20230303

 私は霊安室の向かい側に十年ほど住んだから、泣き声の中で成長したと言っていい。病死した人は火葬される前に、わが家の向かい側の霊安室で一夜を過ごす。霊安室は、死の世界へ向かう客を静かにもてなす旅の宿だった。
 私はしばしば夜中に突然目を覚まし、肉親を失った人の悲痛な泣き声を耳にした。十年間、この世のあらゆる泣き声を聞いているうちに、それが単なる泣き声だとは思えなくなった。特に明け方の泣き声は長々とやむことがなく、心に突き刺さる。言葉では語れない親しみ、痛みを伴った親しみが込められている。私は一時期、これこそ世界でいちばん感動的な歌だと思っていた。そのとき私は、大多数の人が暗い夜に世を去ることを知った。
 当時の夏の暑さは耐えがたく、いつも昼寝して目を覚ますと、汗が体の形をくっきりとゴザに残していた。噴き出した汗で、皮膚がふやけていることもあった。
 ある日、私は誘われるように、向かい側の霊安室に足を踏み入れた。炎天下から急に、ひっそりした月の夜に場所を移した感じがした。何度も霊安室の前を通っていたが、足を踏み入れたのは初めてだった。霊安室は、とてもひんやりしている。私は清潔なコンクリートの床に横たわり、すがすがしさを味わった。花が咲き乱れる夢の世界に浸ることもできた。
 私は文革時代に育ち、当時の教育によって徹底した無神論者となった。霊魂の存在も信じないし、幽霊を恐れることもない。だから霊安室のコンクリートの床に寝ても、それは死を意味するものではなかった。酷暑の夏に、涼しさを求めただけのことだ。
 バツの悪い思いをしたこともある。霊安室の床で眠っていたとき、突然泣き声が聞こえてきて、私は目を覚ました。死者が到着したのだ。泣き声がだんだん近づいてきたので、コンクリートの床の臨時の客である私は慌てて逃げ出し、主人である死者に場所を譲った。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 10時半にアラームで起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。第五食堂で打包して食事。(…)くんから微信。DCTの調査結果をあらためて分類しなおしているのだが、じぶんには判断できない箇所があるので、そこの判断をお願いしたい、と。以前いちどこちらがすべて分類しているわけだが、その分類項目自体が変更された結果、このような二度手間が生じることになったわけだ——しかし、それはそれとして、彼の寄越した資料にざっと目を通してみたところ、彼が未分類としている結果のなかにはあきらかに調査者である彼自信の意図に即してその結果が有効であるか無効であるかを判断すべきものが複数まぎれこんでいる、言い換えれば、調査者当人でないこちらには回答結果が日本語表現として正しいか否かこそ判断できるものの、その判断結果を考察に必要なデータとして取るべきか捨てるべきかの判断はできないものがある。この点については、これまで彼と何度となく議論してきたはずであるのだが、いまだにこちらの指摘を理解できていないのだろうか? 理解できていないのだとすれば、そもそも彼はじぶんがどういう手法でどういう研究を進めているか、それすらわからずほとんど盲目的に論文を書き進めていることになるわけなのだが、マジでだいじょうぶなんだろうか? それでその点を指摘した。(…)くん、こちらの指摘をいちおう理解できたようであるが、マジで卒業できるのか? 本当にわかっているのか? と不安になるし、あいまいな理解のまま、これもお願いしますあれもお願いしますと結果的に二度手間三度手間になるだけの仕事をまかせられている現状に対してイライラしもする。とりあえずデータの分類については、あきらかな誤用であるものだけマークをつけて返却したのだが、うーん、どうなるんだろう? 10日が提出期限であるという話であるけれども、本当に間に合うのだろうか?
