20230128

 最近の親は、自分が子どもに対して何をヤラかしているかということに自覚的な人が増えました。その結果、子どもに自分の考えを一方的に押しつけたり、安易に世間の価値観を代弁したりすることを注意深く避ける親が増えました。
 しかし、これは必ずしも歓迎すべきことではありません。なぜなら、親を通して大人の背後に広がる世間の壁にぶつかる経験は、紛れもなく子どもが社会で生きていくために必要なものですから。世間を代弁しない親というのは、社会の現実を見せないという意味で子どもに残酷な仕打ちをしているのにもかかわらず、親も子も互いに気遣い合っているために、それに一向に気づかないという状況が多くなりました。
 本人の主体性を大切にしたいから、本人が嫌なことはやらせない。それは、子どもを守るためにはときに大切なことでしょう。しかし、何事もバランスが肝心で、いくら大切なことでもそれを徹底しすぎるといろんな弊害が生じます。そうやって育てられた子どもの多くが本当に苦労しているんです。
 なぜ苦労してるって当たり前なんですよ。だって、「主体性を大切にしたい」と言う前にそもそも子どもの主体性が育っていないんですから。そんなことを言うなら、親は世間に負けないような別の強烈な価値観に子どもをさらすべきだったんです。自分だけきれいでいようとせずに、自身のぶざまな生き方を通して子どもを徹底的に感化すべきだったんです。
 それなしに、いつも先回りして子どもが嫌がることを避けることで偶然的な可能性を奪うなんて、主体性が曖昧なまま育つにきまっているじゃないですか。そんなわけで、中学に入る頃になると、自分がどっちに進めばいいか皆目見当がつかないままに、あり余るエネルギーの行き場をなくして立ち尽くしている子どもが、いまやたくさんいるのです。
 子どもに好きなことしかやらせない親の多くは、自分の生活の実質を見ようとしていません。自分が日ごろから、自己や仕事を呪いながら、生活に鬱憤や不満をため込みながら、それでも、そういう否定性を活力にして生きているという事実を見ないで済ませようとしているんです。そういったもっともありふれた人生の矛盾を、知らず知らずのうちに子どもから隠そうとしているんです。
 子どもに矛盾を見せないで、「あなただけは好きに生きていきなさい」と潔癖に育てようとするのは、親の身勝手さの現れです。そうやって、自分の代理物としての子どもを使って、自分の人生の矛盾を解消しようとしてもうまくいくわけがないし、子どもにとっては壮大な迷惑でしかありません。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 12時起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。トースト二枚の食事をとり、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ひとつ書き忘れていたが、Flannery O’Connorの“Greenleaf”には、Greenleafのところのbullが、女主人のところのherdと勝手に交尾しようとするみたいな記述もあったはず。つまり、そこでbullは身分制や階級社会を瓦解させるものとして描かれているわけだ。こういう象徴がフラナリー・オコナーはいちいちうますぎるんだよな。凡百の作家が試みれば、風通しの悪いガチガチの暗喩になってしまう設定が、オコナーの手にかかるとなぜかそうならない。軸足はあくまでもリアリズムに置かれたまま、意味と無意味が風通しのよい余白のうちに奇跡的な同居を果たし、作家の目配せはどこにも見当たらない。とにかく上品だ。

 そのまま今日づけの記事も上まで書く。15時半。阳台に移動し、日向ぼっこしながら、『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子・編著/北村婦美、鈴木菜実子、松本卓也)の第一章「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」(北村婦美)を最後まで読む。フェミニズム精神分析がいかに対立しいかに協働してきたかの通史。おもしろいし、勉強になる。そもそもこちらはラカン派の本ばかり読んでいて、フロイトまわりの知識はすっからかんなので、そういう意味でもやはり勉強になる。フェミニズムの歴史もかなり面白そうだ。今年はそっち方面をガシガシ掘ってみようかな。いや、その前に漱石ラソンも途中でストップしたままであるし、まずはその続きからか。といっても、あとは「行人」と「こころ」と「道草」と「明暗」だけか。せっかくであるし随筆も読んでおきたいけど。

