてはなにも見なかったことになります。つねに二度見る[それによって二つのものの間に関係をうち立てる]必要があるのです…… これこそ……ただ単に[二つの映像を]結びつけるということこそ、私が編集と呼ぶものです。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 事実、この映画[『勝手にしやがれ』]はヌーヴェル・バーグの後期に登場した映画です。それにこの映画は、守るべき原則というものをひとつももたずにつくられた映画です。守るべきものがひとつあったとすれば、それは、原則というのはどれも、間違っているか正しく適用されていないかのどちらかだという考え方です。
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)



 6時半起床。クッソさぶくてびびった。まだまだ三寒四温(語源調べてみたらもともとはこの時期の気候をあらわすのに用いる語ではないらしい)。バナナ2本とココアの簡単な朝食をとったつもりが、ココアが思っていたよりも重ったるくてすこし気持ちわるくなった。
 奴隷労働。三連休の初日である。ぜったいに忙しくなるだろうと覚悟していったのだが、どうってことなかった。あしたはどうなるかわからない。あさってなんてもっとどうなるかわからない。給与明細を渡されたのでのぞいてみるとぎりぎり十万円に達していた。祝日出勤は気にくわないけれどこれがあるのとないのとではやはりおおきな開きがでてくるのだろうと思った。年間通して何日あるのかしらんけどこれらの旗日のおかげでぎりぎりな生活の生命線が保たれているといえるのかもしれない。
 Tさんには秘密ということになっている熟女との合コン(略して「熟コン」あるいは「熟コン筋クリート」)についてYさんにこっそりうかがってみたところ、詳細はTさんのいない明日にまた話すとしながらも、むこうえらい盛り上がってるみたいやで、Mくんに食いつきまくってるわ、若い男来るっていうんで全員テンションすごいことなっとる、とあった。これひょっとして主役のJさん完全にハブチみたいな危険なシチュエーションが達成されてしまうんでなかろうかと若干の危惧をおぼえたのでそういうと、いちおう相手方には67歳の存在についても告げ知らせてあるのだという。ただその点については「いまのところまったく触れてこん」らしい。相手いくつくらいかわかりましたか、と問えば、アラフォーやって、という端的な回答があり、ひとりはバツイチでふたりは人妻らしい。リッチであるかどうかは不明で、これはぶっつけ本番で見極めるしかないとのこと。これで金ぜんぜんないひとばっかやったらぼくもうJさんのサポートに徹しますわ、きれいなひとおったところでホテル代なんか出したないし、というと、そんなもん相手に出させたらええねん、いけるいける、Mくんとかもう入れ食いみたいなもんやで、ぜんぶ相手に出させりゃええねん、とあったのだけれど、Yさんみたいに人妻を寝取ることにとくべつ興奮をおぼえるタイプでもないし熟女にかんしてもとくにどう思うとかないので、永作博美が来るわけでもなし、正直けっこう微妙である。笑い話としても六十代七十代が来るというのならそれ相応に箔がつくけれど、アラフォーってのはいくらなんでも普通すぎる!