 分類を終えると13時。そのまま午後の授業準備にとりかかる。それからきのうづけの記事の続きをほんのちょっとだけ書き進める。おもては晴天。最高気温も20度あるようだったので、授業後には学生といっしょに夕飯を食べにいく約束もあるし、だったら自転車ではなく徒歩で外国語学院まで向かうことにするかと考える。それで寮を出る。日差しがきついのでひさしぶりにサングラスを装着する。まずは第五食堂まで出向き、一階の売店でミネラルウォーターを買う。それで外国語学院にむけて歩き出したのだが、教室にむかう学生らの人波がなかなかうっとうしかったし、時間がおもっていたより押しているふうだったので、やはり自転車で向かうことにしようといったん寮にもどった。
 それで自転車にのって外国語学院へ。教室では大きなボリュームで音楽が流れている。日本語の楽曲。教卓のコンピューターを見ると、その音楽の再生画面が表示されていたのだが、ヨルシカとあり、あ、これは以前(…)くんが好きだといっていた日本のバンドだなと察する。再生していたのは当然その(…)くん。サングラスを装着していたからだろう、(…)さんが、先生かっこいいですね! というので、あっりがっとごっざいま〜す♪と拍子をつけて応じる(これは(…)の同僚であった(…)さんの口真似であるわけだが、そんなこと当然うちの学生は知らないし、(…)さんだってまさかじぶんの口真似をこちらが異国の地でしているなんて思ってもみないはず)。
 そういうわけで14時半から(…)一年生の日語会話(二)。新入りである(…)さんの名前の日本語読み「(…)」を紹介。それから天気の話。予報によれば、来週はずっと最高気温20度以上の日が続くし、9日(木)にいたっては27度に達する模様。あたたかいね、幸せだね、というと、夏! 夏! もう夏! と学生たち。で、出席をとって第9課開始。かなりうまくいった。最初から最後まで始終テンション高くやれた。ただ、例によって脱線がいちじるしいというか、いや脱線自体は全然問題ない、生きた日本語でやりとりするきっかけになるのだから教科書ベースよりもよほどためになると思うし学生らの記憶にも残ると思うのだが、そのいちじるしさが問題であり、もっといえば、換喩的に横滑りしつづけるじぶんの連想力が問題なのだと思う。教科書に即したやりとりを学生らとやっているだけでも、とあるワード、とあるシチュエーションがフックとなり、「そういえばね!」とついつい予定になかった話をはじめてしまう、もうこれはじぶんの生理のようなものだと思う、雑談や世間話というものを最大の娯楽として過ごしてきた人間の業であると思う。それでいえば(と、またここではじめてしまうわけだが!)、以前、(…)と奥さんがいっしょに暮らしているアパートを(…)とそろってたずねたとき、(…)が、地元のツレたちはパチンコとキャバクラくらいしか娯楽がない、おれはただだらだら世間話したいだけなのに連中はそういうのを好まない、それでしかたなくパチンコ店にはついていくのだが、ギャンブルには興味がないので休憩所でスマホゲームをしたり、パチンコを打っている友人のとなりにすわってしゃべったりしているのだと言っていて、そうか、あのクソヤンキーであっても結局そういうタイプなんだよな、こちらにしても(…)にしても(…)にしても(…)にしても、小学校時代からの付き合いであるとはいえ属性がなかなかバラバラであるにもかかわらずこうして関係が継続しているのは(といっても(…)とはほぼ切れてしまっているが)、だべることを好む、たむろすることを好む、ファミレスでもコンビニでも駅でもカラオケでもなんでもいいのだが、とにかくしゃべる、しゃべりつづける、それこそを娯楽として生きてきた人間であるという共通点があるのかもしれんなと思ったのだった。もう何年前になるのか、前回東京をおとずれたときも、(…)さんや(…)さんとメシを食ったその翌日だったろうか、(…)くんと(…)くんといっしょに夜、和食屋でラーメンか何か食っていて、便所にいくために外していた席にもどった瞬間、(…)さんほんとめちゃくちゃしゃべりますよね、いまもずっとそのことを言っていたんですよと言われ、あれはけっこうはずかしかったのだが、でもほんと、友人と会うとなったとき、ボーリングとかダーツとかビリヤードとか、あるいはトランプでもウノでもいいんだが、そういうゲームをしたいかと言われたら全然そんなことなく、というかそんな暇あったらだべろうぜ! みたいなノリが、もしかしたらこれまでこちらが親しくしてきた人間との暗黙の了解としてあったかもしれない。中国でも同じだもんな。仲が良くなった学生となにをしているかといえば、散歩と食事と雑談だ。それ以上の娯楽、逆にあるか?
