20230320

 我々の町の元紅衛兵たちは、そのころみな農村に送られ、苦難の日々を過ごしていた。文化大革命初期の混乱が収まったあと、毛沢東は厳しい現実に直面した。一九六六年以来、文革の動乱で、中学高校と大学は三年間、学生募集を行わなかった。そのため、全国の中学と高校の卒業生、千六百万人あまりが、進学と就職の待機状態にあったのである。これら毛沢東紅衛兵たちは、大規模な武闘と家宅捜索が得意で、ケンカや強奪が生活の一部になっていた。社会が相対的に安定したとは言え、中国経済は崩壊の危機にあり、都市部にさらに多くの就職の機会を作り出すことはできない。千六百万人の紅衛兵と知識青年は一日じゅうすることがなく、社会の不安定要素となった。
 毛沢東はこのような当時の難しい社会問題を解決すべく、さっと手を振って言った。
「知識青年は農村へ行き、貧農と下層中農の再教育を受けよ」
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 11時半起床。朝方に(…)くんから「ゲットdaze」とはどういう意味なのかとたずねる微信が届き、それで一度目が覚めたのだが、あとで返信すればいいやと二度寝したところ、いつのまにか質問が撤回されていた。「ゲットdaze」というのはたぶん「ポケモンゲットだぜ」のことだろう。なんでdazeとアルファベット表記になっていたのかは不明だが。もしかして夢だったのか? 夢といえば、二度寝のあとにかなりリアルな夢を見て、覚めたあとも三十秒ほどそれが夢であったことに気づかずぼうっとしたあたまで混乱し続けるということがあったのだが、内容はさっぱり忘れてしまった。
 朝昼兼用のメシは第三食堂の海老バーガー二個。打包しに出かける前、管理人の(…)から吃饭了吗? と中国語固有のあいさつ。第三食堂の店にしても第四食堂の店にしてもそうなのだが、注文してからハンバーガーが出てくるまでけっこう待ち時間がある。カウンターにもたれてKindleで書見。中国語の勉強をすると昨日決めたことであるし、いっそのこと今後書見は洋書に限定、日本語は授業と書き物以外禁止の外国語漬け生活を送ってやろうかなというわけのわからんプランが一瞬あたまをよぎった。
 帰宅して食す。ウォーターサーバーの水漏れ修復。ボトルの口を覆っているプラスチックの補強剤みたいなやつが死んだ樹皮のように一部べろりとめくれあがっていたのが原因。めくれあがっていたのを元にもどしてサーバー本体にセットしなおしたところ、無事水漏れがおさまった。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所巡回。2022年3月20日づけの記事の読み返し。以下の所感、基本的にはいまも変わらず抱き続けているアレであるのだが、それでも去年、白紙運動というプロテストがいちおうは起こったのだ。

 ロシアのニュースを見るたびにロシアはまだこれくらい自由なのだなと思う。腐っても民主主義の看板を標榜していた国ではあるのだ、と。これはたぶん中国にある程度かかわっている人間であればみな同様におぼえる所感ではないか。いや、ロシアも相当やばいことはやばいのだが(なんせ選挙がまともに機能していないし、政権に反対するものは続々暗殺される)、それでもインターネットは自由であったわけであるし、政権批判メディアも少数であれ存在していたわけであるし、抗議のデモも(ウクライナ侵攻以前から)たびたび起こる。今回の戦争に際しても、テレビしか見ない高齢者とネットで海外の情報に触れている若者とのあいだでずいぶん温度差があるというような報道をたびたび目にするわけだが、たとえば、中国はロシアと違って若い世代ほど盲目的な愛国馬鹿が多い(小粉紅なんて紅衛兵の再来でしかない)。選挙なんてそもそも存在しないし、政権に抗議の声をあげれば即精神病院で「治療」を受けるはめになるし、政権批判メディアは国内にまったく存在しないし、インターネットはGFWによって検閲されている。だから今回、ロシア国内のプロテストにまつわる記事を見るたびに、かなり暗い気持ちになる。他国の情報にまだ比較的アクセスしやすい環境の整っているロシアでさえプロテストが局地的にとどまっているのであれば、仮に中国が暴走したとしてもそれを食い止めようとする国内勢力にはほとんど期待できないだろうな、と。

