20230127

 親というのは不思議なもので、自分が子ども時代を経験しているにもかかわらず、親になるとなぜか子どものことがわからなくなります。その理由は、このように親としての自我を新しく実装することの代償として、それ以前にあった自分独特の言葉を失うからでしょう。
 ちなみに、自分の言葉を持たない大人は、何も親だけではありません。人は何者かになったとたんに、固有の言葉を捨てて、何者かになりきって話そうとするものです。例えば、医者として、教師としてといった具合です。幼い子どもが「ごっこ遊び」をするのと同じ要領ですね。大人社会も基本はごっこ遊びの延長ですから、何者かを実装した瞬間から、誰もが芝居がかった平板な存在になるのです。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 きのうづけの記事にもちょっと書いたが、たしか8時ごろだったと思う、腹が痛くなって目が覚め、便所に駆け込んだ。それで軽く冴えてしまい、二度寝までやや時間を要した結果、起床は13時になってしまった。できれば11時までに起床する生活を送りたい。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。鈴木邦男の訃報。おおむかしにブックオフで買った著作を一冊だけ読んだことがある。雑誌連載をまとめたものだったはず。(…)に住んでいたころであるから、本を読みはじめて一年目か二年目か? いずれにせよ、右翼も左翼もよくわかっとらん頃だ。一水会の名前はしかしこの一冊をきっかけに覚えたはず。
 トースト二枚の食事をとる。コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書く。作業中は『Christina Vantzou, Michael Harrison and John Also Bennett』を流す。良い感じ。ウェブ各所を巡回し、2022年1月27日づけの記事を読み返す。

(…)村上龍長崎オランダ村』を最後まで読み進めた。すばらしかった。(…)以下のくだり、熊谷晋一郎の仮説とぴったり符号する。村上龍がここで書く「自分と向き合う時間」を、熊谷晋一郎のいう「暇」や「退屈」に置き換えてみればいい。「暇」や「退屈」(=「自分と向き合う時間」)というものはトラウマの蓋を開けてしまう力がある、だからこそひとはその「暇」や「退屈」(=「自分と向き合う時間」)といったものを(広義の)自傷行為によって塗りつぶしてしまうのだ、と(村上龍のいう「自分が消えてしまうほど楽しい時間」(享楽?)を「自傷行為」の一種とするというスリリングなパラフレーズもいきおい成立する)。

「子供なんかどうなんですかね?」
 とナカムラがカラスミを見つめたまま言った。子供は絶対に自分と向き合ったりしてはいけない。子供は自分と向き合うのを本能的に嫌う。子供には情報が不足しているから、自分と向き合わざるを得ないような体験があるとその傷と一生戦わなくてはならなくなる。もちろん、完全な育て方や成長というのはあり得ないから、子供が自分と向き合わざるを得ないような時には、傍にいる誰かの助けが必要になる。子供は一人では病院に行けないのだ。子供が、我を忘れて、自分が消えてしまうほど楽しい時間を意識的に作ってあげなくてはいけない。それほど大変なことではないが、物理的な時間が必要だ。絵本を読んであげるために必要なのは金ではなく時間だ。ナチスに親を殺された子供を想像してみるといい。その子が自分と向き合う時には、必ずそのことが目に浮かぶだろう。そういう自分と向き合うことから救ってくれるようなものは、この世の中にそう多くはない。子供は徹底的に楽しく生きていくべきなのだ。そして、楽しく生きるのは、難しい。意識的に求めていかないと、向こうからはやって来ない。このバーのような、幸福やゴージャスといった概念に惑わされて一生を終わることになる。

 今日はまた上の部屋がコンコンコンコンやかましく、16時57分現在、これまで何度「うるせえ!」と巻き舌で吠えたかわからないくらいだ。本当にいい加減にしてほしい。なんであんなにしょっちゅう床をコンコンコンコンやる必要があるのだ? キツツキ何羽放し飼いにしとんや?