 そういうわけで授業中もついつい脱線してしまう。その脱線に目を輝かせる学生たちがいることもわかっている。だから脱線自体は全然悪くないのだが、時間をかけて用意した教材やゲームを使う機会がそのせいで失われてしまう、そういうときおれはなぜじぶんでじぶんの首を絞めているのかと思う瞬間もないことはない。そもそも第9課は、こちらの事前予測ではけっこうボリューム不足であり、しかるがゆえに授業後半でおこなう予定だったアクティビティだけではもたないだろうというアレから、第9課の内容とは直接関係のない別のアクティビティまで用意してあったのだが、当然そんなものの出番はない。授業前に配布した資料にしてもA4用紙二枚きりで、先生、たったこれだけですか? と(…)くんも驚いていたくらいなのだが、実際それでも時間が足りないくらいだった。最初から最後までずっと盛りあがりっぱなしだったので、結果オーライではあるのだが。
 授業後、事前の約束通り、(…)くんと(…)くんと食事。(…)くん、なぜかスタバに行きたいとしきりにくりかえす。中国のスタバは高い。学生は金もないだろうし、そもそもコーヒーを好んで飲むわけでもないし、それだったら瑞幸咖啡でいいじゃんと思うわけだが、かたくなにスタバ! スタバ! と言い張る。たぶんだが、外国人といっしょにスタバでまったりする、そういう状況に対する一種の背伸びしたあこがれみたいなものが働いているのだろう。それで自転車は外国語学院に停めたままにし、(…)まで歩いていくことにする。後ろから(…)さんと(…)さんのふたりが「(…)せんせー!」と叫びながら駆け足でやってくる。ふたりはこれから后街で買い物をするという。きみたちもいっしょに(…)に行くかというと、(…)くんが、三人だけの世界! 三人だけの世界! と言って、女子ふたりを排除する。外教をなるべく少ない人数で独占しようとするこのふるまい、これまで何度目にしてきたかわからない。(…)くんに別れた彼女の話をふる。夏休みに再会する約束をしているんでしょうというと、もう終わったと(…)くんが代弁する。再会の約束も結局流れたらしい。完全に関係が終わったということだ。しかしいまは別に好きなひとがいるという。英語学科の三年生。学生会で知り合ったとのこと。(…)くんが学生会に所属しているときくのは初耳だった。クラスの男子学生でいうと、(…)くんも学生会に所属しているという。
 ふたりは一年生なので地理に疎い。それゆえピドナ旧市街の北門を出たあとは右折する必要があるところを左折してしまう。あれ、ここ右折じゃないか? とこちらは一瞬思ったわけだが、方向音痴のひどさには定評のある男なので、あまり深く考えずにそろって左折してしまう。后街の入り口で買い物に向かう女子二人がパーティから離脱。残った三人で道なりに歩き、交差点を右折し、建設中の西門の前を通る。道中はふたりからひたすら質問攻め。進撃の巨人は好きか、鬼滅の刃は好きか、デジモンは好きか、と。中国におけるデジモン人気はなんなんだろうと毎回思う。デジモンのアニメ、あれはたしかこちらが中学二年生か三年生のころ夕方放送していたもので、だからもう二十年(!)も前になるはずなのだが、こっちで日本語を勉強している学生はけっこうな確率で知っているし、さらに主題歌をカラオケで毎回歌おうとする。この道中も(…)くんがスマホデジモンのオープニング曲を流しながら口ずさんでいて(当然歌詞はすべて暗記している)、彼はどうも日本の音楽がかなり好きらしい。アニメの知識自体は(…)くんのほうが豊富なようす。(…)くんはイラストを描くのが好きであるし、それ相応にファッションにこだわりがあるらしい(…)くんとくらべて外見もややおとなしめで、だからオタク濃度は彼のほうが高いということなのだろう。