 2013年3月20日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

それが言わんとするのは、語(ことば)の欠乏、それらが指す事物よりも数少なく、この経済のおかげで何ごとかを意味できるという、語の欠乏なのだ。もし言語が存在物(エートル)と同じくらい豊かであったとしたら、それは事物(もの)の無駄で無言な分身であるだろう、つまり存在なんかしないだろう。だがそれでも、事物はそれを名指す名がなければ、夜の中にとどまっていることだろう。言語というもののこのような、光明をもたらす欠落、それをルーセルは苦悩にいたるまで、そう言いたければ妄執(オブセッション)にいたるまで感じとったのだ。いずれにせよ、このようなむきだしの言語学的事実を明るみに出すためには、体験の実に特異な(実に「逸脱した」、すなわちひとを戸惑わせる)諸形式が必要だった――言語が語るのはそれにとって本質的なものである一個の欠如から出発してのみであるという事実だ。この欠如の《jeu》――この語の二つの意味において[「はたらき」と「遊戯」]――が感じとられるのは、同じ一つの語が二つの異なったことを言うことができ、そして同じ一つの文の反復が別の意味を持つことができるという事実(限界であると同時に原理である事実)においてだ。そこから由来するのが言語の増殖する空虚のすべて、事物を――あらゆる事物を――言いあらわすその可能性、事物をそれらの光り輝く存在に持ち来たし、それらの無言の真実を太陽のもとに作りだし、それらの「仮面を剥ぐ」可能性なのだ。だがこれもまたそこから由来するのが、自己の単なる反復によって、かつて言われたことも、聞いたことも、見たこともない事物を生みだすというその力だ。〈能記〉(シニフィアン)の悲惨と祝祭、あまりに多く、かつあまりにも少ない記号(シーニュ)を前にしての苦悩だ。
ミシェル・フーコー豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル』)

たぶんいつの日かひとびとは一つの重要なことに気づくだろう――私たちがやっと、ほんの少し前にそこから解放された、不条理の文学というやつ、ひとびとは誤ってそれが、私たちの境遇の明晰であると同時に神話的な意識化であると信じてきた。ところがそれは、近ごろになって露頭してきた一つの体験の、盲目で陰になったほうの斜面なのであり、この体験が私たちに教えるところは、欠如しているのが「意味」ではなく記号である、とはいえそれら記号が意味するのはこの欠如によってのみである、ということなのだ。(…)ひとに事物(もの)が見える、それはつまり語(ことば)が不足しているからだ。それら事物(もの)の存在の光とは言語がそこで崩折れる、焔に包まれた火口なのだ。
ミシェル・フーコー豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル』)

 この日は勤務明けに(…)さんのバイト先に立ち寄ってメシを食っている。「中国行きを控えた(…)さんが今月いっぱいでバイトを辞める」という記述を読みながら、このころはまさかじぶんが彼の後継者というポジションで中国に渡ることになるとは思ってもなかったもんなァとしみじみ思う。