 人間には、男根一元論的認識と両性性的認識がともに存在しているのではないか。シャスゲ-スミルゲルは少年ハンスのケースを通して、こうした可能性を示した。認識の際のこうした二種類のモードは、「ファリック・ロジック(男根期的論理)」と「ジェニタル・ロジック(性器期的論理)」とも呼ばれている(Gibeault 1988)。人間には本来一種類しかなく、一つの種類の性あるいは性器(ペニスあるいはファルス)しか存在しない、それが「ある」側と「ない」側が存在するだけだというのがファリック・ロジックであり、それに対して(単純な「ある」「ない」ではなく)異なる種類の性あるいは性器があると発想するのがジェニタル・ロジックである。前者の「ファリック・ロジック」的思考から出発すると、自他を含めた人間は「ファルスを持つ」かあるいは「去勢されている」か、「多い」か「少ない」か、「能動」か「受動」かといった軸で選別され分化されてゆき、すべてがそれに従ってオーガナイズされることになる。それは性の間にある違いを単純化しているがゆえに、認識の主体にとっては比較的心理的負荷が少ないかもしれない。けれども単純化であることには変わりなく、事態の歪曲は避けられない。それに対してジェニタル・ロジックは、男性性と女性性を(能動と受動といった認識でなく)「違い」として認識していく思考である。ではこの二つのうち、ジェニタル・ロジックの方が「高等な」思考であり「より成熟した」思考なのだろうか。論文の著者アラン・ジボーは必ずしもそうではなく、両者はわれわれの中に、無意識のロジックとして併存し続けているという。この論文は、精神分析ジェンダー論にかかわる論文集である『ジェンダーの謎』(Breen 1993)にも収載されているが、編者のブリーンもこの両者を、どちらに収斂するでもなく葛藤的なまま併存し続ける二要素ではないかと示唆している。
(北村婦美「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」 p.44-45)

 ちょっと話がずれてしまうし強引になるが、ファリック・ロジック的思考を認知リソースを節約する経済的なパターン認識(物事を一般性に還元する)とし、ジェニタル・ロジック的思考をそれとは反対に認知リソースをどこまでもが微細な差異の把握に全振りするタイプの認識(物事をその特異性の相でとらえる)と重ねてみることもできるかもしれない。しかしここで重要なのは、やはり、「どちらに収斂するでもなく葛藤的なまま併存し続ける二要素」という点だろう。似たような話として、たとえば、社会構築主義本質主義の対立もこの二要素、というか二段重ねで成立しているものと見たほうが、いろいろ実感に即している気がするのではないかとつねづね思うのだが、そういう中途半端さ、物事を度合いでみる見方というのは、だれもかれもが旗幟鮮明たれと踏み絵を迫る「分断」の時代にはなかなかけちょんけちょんにされがちだよなァ。
 キッチンに立つ。米を炊いて、豚肉とたまねぎと謎の葉物とニンニクをカットしてタジン鍋にドーン! してレンジでチーン! する。タジン鍋とスライスしたたまねぎの相性、これまでの経験上わりと最悪であるなというのがあったし、今後はもう買わなくてもいいやと思っていたのだが、冷蔵庫のなかにまだ半玉残っていたので、さてどうしたもんかとひととき考えたのち、みじん切りにしてニンニクやほかの調味料といっしょに豚肉にもみこんでしまえばどうだろうと思ってためしてみたところ、これが正解でめちゃくちゃうまかったので、明日(…)でまた一玉か二玉買ってしまうかもしれん。
 食後、ベッドに移動して『精神分析にとって女とは何か』の続き。それから20分の仮眠。覚めたところでコーヒーを淹れ、2022年1月28日づけの記事の読み返し。(…)先生とふたたび病院をおとずれて気胸の検査をしてもらった日。すっかり忘れていたのだが、胸膜炎のおそれがあるという診断が下されたのだった。