 道中、四年生の(…)くんから微信。先週にひきつづきカフェの誘い。これは断らざるをえない。明日は二年生の(…)さんから食事の誘いがあるのだろうが、それも今日のこのあとにひかえているできごと次第では断らざるをえないのだろうなと思う。なにごともなければその分日記も簡潔にすませることができるが、なにごとかが生じれば当然長くなる。
 (…)にようやく到着する。(…)くんは18時から学生会の会議があるという。時刻はその時点ですでに17時前。そうであれば急いでメシを食わなければならないし、帰路はタクシーを利用する必要もある。にもかかわらず(…)くんはここでもスタバ! スタバ! と騒いで、どんだけスタバにあこがれがあんねん! なに食う? なに食う? と話しながら館内に足を踏み入れようとしているタイミングで、学生会の会議がなくなった! と(…)くんがいう。これで急ぐ必要はなくなった。食後のコーヒーも彼の希望どおり飲むことができる。
 エスカレーターで五階へ。もしかしてと思っていたが、予想通り、日本料理屋で食べることになった。日本料理とうたっているが、実際は日本風のカレーやオムライス——どちらもおそらくレトルトだと思う——をあつかっている店で、こちらは都合これで三度目の来店になる(初回はすでに卒業していた(…)さんとふたりで、二度目は(…)さんと(…)さんの三人で)。メニュー表のおもてはカレーとオムライスからなる日本料理のメニュー、裏はキムチやビビンバを中心とする韓国料理のメニューになっているはずが、なぜかメニューはそのままであるにもかかわらず韓国料理が内モンゴル料理ということになっていた。あ、これたぶん愛国仕草だな、と察した。キムチの起源論争みたいなしょうもないアレも近年あることであるし、そういう方面でクレームが入ったか、あるいは入らないうちに大事をとって変更したのだな、と。クソくだらんなほんま。
 正直この店には飽き飽きしているのだが、学生ふたりは「日本料理」に興味津々のようすであるし、主役は彼らなので、じゃあまたレトルトのカツカレーでも食うかと決めて店に入る。ふたりがけのテーブル席を店のスタッフがくっつけて四人がけにしてくれる。ソファ席に学生ふたりを座らせ、こちらは椅子に腰かける。正面に(…)くん、右斜め前に(…)くん。コスプレ! コスプレ! とふたりが声をひそめながらいう。空席をひとつはさんだこちらの左となりのテーブルの、ソファ席のほうに男女がならんで腰かけてメシをくっている、その女性のほうがたしかにアニメかゲームのキャラのコスプレをしている、水色のウィッグをつけてメイド服みたいな服を着ている。イベントでもなんでもない街中でこういうのを見かけるのはめずらしいなというと、学生らは別にめずらしくないという。そうか? 漢服やJKファッションはたびたび見かけるが、こういうゲームやアニメのキャラのコスプレを街中で見かける機会は、大都市であればそうでもないんだろうが、ここ(…)では滅多にないと思うのだが。学生はふたりともコスプレ女子に興味津々のようす。恋人かな? 恋人かな? とふたりの関係を推測する。あんまり見ていては失礼だと(…)くんが自分自身に言い聞かせるようにいう。
 オーダーする。こちらはカツカレー。カレーと辛いものが苦手な(…)くんは唐辛子の入っていないビビンバとたこ焼き、辛いものが大好きな(…)くんは辛味の強いビビンバをオーダー。「おとこのこ」かもしれないとコスプレ女子について(…)くんがふたたび言及する。「おとこのむすめ!」と続けてみせるので、日本語学科の宅男たちはほんと変な言葉ばっかり知ってんなと苦笑するわけだが、(…)くんは男の娘が好きだという、興味があるという。それは性的対象として見ているということなのだろうかと思っていると、実はかつて女装したことがあるという打ち明け話があった。ぜったいだれにも言わないでほしいという。それで写真も見せてもらったのだが、ピンク色のウィッグをつけてメイド服を着ているもので、マスクで口元を隠しているし目元は化粧かアプリでがっつりいじっているふうであるけれども普通にクソ美人で、マジか! めちゃくちゃかわいいじゃん! と言った。