20140527

 朝は陽も高くなった頃に、長いこと呼ばれていたように、跳ね起きこそしないが、そそくさと寝床から抜け出して、今日は何事か、大事のありげな様子に見える。それをまた寝床の中から睡い目で眺めやって、何をそんなに張り切ってやがる、どこぞの祭りの支度か、今日も明日も、何もありやしないぞ、と水を差す。いつになったら飽きるのだ、飽きた日にはもう起き上がれないか、と眉をひそめる。それをまた枕もとから半端に振り返って、飽きるも飽きぬもないものだ、寝たかったら勝手に寝ていろ、虫にでも何でもなればいい、俺は、構ってられるか、とにかく忙しいんだ、とせいぜい言い返して、煩い口から逃げるように着替えを急ぐ。
 この愚直で可憐なほどの、日々の改まりというものが、井斐にはもうないのだ、死者には無用なのだ、と驚いた。十一年前の大病の後から私は時折、人はなぜたいてい飽きもせず絶望もせず日々を迎えられるのか、と前後もない訝りに寄り付かれ、同様に飽きず絶望せずの我身に照らして、眠る間には、疲労が取れるだけでなく、人の心身の、時間もわずかながら改まるのではないかと考えて、ずいぶん怪しげな推論だが、しかしそのようなことでもなければ、日々は索漠荒涼たる反復となって露呈して、三日も続けば、朝方が危ない、と思った。しかしまた、この日々の改まりを愚直で可憐だと感じて、かすかな感動のようなものさえ覚える折には、自分は一体何者だ、呑気に暮らしながら、じつは死者の領域にいささか足が入っているのではないか、と疑った。
古井由吉『野川』より「野川」)



 12時起床。腐れ大寝坊。なあにやってんだろと自己嫌悪の起き抜け。ほとんどなんにもできないまま一日が暮れていくことのくりかえしをおもえばおもうほどむなしくなってくる。ぐずぐずいっていてもしかたないので起きあがり布団をたたみ、味気のない歯磨きをしておもてに出て口をすすぎ顔を洗った。洗濯機のまえに刈りとったばかりのものらしい落ち葉が吹き溜まっていて、片付け途中らしいほうきとちりとりが置きっぱなしになっていた。昨夜就寝前に目にした天気予報では三十度に達するか否かの真夏日とあったのだけれど、曇りがちの空で気温もそれほど高いようには思われなかった。洗濯機をまわしてからストレッチをし、パンの耳2枚とコーヒーの朝食をとりながらウェブを巡回し、昨日づけのブログを投稿した。洗い終えたものを干しながら中越関係のいよいよまずい感じがする緊張やらフランスでの極右政党の大躍進やら田母神みたいなしょうもないのを救世主みたいにまつりあげているこの国の若者やらを考えていたら暗澹たる気持ちになった。人類終ってんなと思った。安倍晋三のウェブサイトをおとずれてみたら田園風景の真ん中で農作業姿の老婆にむけて深々と一礼しているワイシャツ姿の首相を遠巻きにうつした写真がトップページに出てきた。虫酸が走る。
 14時から「G」にとりかかった。17時まで。枚数変わらず263枚。ぜんぜん駄目だった。「あー!書けないー!」となったときの「あー!」の部分でデスクの上のコーヒーをこぼしてしまって、拭きとりながらすごくみじめな気分になった。書いているうちに考えたことをTwitterのほうでつぶやいた。そうしたところで難所の霧の晴れるわけでもぜんぜんないが。改稿もようやく半分にさしかかったところだが、ほんとうに年内に発表できるのかといえば、400枚はあきらめて300枚を目処にしたところで、なかなかけっこうあやしい感じがする。あたらしい断章の追加がぜんぜんはかどらないここ最近のおのれを見るにつけても、このスタイルに飽きのきているのはたしからしいから、さっさと仕上げるだけ仕上げていい加減あたらしいものにとりかかりたい。物語を書きたい。
 服を収納するスペースがなくなったので古い部屋着を何着か捨てた。職場から持ち帰ってきたものや実家から持ち帰ってきたものやどこかの部屋から軒先に飛ばされてきたものやなぜか洗濯機のなかに混じりこんでいたものやらの拾いものだらけで、どれもこれも部屋着としてさえ用いることのないようなやつばかりだったので(といってもうち二着は使いようのあるブツだったのでとっておいたわけだが)、すべてゴミ袋につっこんだ。穴のあいたのや首もとのよれよれになったのをどのみち部屋着であるのだし人目にさらすわけでもないのだからと着用しているとたびたびTさんに叱られたものだった。曰く、そんなぼろぼろの服を着ていては運が逃げる!
