20140514

 冬になって尭(たかし)の肺は疼(いた)んだ。落葉が降り溜っている井戸端の漆喰へ、洗面のとき吐く痰は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮やかな紅に冴えた。尭が間借二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯はとうに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。尭は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの刺激でもなくなっていた。が、冷澄な空気の底に冴え冴えとした一塊の彩りは、なぜかいつもじっと凝視めずにはいられなかった。
梶井基次郎「冬の日」)



 10時に起きた。早朝から数時間の眠りがとても浅かった。暑いようでもあるし寒いようでもあるのに戸惑って目がさめ、迷ったあげくよそにどけてあった毛布をひっぱりこんでもぐりこんだ記憶がある。ひとつらなりの長い夢を見たが、現実とうりふたつのものだったのであまり印象にのこっていない。同志社大学のキャンパスが増えて町並みが一変し、その余波から通勤路にビデオインアメリカの新店舗ができたので、これはちょっと便利だなと思った。帰宅したらさっそくこの変化をブログに書きつけておかないとと心に刻んだ記憶もある。事実いま書きつけているのだから面白い。夢の話という括弧付きではあるが。
 パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとったのち昨日付けのブログの続きを書いて投稿した。おもてから住人らの立ち話する声が聞こえてきて、そのうちのひとりがタイにあるなんとかいう大学に留学が決まったらしくよろこんでいた。二杯目のコーヒーを飲みながら今日付けのブログをここまで書きつけるとすでに12時近かった。発音練習をして文法問題集をすこし進めると13時半だった。空のようすがおかしかったので降りだすまえに出かけることにした。歩きながらDUOの復習をすれば気分転換にもなるし運動にもなるし勉強にもなるという一石三鳥が見込まれたので、ひさしぶりに徒歩で図書館まで出向いた。返却と貸し出しをすませたのちそのまま銀行にむかった。途中にあるスタバで一服していくのもありかもしれないと家を出る前には考えていたのだったが、いくら曇り空であるとはいえまがりなりにも予報では三十度に達するか否かの真夏日である日にヒートテックにスカジャンの出で立ちで出かけたのは愚鈍きわまりないというほかなく、率直にいって汗だくだったので素通りすることにした。テラス席に腰かけてiPhoneをいじくっていた西洋人がすこしSに似ていた。
 銀行で七万円おろした。ぶつくさやりつづけて帰宅するとちょうど家を出てから一時間が経過していた。半袖の部屋着に着替えてから残る30分を文法問題集にあてたところで今日の英語はおしまいだった。こんなちんたらしたペースでいったい何になるんだろうかという疑念がたびたび頭をよぎった。Sが来日する直前の三ヶ月のようなペースでやれたらどれだけいいだろうと思ったが、小説を書かなければならないし本も読まなければならない。どう考えても一日が短すぎる。読書の習慣をしばらく控えようかなと、これを書きながらいまふと思った。
 勉強を終えたのは15時半だった。それから腕立て伏せをした。ふたたび外着に着替えて今度はケッタで近所のスーパーにむかった。そのまえに郵便局にたちよりおろしたばかりの金のうち五万円をそちらにふりこんだ。ひさしぶりに通帳記入してみると残高二万円かそこらだったようで、次の引き落としをのりきれないところまで来ていたので、ぎりぎりセーフだと思った。記入されたばかりの通帳に印税分のふりこみがあるのをみて、これがじぶんの存在を賭して得た社会的な対価かと思った。ひるがえって書くことそれ自体によって、あるいは書かれたものを通して得られた非金銭的なもろもろを思うと、その豊かさに笑うほかなかった。とんだ果報者だ。
 冷凍保存してある玄米がきれたのにくわえてパンの耳があまりまくっているので、ひさしぶりにカレーを作ることに決めた。人参とたまねぎとトマトと、皮むきの面倒なじゃがいものかわりになすびを籠のなかに突っ込んでいった。肉を選んでいるこちらのそばで大学生らしい男ふたりが、いかにも買い物に不慣れらしく通路をふさぎながらなにを買うべきかどれが高くてどれが安いのか相談しあっていて、おおかた鍋でもするんだろうと思っていたところ、でもこれっていかにもカレー作りますって感じの材料でレジにならぶのちょっと恥ずかしいよね、という標準語のイントネーションが聞こえてきて、こいつらもカレーかよと内心つっこむこちらの手元にもやはりまたいかにもカレー作りますな材料が盛りだくさんになっているものだから頭にくるやら恥ずかしいやら、いずれにせよそそくさと連中のそばを通りぬけてレジにむかったのであるけれど、どういう星のめぐりあわせか、ほかのレジがあいているにもかかわらずくだんの二人組はよりによってこちらのケツについて並びだしたので、袖振り合うも多生の縁、せっかくなんだしいっそのこと三人でカレー食うかなどと思うわけがない!
 スーパーの近所に警官が立っているのをみて、そういえば図書館の行き帰りにも交差点にたつ警官の姿がやたら多かったのを思い出し、ひょっとしてまたちかぢか要人のたぐいがやって来るのかなと思った。すでに大学を卒業したあとだったように思い返されるけれど、ブッシュが来日したときは右を見ても左を見ても警官でたいそうなもんだった。バイトを終えて深夜二時の丸太町通をケッタに乗ってモーツァルトのディヴェルティメントを鼻歌でうたいながら御所のまえを通りかかるとすべての出入り口に警官がツーマンセルで仁王立ちしていていかにも物々しかった。それとはまた別の日に、あれは天皇だったのかそれとも首相だったのかあるいは海外の大統領とか首相とかだったのか、ちょっとよく思い出せないし以前のブログをプライベートモードにして閉じてしまったので検索をかけるにもいちいちログインしてからとかそういうのすごいめんどうくさいからもう調べないけれど、とにかくその手の要人の車が目の前を横切っていくのを目の当たりにしたこともあったのだけれどあれはどこだったかよくおぼえていないというか北大路通だったような気もするけれど定かでない。信号の消えた通りをけっこうな数の白バイやらパトカーやらに前後左右かこまれながらいちだいの黒塗りの車が通っていって、たしか国旗かなにかをつけていたんではなかったか。あれは何年前のできごとだったんだろう。
 帰宅してから大家さんのところに家賃を払いにいったらちょうど入浴中だったらしいのですごすごとひきさがってきた。それからたまねぎと人参となすびとトマトと胸肉を切り刻んで片手鍋に放りこみ炒めて水を注ぎこみ中火でコトコトやりながらその時間を利用してここまで一気呵成にブログを書いた。ふたたび大家さんのお宅をおとずれると台所に腰かけている姿があったので遅くなってすみませんといいながら二万円を差し出し千円のおつりを受けとった。出し巻きをどこそこでもらったから持っていけというのにすでに夕飯の支度を終えたからといちどは断りはしたものの、その出し巻きというのが例の割烹店(辺鄙な立地にもかかわらずたびたび黒塗りの車がおとずれている政治家とヤクザのたまり場めいた謎の老舗)のものであることが判明したので、やっぱりいただきますといってひときれもらった。去りぎわにまた洗濯物の干しかたを誉められた。おかあさまの教えのおかげです、ほんとうに尊い話ですというのに、母親が入院しとった時期があったからね、そのときにちょっと家のことやっとったから、といつもの会話をくりかえした。部屋にもどってから出し巻きをつまみつつ(そこそこうまかった)、三人前のルーに六人前の具材をぶちこんだ贅沢カレーをパンの耳といっしょにかっ喰らった。ウェブを巡回するついでに以前のブログにログインして「黒塗り」で検索をかけてみると、2011年12月18日の記事に以下のようにあった(ちなみにこの日はパクられた部屋履きのスリッパがくしゃくしゃになった状態で下駄箱につっこまれているのを発見した日らしい)。