 身支度を整えて外出。ゴミを持って一階に降りる。寮の敷地内に三つならべて置かれているでかいプラスチックのゴミ箱に近づくと、中から野良猫がものすごいいきおいで飛び出て、柵の隙間をくぐりぬけるようにして向かいの女子寮のほうに逃げていく。野良猫たちはしょっちゅうこのゴミ箱の中にもぐりこんで残飯をあさっているのだが、日中はまだしも、夜に突然中から飛び出されると、けっこうびっくりする。
 自転車に乗って魔窟の快递に向かう。ピドナ旧市街を通り抜ける。新校区のバスケコートは無人だったが、こちらのバスケコートはまずまず盛況だった。新校区内にある住居はほぼ学生と教職員のものだが、ピドナ旧市街のほうは定年退職した職員のほか、大学とは無関係の人間も住んでいるという話を以前学生から聞いたことがある。だから冬休み中もひとの気配が相応に残っているのだろう。しかし爆弾魔のやつはあらためて謎だな。あいつなんで春節のあいだもずっと寮におるんや?
 魔窟の快递は今日も閉まっていた。こりゃあ一月いっぱいは閉まったままかもしれん。后街を通り抜けて引き返す。営業している店はやはりそれほど多くないが、屋台はすでに並びはじめている。そういえば武漢でコロナが発生してほどない頃、それまで路上で屋台を営業するのは取り締まり対象だったのだが(とはいえ、実質ほぼ黙認されているというか、当局によるチェックが入る日だけ店をどければそれで問題なしみたいなアレだったみたいだが)、李克強が一転、屋台営業による経済効果を擁護するような発言を口にし、国内の経済状態はやはり公式発表されているものよりも相当やばいのではないかと一部人民たちがざわめいたという話を当時(…)先生から聞いた。
 ひさしぶりに外食したい気分だった。営業していれば、(…)か(…)であたたかい麺でも食っていこうかなと考えたが、どちらもまだ閉まっていた。しゃあない。(…)に立ち寄って食パン三袋購入。阿姨からあんたいまお店も閉まっているのにごはんどうしてんのとたずねられたので、自炊してる、あそこにあたらしいスーパー開店したでしょ、あそこで肉や野菜を買ってると応じる。
 新校区に戻る。まるまる肥えた野鳥をたくさん見かける。ひっつかんで地面に向けてぶん投げてもボヨ〜ンと音をたてて弾むんじゃないかというくらいのクソデブ肉だるま。こいつら見るたびにねぎま食いたくなる。
 帰宅。キッチンに立ち、米を炊き、豚肉とオクラとトマトと長ネギとニンニクをカットしてタジン鍋にドーン! し、レンジでチーン! する。かっ喰らいながら(…)さんの発表動画をまた15分ほど視聴する。真悟が親子関係の三角形図を地面に描くとき、一度目と二度目では線を引く順番が異なるという指摘。一度は自分を描き、その自分から両親(さとるとまりん)にいたる線を引くが、二度目は両親→自分の順番で描く、と。なるほど、気づかんかった。
 ベッドに移動。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きをちょっとだけ読む。20分の仮眠。目が覚めたところでコーヒーを淹れ、20時半から22時半まで日語会話(二)の授業準備。作業中は『PEPE』(EVISBEATS, Nagipan)を流す。昨日は第14課+第15課(一部)でワンセットとなる教案をこしらえたわけだが、その第15課の残りだけで90分もたせるのは厳しいと判断されたので、第15課(残り)+第16課(一部)でワンセットとすることに。第16課は使い勝手が悪いので、先学期では省略したのだが、今回あらためて確認してみたところ、「朝起きて、歯磨きをして、ごはんを食べて、教室に行きます」というような、動詞のて形を連チャンさせる文型を取り扱う課だったので、あ、これだったらゲーム作りやすいじゃんと気づき、やっぱり取り入れることにした。
 途中、(…)からHow are you? の微信が届く。あしたふるさとを出て(…)に戻るつもりだというので、道中気をつけてと返信。それ以上のやりとりはなし。特に用件もないのにどうしてわざわざ連絡をしてきたのだろうと考えたところで、あ! おれってもしかして独居老人みたいなあつかいなんか! と気づいてしまった。もともと冬休み中はほとんどひとのいないキャンパスであるが、春節中ともなればさらにひとがいなくなる、そんななかで家族がいるわけでもなくひとり暮らしをしている言葉の不自由な外国人であるこちらの身になにかあったら——たとえばコロナで四十度オーバーの高熱を出していたら——大変なことになるかもしれない、そういうわけで一週間に一度は用事がなくとも連絡をとって生存しているかどうか確認する義務が外国人教師の担当者である(…)にはあるということでは? キエー! なめられたもんや!
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチし、懸垂し、餃子を茹でて食しながら、ジャンプ+の更新をチェックする。それからまた授業準備。第15課+第16課、いちおう完成する。まだまだ粗いところはあるが、ブラッシュアップは授業直前にシミュレーションを兼ねてやればいい。日語会話(二)については、明日、明後日、明々後日と、ひきつづき一日一課ずつのペースで潰していけば問題ない。問題は日語会話(三)だ。これはベースとなる教案がまったくない状態から準備をはじめなければならないので、かなり時間がかかる。二日に1課ずつ進めるとしても、冬休み中にぎりぎり終わるか終わらないかというアレで、そう考えてみると全然余裕がない。学期中にも休日はあるし連休もあるのだから、長期休暇中になにもすべて準備を終わらせておく必要はないではないかというアレもあるのだが、毎回そういった甘い見通しのせいで学期後半はひーひー言っている気がする。新学期がはじまれば、授業だけではなく、学生からの食事の誘いだの散歩の誘いだの買い物の誘いだの相談だのがまた連続して入ってくるのだろうし、そうすると授業外で多く時間を奪われることになるし日記もまたその分長くならざるをえないしで、だからやっぱり授業準備はなるべく長期休暇中にすませておいたほうがいい。学期後半にあせったりイライラしたりしたくない!
 準備を終えると1時半だった。歯磨きをすませてからベッドに移動し、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。“Greenleaf”を読み終わったが、これもオコナーを語るにあたって重要な作品かも。今回メモをとらずに読んだし、しかもかなりぶつぎりの読書になってしまったのでアレなんだが、(持たざるものではない)持つものとして女主人がいつものように登場する。で、彼女が自分の土地で使用人として採用しているGreenleaf一家が、闖入者のポジションに当てはまるのだが、しかしほかの作品とはことなり、この小説は闖入者の到来と同時にはじまるのではなく、その闖入者との暮らしがすでに十五年(だったと思う)継続している時点からはじまる。さらにこれまでなかった要素として、女主人には成年した息子がふたりいるし、Greenleaf一家にもその息子ふたりと対応する息子たちがいる。女主人はGreenleaf一家にいずれじぶんの土地をすべて奪われるのではないかと危惧しているし、彼らのものであるbullがじぶんの土地を荒らしじぶんの家畜を襲うのを常にいまいましく感じており、直接そういう語が使われているわけではないが、じぶんが一家によってparasiteされているという印象をもっている(そしてそれは、Greenleaf一家の息子ふたりが軍に従事したおかけで高額のpensionをもらったり政府からの優遇措置を受けている——社会システムにparasiteしている——という考えや、その息子たちが結婚したフランス人の妻たち——この国この土地にparasiteしている——に対する反感と共鳴して増幅しあう)。もちろん、闖入者をGreenleaf一家ではなくその息子たちのものであるbullと読む筋もあるだろし、むしろそのほうが適切なのかもしれないが、仮にそうであったとしても、女主人と闖入者(bull)が直接的に対峙するのではなくそこに媒介者であるGreenleaf一家がいるという構図がやはりほかのオコナーの作品にないものであるし、そこに息子という、やはりほかのオコナーの作品にはなかなか見られない形象が関与している点も目新しい(bullの飼い主はGreenleafの息子たちなので)。“Greenleaf”はほかのオコナーの短編に比べるとやや長めなのだが、そのボリュームもこれらの追加要素のためだろう。“The Displaced Person”がそうであったように、オコナーはここでも自作を自作たらしめる典型的な構図からの跳躍を試みている。
 フラナリー・オコナーはいったんお休みして、『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子・編著/北村婦美、鈴木菜実子、松本卓也)を読みはじめる。「ケアの倫理」という言葉、あちこちでやたらと見聞きするわけだが、具体的にどういうことであるのか、第一章に説明があった。キャロル・ギリガン『もうひとつの声』ではじめて提唱された概念らしい。