 腕立て伏せをしてから近所のスーパーに買い物に出かけた。帰宅してから18時から19時まで英語の勉強をし、次いで鴨川にジョギングに出かけた。すごく気持ちよかった。はじめてこのコースを満喫することができた。腕立て伏せをしたあとにバナナを食べてプロテインを飲んだのだけれど、それが勉強の一時間を経由してうまい具合に消化され、ジョギングのためのベストコンディションを整えてくれたのだと思う。19時を過ぎていたからさすがに薄暗くて、というか家を出るころはまだそうでもなかったのだけれど、川縁を走っているうちに街灯のないこともあってどんどん暗くなっていって暮れていって、犬の散歩をしている姿もなければ楽器の練習をしている姿も読書にふけっている姿もむろんなかったけれども、ランナーだけは相変わらずけっこういた。走れば走るほど、汗をかけばかくほど、うまくいかなかった作文のわるい後味から頭が離れて気分が上向きになっていくのがわかった。対岸を走る自動車のヘッドライトが川面に落ちて濡れた色合いになって、裸眼の視界だからそうでなくてもにじんでみえるオレンジ色がますますふるえてそのたびにあるかなしかのさざなみめいた川面の縦じわが色とりどりに浮かびあがった。暗闇がまだまだ青いこのひとときがいちばん街灯の明かりや車のヘッドライトを美しくきわだたせることを思い出し、思い出したというその実感をさかのぼってみたところで大阪行脚のときにたしかよく似た風景を目にした、と、あの旅路の途中で購入したパチモンのヒートテックをいままさに着用しているおのれの滑稽を秘密に意識しながらなにもかもがなつかしくなった。小説がうまく書けないのはつらいしじぶんがいつか死ぬのもやりきれないけれど、そういうつらさやりきれなさをなぐさめてくれるような景色というのはたしかにある。景色がハブになって、美化されるがままの記憶も山ほどよみがえる。根本的な解決にはならないとして撥ねつけるほど倫理的にたくましくはなれない。
 帰宅してから茶の切れていることに気づき、かといっていまさら湯を沸かしてうんぬんするのではちょっと遅すぎるので、空き地をはさんだとなりのアパートの敷地内に設置されている自動販売機でペットボトルの茶を購入した。コンビニのほうが種類も多くていいのだけれどいくらお茶を買うだけといっても汗だくで来店するのはなんとなくはばかられて、人前には出れないそんなときはいつもこの自販機でいつもおなじお茶を買うのだけれどこれがほんとうに美味くないからまいる。どんなヘボいメーカーの商品だろうとふつうは家で作った安物の茶よりぐっと美味いだろうに、この茶にかぎっては小学生のころクラスメイトのだれかにわけてもらったまずい家茶のようにくさくてまずくて嫌になる。しかし選択肢はほかにない。その茶を片手に風呂場にいった。冷たい水で両脚を冷やしたあと、ゆっくり身体を洗った。大家さんの部屋からたぶんNHKだと思うけれども、演歌が聞こえてきて、間奏の途中で女性の語りが入るのだけれど、じぶんを捨てていった海の男かなんかに呼びかける体裁で女は男に尽くすことでよろこびを得るものなんですとかなんとか涙ながらの声で熱演していて、これ最悪の歌詞だなと思った。演歌の歌詞を収拾して分析すれば、フェミニズム的な見地からも(場合によっては日本文化論みたいな大枠からも)けっこうなものが書けそうな気がしたのだけれどたぶんだれかすでにやっているだろう。この国を古くから支配している呪われた抒情について。
 カフカの謎は言葉で解明する必要もないしすることもできない謎だけれど、ムージルの謎は言葉でせまることによってはじめてそれが謎であることの明らかになるそのような謎だと思った。
 部屋にもどりストレッチをしてから、玄米・納豆・冷や奴・もずく・にんにくと塩で茹でたブロッコリー鶏もも肉・きゅうりとトマトのサラダをかっ喰らった。食事を終えると22時で、そこから30分英語の勉強をしたところで眠気を感じたのでとっとと寝床に横たわり仮眠をとった。目がさめると23時前で、どうしようかと迷ったあげくひさびさに薬物市場で作業することに決め、街着に着替えてからケッタに乗ってえっちらおっちら向かった。チョコミントティーを買って自由席に腰かけた。高校生か大学生かよくわからない男ふたりが先客としていて、いちおうはテキストらしいものをひろげていたけれどぜんぜん勉強なんてやる気なさそうで、こいつら騒がしいだろうなと思いながらもそのうち出ていくだろうということで文法問題集の続きにとりかかったのであるけれど、途中で蛾かゴキブリかなんかわからないけれどとにかく虫のようなものが彼らの席の周辺に出たらしくてぎゃーぎゃーうるさくて、もーこんなんやっとれませんわとなって店をでた。去りぎわにじろりと目線を送り出してやると、ふたり組の片割れが一瞬あ、やばいみたいな顔になったのだけれど、でもそもそもの話、三十路も間近な男がコンビニの自由席で勉強するなんてほうがむしろ非常識かと反省されるところがあったので、もうここで作業するのは金輪際やめにしようと思った。最悪でもマクド、もしくはファミレス、できればカフェか喫茶店だ。金がいる。
 帰宅してから1時半まで文法問題集の続きを口頭で解いた。若干時間をオーバーしたが、残すところわずかだったので延長してとりあえず一周目を終わらせるにいたった。明日からは二周目である。七周くらいすれば十分かなと踏んでいる。いま読んでいる『レトリックと人生』を読み終えたらいったん読書も中断しようかなと思った。こんな遅々としたペースではいつになっても英語をマスターできない。やはり一年前のいまごろみたいにがっつり英語漬け、というわけにはいかないからむろん作文の時間だけは確保するつもりであるけれど、そういうふうにして年内を目処にしてせめて洋書を読むことのできるくらいのところにまでは持っていくべきなんではないか。ちまちました平行作業はやっぱり向いていないとあらためて痛感する毎日で、三つ子の魂百までみたいな言い方はあまり好きじゃないけれど、なんでもかんでも一点賭けみたいなこの性向だけはどうも物心ついたときからぜんぜん変わらないらしい。Sが帰国してからの三ヶ月を製本作業にすべて費やしたのはやはり大きかったなと思った。あの三ヶ月の日本語漬けでS来日前の三ヶ月の勉強が相殺された、みたいな。鴨川からのジョギングの帰り、民家のほうから線香のにおいが漂ってきて、Sがずっとそのにおいが何のにおいなのかわからず、こちらに説明しようにもうまく喩えようもなくてやきもきしていたのを思い出した。大家さんが仏壇に線香をそなえるところを遠目にながめたところで、あれが正体かと納得いって労働終わりのこちらに報告してみせた。