20140609

 反復から成り立つ現実に、すこしずつ置き残されていくのが、年を取っていくということか。よくよく知ったはずの道に迷う。角を正反対のほうへ折れて、しばらく間違いに気がつかない。方角が怪しくなって立ち停まると、あたりが見知らぬ場所に見える。この辺にはあり得ぬ所のように思われる。ようやくもとの角まで引き返して、あたりを見まわせば、さっきはこの風景が自分の眼にどう映ったので、逆の方向へ迷わず歩き出したのか、さらに不可解になる。
 街の様子がのべつ変わる世の中である。変わらぬ角でも、その辺の店が少々の模様替えでもすれば、雰囲気は微妙に異ってくる。人は要所要所で雰囲気に感じて道を取っているものだ。しかし場所の雰囲気も人の方向感覚も、一挙の激変がないかぎり、あるいは五年十年ぶりに来たということでもないかぎり、反復から成り立っている。持続ではない。持続ということでは怪しい。病的に昂じればデジャ・ヴュと呼ばれるが、安定した既視感に人は頼る。視覚で代表されるが、聴覚も嗅覚もふくむ。この既視感がまるでなければ、雰囲気も方向感覚もあったものではない。内の反復が外の反復と相携えて、歩いているわけだ。ところが、年を取るにつれて、内の反復がゆるむ。
 家の内にあっても、年を取るほどに人の習慣は抜き難くなり意味もない常同に嵌ると言われるがそれは或る年齢までのことで、老齢に入れば習慣はむしろ綻びやすくなる。日常の行為には、歯を磨いて顔を洗う、あるいは湯を沸かして茶をいれるという程度のことでも、長年定まった無意識の手順がある。それがある日、ひそかな気紛れに忍びこまれたように、どこかで前後が乱れ、その狂いがまた順々に繰り越され、本人にも思いも寄らぬ間違いとなって表われる。薬缶がテレビの上にのっている。眼鏡が茶箪笥に片づいている。そこまで行かなくても、たやすい手順を踏むことに俄かに疲れを覚える。忿怒のようなものさえ起こりかける。天邪鬼がささやく。いずれにしても、長年の反復に、現在がついて行けなくなりつつある徴だ。体力の掠れてきたこともあるだろう。
古井由吉『野川』より「夜の髭」)



 14時半に起きた。だるくてたまらない起きぬけだった。身体中いたるところが痛んだ。布団の上からなかなか起きあがることができなかった。めざめることなくそのまま逝ってしまう朝を思った。そんなふうに往生できる人間はほんの一握りで、だいたいが死の国に越境するための通過儀礼として手ひどい痛みや苦しみに見舞われさんざんな目にあったあと、その極まりにおいてはじめて恍惚に触れ、そして逝く。めざましは11時にセットしてあった。止めた記憶もないことはない。母からのメールでいちど目を覚ましたこともあった。米はまだあるかという問い合わせだったのでまだあると返信して寝た。夢の余韻をひきずった頭だったように思いかえされたのでひょっとしてわけのわからない文面を送信しているかもしれないとあとになって読みなおしてみたが、問題なかった。歯を磨きながら枕元のPCで昨日付けのブログを更新した。おもてに出ると真夏日の晴天だった。部屋にとりこんである洗濯物をふたたびおもてに出した。腐ったたたみのうえでストレッチしていると関節という関節がボキボキ音をたてミシリミシリときしんだ。月曜日の音色だった。
 HくんがTwitterでリンクをはっていた音源を聞きながらパンの耳1枚とホットコーヒーの朝食をとった。すると16時だった。頭はまだまだぼんやりするし部屋は暑いしで作文する気にはとてもなれなかったのでパソコンと本をリュックに入れて図書館に出かけた。去年はたぶん一度も着用することのなかったエメラルドグリーンの襟元の深いTシャツを着てみたらやはり思っていたよりもきつくなっていて、以前よりもTシャツいちまいの姿がさまになるようになったかなとは思った。去年は白シャツとイージーパンツばかりでほとんどTシャツを着たおぼえがないが、今年はたくさんTシャツを着ようと思った。私服に統一感がない、というか確たる嗜好がないそのために季節が変わるたびに年月があらたまるたびにバラバラの格好ばかりしていて、太宰治「ダス・ゲマイネ」に彼は固定した印象をひとにもたれたくないためにいつも違ったタイプの服を着たみたいな一節があったように記憶するけれど別にそれを踏まえているわけでもなんでもなくただいまふと思い出しただけなのだけれど(と思って検索してみたところ、正確には「彼は実にしばしば服装をかえて、私のまえに現われる。さまざまの背広服のほかに、学生服を着たり、菜葉服を着たり、あるときには角帯に白足袋という恰好で私を狼狽させ赤面させた。彼の平然と呟くところに依れば、彼がこのようにしばしば服装をかえるわけは、自分についてどんな印象をもひとに与えたくない心からなんだそうである。」だった)、あんた衣替えするたびになんか雰囲気変わるなと、その衣替えのたびごとにTにいわれるのが恒例行事になっていたりもする。手持ちのTシャツについてはどれもこれも色あせたり首もとがよれよれになっていたりするので、今年はちょっといいところのものを数枚まとめて買いたい。安物買いの銭失いとはよく言ったもので、じっさいにそこそこの金額を支払って購入したものはどれもこれも現役で生き残っていて、ヒステリックグラマーのTシャツなんてたぶんもう七、八年は着ている(さすがにボロボロのよれよれだけど)。ポンチ絵を見に行くついでに散財することとしたい。衣服も図書館みたいに無料でレンタルできたらいいのに!