高校三年生のときに撮影したものだという。卒業生の(…)くんの女装写真もめちゃくちゃ美人だったなと思い出した。名前は伏せたまま、卒業生でゲイの男の子がいたのだけど、彼の女装写真はすごかったよ、クラスのどんな女子よりも美人だったから、後輩たちからいちばんの美人と呼ばれていたよというと、(…)くんは興味津々になり、写真を見せてほしい! 連絡先を教えてほしい! といったが、さすがにそれはプライバシーのアレからできない。しかし(…)くん、日本語学科の男子学生の割にはファッションや髪型に気を遣っているし、モーメンツに自撮りを投稿することも多いし、瞳がつねにキラキラうるうるしているし、こっちで知り合ったゲイの特徴をいわば全部おさえているわけで、そうなんじゃないかなァとこれまで何度か思ったことがある、彼女がいるという話も本当は彼氏なんではないかとか、あるいはバイなのかもしれないなとか、なんとなくそんな気がしていたのだが、今日の打ち明け話でますますそうなんじゃないかと思うようになった。まあ彼にそのつもりがあるのであれば、これまでの学生たちがそうであったように、いずれなんらかのタイミングでこっそりこちらにカミングアウトするだろう。
 いったいどういう流れからそういう話になったのか忘れたが、その(…)くんが突然、先生、ぼくはおもしろい日本語を知っていますよ、みたいな前置きに続けて、小声で「ちんぽ」と口にした一幕があった。(…)くんも当然知っており、ふたりしてケラケラ笑うので、ぼくもおもしろい中国語を知っているよと応じてから、やはり小声で鸡吧と口にすると、ふたりともびっくりした顔になり、先生! 小さい声! 小さい声! とあせったのち、ゲラゲラ笑いはじめた。これも知っているよと言ってから、打飞机とささやくと、やはりふたりともゲラゲラ笑い、変態先生! どうして知っていますか! というので、君たちの先輩が教えてくれたんだよと受けると、その先輩はだめです、悪い先輩! というので、でもいまその先輩は北京で大学院生をしているよ、とても優秀だよと言った。
 食事をすでに半分ほど終えたタイミングだったろうか、コスプレ女子とその連れ合いの男がわれわれのテーブルのほうにやってきた。あ、連絡先交換のパターンね、とおなじみのシチュエーションの到来を察するこちらをよそに、男子ふたりはけっこうびっくりしたようす。ふたりは中国語でなにか口にした。先生のWeChatを知りたいといっていますというので、いいよいいよと受けると、でも知らない人だよ、先生だいじょうぶというので、よくあることだよ、(…)には外国人が全然いないでしょ、だからカフェやレストランでこうやって声をかけられることはよくあるからと受ける。コスプレ女子とツレの男のふたりはやはりわれわれが日本語で会話しているのをきいてアプローチをしかけてきたらしかった。できればそのまま会話にまざりたいといっていると学生ふたりがいうので了承し、じゃあきみたちは今日通訳の練習だな、いい勉強になるよと学生ふたりに発破をかけた。コスプレ女子と男の子はこちらの左側のテーブル、そのソファ席のほうに並んで座った。男子は細いフレームのめがねにワークキャップ、首にはごついヘッドフォンを装着しており、コスプレではないんだろうがやはり普段中国ではあまり見かけないタイプの服装をしており、たぶんゲイであるなと思った。ディープなオタク女子と線の細いオタク男子のペア、これまでたくさん見てきたが、恋人かなというくらい距離が近い場合、たいてい男のほうがゲイで、恋人ではなく親友同士であるパターンが多いのだ。だからこのふたりもそうだろうと思った。名前はのちほど聞いたのだが、記述の便宜のために先に書いてしまうと、女子のほうは(…)さんで、男子のほうは(…)くん。(…)さんは現在高二、(…)くんは高一とのこと。(…)さんはマスクで鼻と口元を覆っていたのではっきり顔はみえなかったが、ふたりとも実年齢よりもずっとおとなびてみえた、なんだったらうちの学生よりも年上にみえた。