(…)ギリガンは(…)道徳の諸問題を巡る語りの声には、二つの種類があることに思い至る。(…)
 その二つの声とは、「正義の倫理(ethics of justice)」と「ケアの倫理(ethics of care)」である。正義の倫理においては、〈それぞれ他人からは切り離された自律的な個人どうしが競合し合う世界で、お互いの権利の優先順位が、抽象的原理によって定められる〉というモデルが想定されている。しかしケアの倫理は、〈お互いがお互いに対して応答し合う責任をもち、誰も取り残されたり傷つけられてはならない〉といった考え方に基づく倫理原則である。したがってケアの倫理では、複数の人たちへの責任がぶつかり合う状況でジレンマが生じるわけだが、そこで取るべき行動が判断される際には、「正義の倫理」の場合のように普遍的抽象的な原理による裁断というよりも、その都度の文脈や状況に即した、総合的な判断が目指されることになる。このように、自己を他者から切り離された存在というより、むしろ他者とのつながりの中に生きる存在としてとらえるのが、ケアの倫理の背後にある人間観、世界観なのである。
(北村婦美「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」 p.22-23)

 めちゃくちゃ大雑把にいうと、状況を一般性に還元してマニュアルにしたがった判断を下すのではなく、特異性の相のもとにとらえてその都度判断を下すということで、これって、精神分析の側からDSMに対してなされる批判と共鳴するところもあるわけだ。あと、「正義の倫理」を「批判」、「ケアの倫理」を「説得」に結びつけて考えることもできるな。「ケア」という単語と「分断」という単語を見聞きする頻度が、ここ十年、こちらの印象ではほぼ完全に比例していたというアレがあるのだが、この印象、あながちすっとんきょうではなかったかも。