 図書館で返却&貸し出しをすませたのちその足で喫茶店にむかった。とちゅう前からやってきた子連れのふらふらした自転車を避けるために道の端に寄ったところ、ハンドルを握っていた左手の拳を電柱に軽くぶつけてしまい、骨にずしりと響く重たさと熱さに高校生の時分を想起して目を遣ってみれば見事なくらいぴったり拳ダコに位置する部分の薄皮がえぐれて真っ赤に染まっていた。薬指と小指の根元だったので惜しかった。人差し指と中指の根元だったら巻き藁相手に正拳を放ったあとそのものだった。熱くしびれるものにうながされるようにして気づけば十代の域に片足を踏み入れていた。クソが百個ついても形容したりないクソだったのですぐさま引きかえした。芸術がいちばんいい。小説と一蓮托生でありたい。
 夕方の喫茶店はたいへん空いていて居心地がよろしく読書にうってつけである。17時から20時まで滞在して『レトリックと人生』を読み進めた。もうあと少しというところまで読み進めたのでそのまま読了して店を出たかったが、空腹のために腹がグーグー鳴りだしてたいそうみっともなかったので、当初から三時間滞在の予定だったこともあり途中できりあげて店を出た。出しなにまたパンの耳をいただいた。これで冷凍庫は満杯である。
 スーパーに立ち寄ったらまたもや寿司が四割引になっていたので買ってしまった(それも2パックも!)。これで三日連続となる寿司である。しかし飽きない。帰宅してからアジとカンパチの寿司をインスタントの味噌汁・納豆・冷や奴といっしょにたいらげた。食後の満腹感をいなすためにだらだらとネットをしていたところ、まとめブログ経由で「老人の町」(http://mangaroujinnomachi511.web.fc2.com)というWEB漫画を知るにいたって、面白かったので最新話まで一気読みした。絵柄の雰囲気といい主人公の斜にかまえたやる気のあるのかないのかわからない態度といい愚かな友人たちといい、それになによりシリアスとギャグのちょっと奇妙な同居の質感が古谷実ヒミズ』に似ていると思った。『胎界主』以外に更新の楽しみな漫画ができた。
 22時から23時までだらだらと一時間もかけて『レトリックと人生』を最後まで読み進めた。ようやく終ったと思った。これを契機に明日からは英語漬けになると、あらためてそう思ってみたが、心に手応えがなかった。習慣を変更する決断を下したとき特有のあのみなぎるような野心が感ぜられなかった。モチベーションが弱いのかもしれないと思った。
 風呂に入った。ストレッチをした。昨夜の宴のために購入していながら結局飲むのを忘れていた能勢ジンジャーエールなるものを飲みながら簡単な調べものをした。そうして0時より「G」にとりかかることにしたが、その前に小一時間ほどかけてここまでブログを書いた。ブログはストレッチであり筋トレであり助走である。頭を作文モードに切り替えるための手癖と妥協に貫かれた十全たる書きなぐりである。どれだけ手荒に書きとばそうともいっこうにかまわない(文章の美意識にたいする)自己検閲なきこのような場を確保してしてあることの幸福を思った。小説をそんなふうな適当さで書きとばすこと「も」できる日、いつか来るんだろうか。3時半までだらだらやった。かなり削った結果マイナス3枚で262枚。改稿は144番まで。書けば書くほど道のりがきびしくなる。ボツにした断章はその都度このブログで公開するというかたちをとればよかったかもしれないといまさら思った。後の祭りだ。
 ラーメンを食べてから就寝準備を整え、枕元にパソコンを置きなおし、寝床にうつぶせになるかたちでNくんの原稿を読みはじめた。半分かそこら読んだところで眠くなったので電源を切って消灯した。寝るまぎわにいつも携帯で天気予報とニュースのトピックみたいなやつ(両方ともパケ料0円で見ることができる)をながめるのが習慣になっているのだが、東京で土砂災害の避難勧告だか警戒情報だかが出ているという記事があって、そこに掲載されていた市名に見覚えがありこれたしかFくんの住んでるところじゃなかったかと思った。なんとなく京都っぽい地名だったので印象にのこっている。6時消灯。