 まぜてほしいといったわりには、なにか話しかけてくるわけではない、質問がよこされるわけでもなくただじっとしている。ふたりともあきらかに宅男宅女であるわけで、コミュニケーションは得意なほうでないのだろう、ましてや相手は外国人である、しかしそこでなけなしの勇気をふりしぼって声をかけてきたわけであるから、ま、こちらが歓待するのが筋なのだろうというわけで、それはなんのキャラのコスプレなの? というところからはじめて、ふたりにいろいろ質問をした。通訳は(…)くんががんばってくれた((…)くん、かわいいコスプレ女子がとつぜんじぶんの隣に座ったことにけっこう緊張しているふうにみえた)。これはたぶん日本語学科の学生にかぎらず中国の若者全般にいえることだと思うのだが、じぶんは「社交恐怖」だと自称する子がかなり多い。これ、日本の若者らがカジュアルに口にする「コミュ障」とほぼ同義だと思うのだが、今日声をかけてきたこのふたりもあきらかにそれだった。ふたりとは反対に、(…)くんはのちほど、じぶんは全然そんなタイプではない、社交は得意だといっていたが、そのわりにはこのとき率先してふたりに話を向けるわけでもなかった。それでちょっと(…)くんや(…)さんや(…)さんのことがなつかしくなった、彼女らであればこういうとき新規パーティメンバーが緊張しないですむようにリラックスできるように率先して場を取り仕切ってくれただろうに。
 (…)さんがコスプレしているのは日本のアニメキャラだという。こちらはアニメにうといので全然わからんわけだが、(…)くんも知らないという。スマホでそのアニメの画像も見せてくれたが、全然わからん(中国語タイトルも見せられたが、やっぱり知らん)。いまから6年だか8年だか前のアニメらしい(しかし(…)さんが視聴したのは最近のこと)。衣装はじぶんで作っているのとたずねると、買っているとのこと。今日着ているものは淘宝で400元だったという。高校で日本語を勉強しているのかとたずねると、していないという返事。だったら英語は? と水を向けると、(…)くんのほうがjust a littleと応じてくれたが、うーん、日常会話ができるレベルではなさそう。
 (…)くんがまたスタバスタバと騒ぎはじめる。それでそろって店を出ることに。(…)さんと(…)くんもついてくる。エスカレーターに向かう途中、小さなクレーンゲームの筐体が七つか八つならんでいる一画があったのでちょっとのぞいてみたところ、竈門炭治郎のパチモンらしいキーホルダーがあったので、(…)さんを呼んで指差してみせる。(…)さん、なにか言う。学生によれば、以前『鬼滅の刃』のコスプレをしたことがあるらしい。どのキャラクターとたずねると、百度の検索画面に打ち込んだ文字列を見せてくれる。時透無一郎。霞柱だ。女子人気がすごく高いという評判をたしかに聞いたことがある。
 エスカレーターで一階におりる。スタバに入る。いつものように美式咖啡を注文。(…)くんはなんかフラペチーノとかそういうあまいやつを注文。あとの面々はなにもオーダーせず。店内中央に設置されている、背の低い長机に着席する。こちらの右手に(…)さん、そのさらに右手に(…)くん。こちらの正面に(…)くん、向かってその右手に(…)くんという位置取り。ここでも結局こちらがホストにならざるをえない。ほかにどんなコスプレをしたことがあるの? 写真を見せてくれない? とお願いすると、(…)くんが先生! 失礼! という。いや、コスプレ趣味の子にコスプレ写真を見せてくれと頼むことは全然失礼じゃないでしょと思うのだが、そうでないんだろうか? (…)さん、過去のコスプレ写真をいろいろ見せてくれる(失礼だとなんとかいっておきながら(…)くんも(…)くんもちゃっかりのぞく)。先ほど教えてくれた時透無一郎のコスプレ、それからHUNTER×HUNTERのアルカのコスプレ(「アルカ!」