外に出ると、街角という街角に警察官が立っているのが目についた。今月から取り締まりのきびしくなった自転車うんぬんのアレかな、それとも日曜日にはちょくちょくある駅伝関係の交通規制かなと思ったのだけれど、どうにも様子がちがう。横断をせきとめられたひとびとが歩道のあちこちで小集団をかたちづくっているそのうちのひとつにまぎれてしばらく様子をうかがっていると、目の前の道路をパトカーやら黒塗りの高級車やら白バイやらが縦列陣形でびゃーっと通り抜けていき、その真ん中あたりに位置する高級車らしい一台のフロント部分に太極旗が小さくはためいていたので、ああお偉いさんが来日してんのかと腑に落ちた。真っ昼間にもかかわらず関連車両のヘッドライトはすべて点けっぱなしで、それがとても強く印象に残っている。最後尾の白バイ二台が通り抜けたとたんに信号が変わった。そろそろと歩き出しペダルをふみこむひとびとみながみな稀少な光景を目の当たりにしたことによっていくらか得をしたような気分になっているらしく、心持ち浮き足だって見えたのがちょっと可笑しかった。御所の前では、案の定、迷彩服に身を包んだ右翼がなにやらぎゃーぎゃーとわめいていた。朝っぱらから反吐の出るようなもん見ちまったわと通勤ルート設定を後悔。

 『族長の秋』を片手に布団に横たわり30分ほど読み進めたところで照明を落として15分程度の仮眠をとった。帰宅した隣室の住人が引き戸をあけるガラガラいう音でめざましが鳴るよりもはやく目がさめてしまいすごく損したような気分になってイライラしたので追加で15分眠ることにしたけれど、掛け布団の体温にまだぬくめられていない未踏の聖域に腕や足をからめているうちにアラームが鳴ったのでしかたなしに起きた。20時過ぎだった。きのうブルジョワスーパーで購入したミネラルウォーターをがぶがぶ飲みながらChet Fakerをおともに『族長の秋』を読みつづけた。ここにきてはじめて猛烈にのめりこんだ。ここまでがっつり貪るように読みすすめる読書体験はなかなかひさしぶりだった。時系列の乱脈についてはかつてじぶんが「Z」で試したものと発想の根本が似ていて、「Z」が失敗しているぶんよりラディカルでアナーキーになっているのにたいして、マルケスの操作はほとんど完璧に成功しているのでそのぶんソフィスティケートされた印象を受ける。で、これこそマルケスの質感なんだよなと思った。つまり、エピソードの荒唐無稽さと几帳面な操作性の相反する同居がもたらすこの感じ。迷信深くて呪術的で土臭いエピソードを、しかし完璧に理性的な操作で巧妙に配置してみせるこの倒錯(ここには理性-操作性から非理性-奇譚へのほとんどオリエンタリズムめいた憧憬さえ感じられる)。『百年の孤独』も『予告された殺人の記憶』もたしかそうだったように思うけれど、既存の秩序の破壊にとりかかりながらただ破壊するだけでなく再建にまでいたってしまう、どうしようもなく理性につかれた聡明な書き手だ。
 時間になったので風呂に入った。部屋にもどりストレッチをし、0時過ぎから「G」にとりかかったが、ぜんぜん駄目だった。おおいに麻痺って神経がぼろぼろにすりきれた。2時半になったところでギブアップした。通し番号はいちおう100番までふった。カレーの残りを食べてからまたちょっと作業し、歯を磨いて小便をすませて、半袖のまま布団と毛布をかぶって横たわった。4時消灯。