 Eさんが出張で不在だったためいくらか内職をする時間をとることができたのでジョン・バンヴィル『海に帰る日』をちょびちょび読み進めたのだけれど、喪失と回想の語りというそれだけでけっこうもういいってとなるようなところにくわえてどこにむかっているのかわからない道を延々と歩きつづける夢を見ただのパソコンだかタイプライターだかのキーボードのI(わたし)のキーが欠けているのを発見しただのいうくだりがあって、ブッカー賞ってのはこんなにも程度の低い、あけすけな、手垢と糞便にまみれたクソみたいなメタファー(それもそのあまりの安直さと合意性のためにすでにメタファー特有の迂回性がはぎとられてしまっているもっともみじめでだらしなく擁護のしようのない域にある低俗きわまりないもの)を戦略的にではなくごくごく生真面目にそして真っ正面から使ってみせる書き手ごときに与えられる賞なのかと思った。ただそれで打っちゃって終わりというわけにはいかないのがこの作品のすこし複雑なところで、とても繊細にそしてなによりも丁寧に書かれている一場面ごとの描写や、心理の襞にわけいるおっとおもわせるような記述にも出くわすことがあって、原文だったらたぶんこの繊細さと丁寧さがますますいきて、おそらくは文体家の印象をもたらすんでないかと推測した。病院で死病を宣告されたばかりの妻とその夫が自宅に帰宅した直後の場面、《それは困惑だった。アンナも同じように感じているにちがいなかった。それはたしかに困惑だった。何と言えばいいか、どこを見ればいいか、どう振る舞えばいいかわからない恐怖。と同時にもうひとつ、怒りというほどではないが、苛立ちのようなもの。自分たちが陥った窮地に対するどうしようもない憤懣。まるで、あまりにも下劣で胸くその悪い秘密を告げられて、たがいに相手の知っている汚らわしいことを知っており、まさにそれを知っていることによって結びつけられていて、いっしょにいるのは耐えがたいが、逃げだすこともままならないかのようだった》、こういうぴたりとくる比喩もあったりする。
 比喩でしかいいあらわせないもの、たとえがそのままたとえられるものでもまたあるそのようなものが、たとえば啓示と呼ばれるものなのではないか。
 仕事を終えての帰路、蕁麻疹のスーパーで牛乳だけ購入してからケッタを漕いでいたところ、前方に突っ立っているビラらしきものを抱えた女性がこちらにむけて手をふりながら止まれ止まれの合図をよこすのが目に入ったのだけれど、ケッタのライトがうんぬんだとか傘さし運転はどうのこうのだとかそういうアレだろうと思ってシカトした。で、その女性のそばを通りすぎざまに外国なまりの日本語らしきものが耳に入ったので、ひょっとして韓国か中国から来日中の宣教師のたぐいだったのかとなんとなく思ったのだけれど(すぐ近くに天理教の「教会」があったことの連想によるものだと思い返される)、しばらくいったところでパツキンを含む数人の外国人女性が歩道の真ん中で円になってなにやら一枚の地図らしきものをのぞきこんでいる姿があり、これじつをいうとさっきの女性もこのひとたちの仲間で、彼女たちはごく単純に道に迷って困っているんではなかろうかと思いなおしたのであるけれど、時すでに遅し。サブイベントの発生をみすみす見逃してしまったゲームプレイヤーのような後悔に歯噛みするじぶんに触れて、人生とロールプレイングゲームを重ね合わせて物語る陳腐な比喩はままあるけれどもこちらの場合はプレイヤーとしてのじぶんが登場人物としてのじぶんを圧倒していると思った。かつてそのようなメタフィクションを書こうと試みたことがあった。21歳、阿部和重を読んだ直後だった。
 帰宅してから玄米・レタスと水菜のサラダ・鶏胸肉を塩こしょうと殺人ニンニクとチーズでタジン鍋したしょうもない夕飯をかっ喰らった。空きっ腹に大量のサラダをかきこんでいるときの快楽にまさるものというのはなかなかない。サラダは本当に美味い。サラダが大好きだ。Twitterマーケティングについていろいろ考えているときにふと「Jさん語録」なるbotを作成したらおもしろいだろうなと思った。語録とはいいつつも登録されている言葉の大半は「Mくぅ〜ん、女買いにいかへんけ?」「Mくん元気? 二千円、貸してくれへん?」にたぐいするものばかりでときどき「おねえ! 乳吸わせてくれ!」が乱入するだけのものである。そのJさんが今日学園(刑務所)から出た直後、むかえに来た人間といっしょに銭湯にいったときのエピソードを披露してくれた。刑務所ではほかの受刑者らとすし詰めになって湯船に浸かるらしいのだけれど(背中合わせの二列に整列するらしい)、そのさいに両手は浴槽のふちにだすという決まりがあったみたいで、さすがに十年もはいっているとその癖がなかなかぬけなくて娑婆の銭湯でもおなじような姿勢を無意識にとってしまって、同行者にそれはちょっと勘弁してくれと苦笑されたのだという。今度銭湯行くことあったらいっちょその姿勢でやってみますわ、というと、彫りもんあるやつが入ってきたらやね、まあそういう姿勢とってみたらええわ、ほんでの、身体洗うときにはやな、頭から顔から体から上から順にばばばっと三分で終わらせるんや、そうしたら、あああいつは長いあいだ務めてきたんやなと、こうや、とあった。
 シャワーを浴びてストレッチをして寝床にもぐりこんでから少しだけ本を読み進めて1時には消灯した。