とこちらが口にすると、(…)さんは对! と言った)、最後にこちらの知らない中国産ゲームの有名キャラのコスプレ(男子ふたりはすぐに反応した)。今日コスプレしているのはなにかイベントがあったのか、それとも普段からコスプレしていることが多いのかとたずねると、今日この衣装が届いたばかりだ、だからせっかくなので着用して外に出てみたとのこと。(…)でもコスプレイベントはあるのかという質問にはあるとの返事。参加者はだいたい100人ほど。これが(…)になると1000人以上になり、上海になると10000人以上になる。(…)さんの話をした。以前働いていたホテルの同僚で、やはりコスプレが趣味だという女の子がいた、彼女はコスプレするとき顔のメイクだけで三時間だか四時間だかかけると言っていたと伝えると、じぶんはまだメイクの技術が上手ではない、だから一時間ほどで完成すると(…)さんはいった。大学には進学するつもりなのかとたずねると、(…)くんは進学するつもり(化学専攻)だが、(…)さんは進学せず、そのかわりに独学でモデリングやイラストの練習をするつもりだという。「モデリング」と訳された言葉が具体的にどういうアレを指しているのか最初よくわからなかったが、話をきいているうちに、どうやらデザインのことらしいと察した。アニメ調のマスコットキャラクターであったり、ゆるキャラ的なものであったり、あるいは衣装であったりをじぶんでデザインすることに興味があるのだ、と。で、実際に彼女自身がデザインしたというケモナーっぽいキャラのクッションの写真も見せてくれた。デザイン案だけ送ったらそのとおりのクッションをこしらえてくれる、どうやらそういうサービスがあるらしい。服のデザインはおもしろいよね、ぼくもいつかじぶんでミシンで服を作ったりしてみたいんだよねというと、さきほど店で声をかけたきっかけはこちらの服がオシャレだったからだ、だから勇気を出してみたのだと(…)さんは言った。
 途中、学生がスマホの画面をこちらに見せた。桜の写真だった。(…)? とたずねると、肯定の返事。クラスメイトたちがいまちょうどおとずれているらしく、それで写真をモーメンツに投稿しているという。(…)さんと(…)くんのふたりもついさっき(…)にいたといった。そこで桜をみるつもりだったのだが、あんまり咲いていなかったという。コスプレといえば、卒業生の(…)さんがコスプレ大好きで、(…)のイベントにも毎年参加していたはずであるしその写真もしょっちゅうモーメンツにあげていたので、それを見せてあげようと思ったのだが、モーメンツの閲覧設定が過去三日間になっていたので記録をさかのぼることはできなかった。
 学生ふたりがそろそろ帰りましょうと言い出した。19時ごろだったと思う。便所で小便だけして店を出た。広場に出る。(…)さんも(…)くんもあとをついてくる。われわれが大学にもどることをふたりは知っているのだろうかと思っていると、(…)くんが中国語でふたりになにやら告げた。するとふたりはその場からゆっくりと立ち去った。バイバイと手をふる。
 (…)くんが后街に行きたいという。快递で荷物をひきとる必要があるのだという。それで(…)公园の中を通り抜けるルートで大学のほうにもどる。さっきのふたりはカップルだったのかなと(…)くんがいうので、男の子のほうはたぶんゲイでしょというと、ええ!? とびっくりしてみせる。(…)くんのほうはさほど驚かない。それどころか、ぼくもそんな気がしますと続けてみせるので、それがわかるということはやっぱり(…)くんもそうなんだろなとあらためて思う。ちなみにひとつ書き忘れていたが、(…)くんは夏目漱石の小説を読んでいるとのことだった。高一で、理系で、それにもかかわらず海外の小説を読み、『我是猫』をおもしろいといってみせる、これってなかなかのもんなのでは? 高一のときなんてこっちはジャンプと刃牙しか読んでねーよ!