ふたたび病院へ。CTの診察結果を受けとったのだが、前回と内容が変わっていた、というか前回は肺のレントゲンを撮影した結果、左側が気胸という診断だったのだが、CTによるより厳密な今回の検査の結果、右側が気胸、左側もおそらく気胸、それにくわえて胸膜炎というふうにレベルアップしていた。は? 胸膜炎? とびっくりした。軽度の気胸なんてどうせ自然治癒するものだろうし、今日の検査はもう受けなくてもいいかもなどと早朝はたいそう余裕ぶっていたわけだが……。もしかしたら入院が必要になるかもしれませんと(…)先生((…)先生の旦那さんは過去に胸膜炎をわずらっていたことがある)。CTによる診察結果の印刷された紙切れを携えてあらためて肺と胸の専門医による診察室をおとずれた。そこで医者の説明を聞いたのだが、胸膜炎は現在進行形のものではないとのこと。過去に肺の病気か怪我をしたその名残みたいなものが胸膜炎として(AIによって? CTの担当者によって?)診断されたらしい。とりあえずひと安心。しかしその肺の傷? 障害? 後遺症? によって気胸の発症しやすい状態になっていることは間違いないという。過去に肺を病んだ記憶はない。ただ京都時代に何度かひどい咳風邪みたいなものにかかったことはあるので、そのときに派手に痛めてしまったのかもしれない。タバコを吸うかどうか聞かれたので吸わないと答えたが、そのとき同時に、あ、(…)のタールは関係あるのかな、と馬鹿なことを考えた。結論としてはこれから一ヶ月運動禁止。そして一ヶ月後に再検査。それまでのあいだに悪化するようであればすぐに病院に来なさいとのこと。しかしこの時期にコロナでないかたちで肺を病むというのはなかなかでないか? あまのじゃくにもほどがある。

 ここで一ヶ月後に再検査に来るようにといわれているのだが、その後なんともなかったので、再検査には結局行っていない。三週間ほど前に(…)といっしょにmedical checkを受けたときに肺のレントゲンは撮影しているわけだが、そのときにもやはりなにも言われなかったことであるし、ま、問題ないでしょう。ただ、自然気胸は再発率がかなり高いというし、症状のあるうちは飛行機に乗ることができなくなるので、夏休み中に再発みたいな間の悪さだけはマジ勘弁してくださいという感じ。
 あと、この日も(…)先生からいろいろ昔話を聞いている。その内容もおもしろかったので引いておこう。

診察室前のベンチに腰かけて順番を待っているとき、(…)先生の昔話を聞いた。小学生のとき、授業中に手紙の回し合いをしているのが担任教師に見つかり、職員室に呼び出されて叱られた。いまの彼女からは考えられないことだが、幼い(…)先生は売り言葉に買い言葉でおおいに反論した。結果、このままだと残りの小学校生活のあいだじゅう教師からずっといじめられることになると危惧した両親によって別の小学校に転校させられることになったという。転校した先の小学校というのが金持ちばかりだった。(…)先生はそこではじめてじぶんの家がそれほど裕福でないと気づいた。クラスメイトの女の子が一着200元のセーターを着ていることになによりも驚いた。そのとき(…)先生が身につけていた衣服全部合わせても100元に満たないくらいだったから。

中学受験には失敗した。結果いちばんレベルの低い学校に通うことになった。当然成績はクラスでも常にトップ。その後進学した高校はかなりレベルの高いところだった。(…)先生の成績は下のほうだった(とはいえ最終的には(…)大学に進学したのだからたいしたものだ)。(…)先生は数学がずっと苦手だった。高校時代の同級生はだいたい北京や上海のような大都市や海外で生活しているという。じぶんのように(…)に残っている人間はほとんどいない。

(…)中国にも振り込め詐欺のようなものがあると(…)先生はいった。犯人はだいたいベトナムラオスに住んでいる中国人なのだが、コロナに罹患するのがおそろしいあまり、自首するかたちで中国に帰国したというケースがいくつかあったらしい。ぼくはWhatsAppでぼくをひっかけようとしてきた中国人に日本人のふりをするのであれば簡体字ではなく繁体字をちゃんと使えと指導したことがありますよというと、(…)先生は笑った。