 ネオンでいろどられている噴水広場を抜ける。スピーカーからでかいボリュームで音楽が流れている。演歌っぽい曲調。これ有名な歌なの? とたずねると、ジャッキー・チェンですよと(…)くん。ジャッキー・チェン! 歌もうたっているのか! ちなみに楽曲のタイトルは「国家」とのこと。ま、愛国讃歌のプロパガンダというところだろう。
 公園の外に出る。たばこを吸いますかと(…)くんがいう。吸いたいのであればいま吸えばいいよというと、その場で一本くわえて火をつける。日本語学科の学生でたばこを吸っているひとはめずらしいねというと、そうでもないですよという返事。高校の時からたばこを吸っているひとはたくさんいましたというので、あ、日本語学科はほとんどが女子だからそういう印象があったのか、男子学生はやっぱりひとなみにたばこを吸うんだなと認識をあらためた。先生はたばこを吸わないのですかというので、吸わないね、でも大麻はむかし吸っていたよとぶっこんでやる。大麻? とはてなという表情を浮かべてみせるので、中国語読みして伝えると、(…)くんも(…)くんもぎょっとなる。中国だと死刑でしょうとたずねると、死刑か終身刑! と(…)くんがいう。五十年かもしれません! と続けてみせるので、五十年って! ぼくもしいま捕まったら八十七歳だよ! というと、ふたりとも笑った。日本では死刑がありますかというので、あるよと応じる。殺したら死刑ですか? 殺人は死刑ですか? というので、一人殺しただけで死刑ということはあんまりないんじゃないかなと、ふたり殺してひとりに重傷を負わせたものの十数年で外に出てきた(…)さんの例を思ったが、でもあれは時代が時代であるし、さらにいえばヤクザ同士の揉め事であるのだからサンプルとしてはちょっと不適切か。まあ二人か三人殺したら死刑にはなるんじゃないかなというと、ふたりともけっこう驚いたようすだった(そのおどろきというのはどうやら一人だけであれば殺しても死刑にならないことがあるという事実にむけられた驚きのようだった)。
 このあたりから(…)くんの口数がぐっと減りはじめた。もう歩き疲れているのだった。週末の夜ということもあり、后街はごった返していた。路上の物売りもたいそう多い。時刻は20時前。こんな時間に快递は営業していないでしょうと思ったのだが、(…)くんは20時まで営業しているという。それでふたりがいうところの「エロいホテル」がたちならぶ通りを歩いてくだんの快递に向かったのだが、やはり閉まっていた。先生、学生たちは恋人といっしょにこのホテルに来ますよとふたりがにやにやしていうので、だいじょうぶかな、(…)さんが彼氏といっしょにいまここを歩いているかもしれないよ、もし会ったらどうしよう? 見なかったふりをして逃げたほうがいいかな? というと、先生! 変態! 想像力の変態! と(…)くんは言った。
 老校区に入る。このあたりに(…)先生が住んでいるよと、先日の散歩の際に(…)さんと(…)さんに教えてもらった情報をふたりにも伝える。そのまま外国語学院へ。地下通路を抜けて新校区にある寮にもどるふたりとはそこで別れる。自転車にのってこちらはいったんピドナ旧市街の北門に向かい、横断歩道を渡り、その先の南門から新校区へ。
 帰宅。さすがに疲れる。こりゃあ明日半日は日記でつぶれるな、(…)さんから誘いがあったとしても先週にひきつづき断らざるをえんなと思う。ベッドにぶっ倒れてひととき休憩する。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、きのうづけの記事の続きにとりかかる。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年3月3日づけの記事を読み返す。2021年3月3日づけの記事から引かれている以下のくだり、古井由吉のテクニックについてであるが、これけっこう使えるなと思った。

古井由吉「里見え初めて」「陽に朽ちゆく」「杉を訪ねて」と読んだ。改行をはさんだうえで主語抜きの「〜していた」という一文を続けるテクニックもなかなか曲者だ。まず改行+主語の省略によってそれがだれの行為であるのかわからない。さらにその「〜していた」というのが過去のことであるのか、それとも先の段落から時間経過して「いつのまにか」「気づけば」が省略されたうえでの「〜していた」であるのか、たえず自失する作品のなかではやはり一読しただけでは見極めがたい(前者とみせかけて後者、後者とみせかけて前者みたいなパターンもあることから、古井由吉が意識的にこのテクニックを使用しているのは間違いない)。

 それから2013年3月3日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。今日はたくさん歩いたのでそれで筋トレはよしということにし、プロテインを飲んでトースト二枚の食事をとる。すると時刻は1時半。さすがに今日づけの記事にとりかかる余裕はないので、とりあえず思い出せるかぎりのできごとややりとりをざっとメモ書きしておく。それから寝床に移動して就寝。