出会い系の詐欺みたいなものもあるんですかという質問には、あるという返事。one night standの関係をにおわせておいてみたいな感じらしい。あとは農村に住んでいるインターネット事情にあまり詳しくはないひとをターゲットにした詐欺もけっこうあるという。旦那から暴力をふるわれている妻であったり同居家族との関係がうまくいっていない人物であったりに親身に寄り添って信頼を得ておいてから——みたいなパターン。ちなみに、中国における結婚可能な年齢は男性が22歳で女性が20歳とのこと。しかし(…)の農村のほうにいけば、いまでも16歳かそこらで結婚している女の子はいるし、そういう土地では女性に教育は必要などないという考え方が支配的だとのこと。女の子が生まれたらそれをよそに売り飛ばすみたいなケースもまだある。(…)省は中国のなかでも男尊女卑のかなりきつい地域だという。やはり内陸だからですかねとたずねると、海沿いでもそれこそ広州にあるなんとかいう都市はやはり男尊女卑の風潮で悪名高くてみたいな話があったので、日本でも九州なんかはいまだにかなり男尊女卑が強いみたいですねと受けた。たとえば昨日、(…)先生は親戚一同で食事をともにする年饭に参加したわけだが(総勢30人ほどの会だったらしい)、(…)先生の親友が住んでいる(…)省のとある農村では、その年饭の際、男たちはいっさい働かず飲み食い、女たちはそんな男たちとは別に椅子にすら座らず立ち働きながら食事をとるという風習があるというので、何年くらい前だったか、それこそ九州の男たちは葬式でも正月でも盆でも飲み食いするだけして準備も片付けもぜんぶ女たちにさせるという話が批判的な文脈でバズっていたなと思い出した。ちなみに(…)では春節の一日目にはゴミを出してはいけないしお金も使ってはいけないという風習があるらしい。要するに、その日家の中にあるものをいっさい外に出してはいけないというわけなのだろう。また、(…)先生の旦那さんの実家がある土地では、春節の第一日目は、ご近所さんを順にめぐるという風習があるという。あいさつしてお茶だけ飲んで、では次のお宅へ——というのをくりかえすらしい。

 ちなみに、この日の夜、風邪の症状に見舞われている。そしてその後、その後遺症としておよそ二週間、味覚と嗅覚を完全に失うことになる。当時はまだゼロコロナ全盛期であったし、都市部であればまだしも(…)のような田舎では感染者がいるはずもなく(そもそもこちらも含めて道ゆくひとたちはだれもマスクなど装着していないというくらい平和な状況だった)、だからコロナであることはまずないだろうと可能性から除外していたわけだが、2023年1月現在、周囲がことごとく感染しているにもかかわらずひとり無事なじぶんを思うたびに、あれ? もしかして実はあのとき感染してた? それだからおれまだ無事なの? とうっすら思わないこともない。

 母からLINEが届く。以前の職場の課長だか係長だったかが脱サラして(…)のそばでカフェをはじめたという話。(…)と一緒にいってケーキを食ってコーヒーを飲んでしてみたが、なかなかうまかったとのこと。20時になったところで授業準備。日語会話(二)の第17課。作業中は『Ahem』(Ahem)を流しつづける。途中、入浴やストレッチをはさみつつ、23時に完成。しかしこれはちょっと雑になってしまったかもしれない。特に応用問題が弱いので、また時間があるときにそこだけ考えなおしたほうがいいかも。
 腹筋を酷使し、プロテインを飲み、餃子をかっ喰らいながらジャンプ+の更新をチェックする。そのまま今日づけも途中まで書く。2時になったところで作業を中断し、歯磨きをすませてからベッドに移動して、『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子・編著/北村婦美、鈴木菜実子、松本卓也)の続き。