仕事を終えてからは(…)さんの働く和食屋さんへ。中国行きを控えた(…)さんが今月いっぱいでバイトを辞めるというのでひさびさに顔を出す。四度目か五度目の来店。ちょうど同志社の卒業式にあたる日だったらしく店内は満員御礼。空いていた座敷でひとり本を読みながらカウンター席が空くまで待機。三十分ほど経ったところで席に着いて(…)さんおすすめのメニューを注文したのだけれど、となりの席にひとりで着いていた女性に見覚えがあって、このひとじぶんがこの店に来るときいつもこのはじっこの席でひとりベロベロに酔っぱらってるひとじゃないかなーと思っていると、ひさしぶりだねーといきなり声をかけられた。作家さんでしょ、覚えてるよ、内臓は売らずにすんだの? と続けるので、はてなという顔をしていると、このあいだ会ったときもう内臓売るしかないっていってたじゃないとあって、ということは前回来店したのはおそらく以前の職場が潰れる直前、すなわち去年の夏前だったんだなと思っていると、何読んでんのといいながらこちらの手にしている文庫本を奪いとる。福永武彦です、と応じると、知らない、と返答があり、おもしろいの? とたずねるので、どうしようもないくらいヘタクソですね、とずれた返答をし、小説とか読まれるんですか、とたずねかえせば、『痴人の愛』が好きだという。そこから谷崎潤一郎の話を少しだけして、そして例のごとく小説を読ませてくれと社交辞令なのか何なのかせがまれるいつもの流れになったので適当にお茶を濁し、濁すにあたって説明が不可避となるじぶんの身辺事情を説明するはめになり、そこで軽く触れることになったタイとカンボジア旅行についていろいろと突っ込まれることになったのでそれらの質問にも逐一答え、などとしているうちにきみわたしの同僚の◯◯先生にすごくしゃべりかたが似てる、やさしいしゃべりかた、ほんとそっくりといわれて、なんのことだかわからないので仕切りなおしに相手の仕事をたずねると保育士だという。この店にはよく来ているのかと問えば、ほとんど毎日との返答があり、ここしか居場所がないのよ、おうち追出されちゃったの、子供もいるのにね、と続けるので、なるほど、と応じた。

 この女性のこと、完全に失念していた。上のくだりを読み返しているうちに、ぼんやりと、ああなんかこんな感じのひといたなァと記憶の地層のうずく感じがし、顔は思い出せないのだが、べろべろになって甘えたような声でなにかを口にする、その声の調子みたいなものがわずかによみがえった。日記に書いていなければ、そしてそれを読み返していなければ、このひとのことをこちらはきっと一生思い出すことがなかっただろう。そういうひとびとの影、姿、声、気配——そんなものでじぶんの日記はぎゅうぎゅうになっている。古井由吉ではないけれど、存命でありながらたがいにたがいを死者と同様にあつかっているそのようなひとびとの息遣い、残り香、言葉の断片、表情、そういうもので寿司詰めになっている、それが日記だ。
 ちなみにこのときこちらが読んでいた福永武彦はおそらく「廃市」だろう。福永武彦の小説はだいたいすべてつまらないのだが、「廃市」の世界観というかトーンのようなものだけは初読時からずっとこちらの印象に残り続けており、だからいつか水路の出てくる町を舞台にした小説を書こうというアレを、10年前どころではない、おそらく15年ほど前からあたためていたのだし、それをどうにかひとまずかたちにすることができたのがおととしようやくリリースした『S』なのだった。

 今日づけの記事もここまで書くと15時。授業準備にとりかかる。明日の授業で使用する資料をチェックしなおし、必要なものを印刷したりUSBメモリにインポートしたり。17時をまわったところで第五食堂で打包。食事中は坂口恭平と千葉雅也の対談動画を30分ほど視聴。三年生の(…)さんと(…)さんから食事の誘いがあったので、明日からの三日間であれば空いていると応じたところ、24日(木)に行くことに決まった。学生との約束といえば、25日(金)は新海誠の新作公開初日で、一年生の(…)くんと(…)くんからいっしょに観に行きましょうと一ヶ月ほど前の時点で誘われているのだが、しかしふたりにはつい最近そろって彼女ができたわけであるし、もしかしたら流れるかもしれない(流れたら流れたで、ほかの学生から誘いがあるんだろうが)。(…)くんと(…)くんといえば、彼らとそろってメシを食いにいった日に知り合ったあのコスプレ女子高生もまた最近モーメンツに恋人ができたことを報告しており、握り合っている手の写真だとかおそろいのリングをつけている写真だとかを頻繁にあげていたのだが、その手の写真を見るかぎりあきらかに相手も女性で、あ、あの子も同性愛者だったのか、全然わからんかったなと思っていたところ、今日、その恋人とそろって顔を出してキスしている短い動画をあげていた。ゲイはなんとなくピンとくることが多いんだが、レズビアンはマジで全然わからんな。(…)さんはかなりわかりやすかったが。
 寝床に移動。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きをちょっと読む。仮眠。シャワーを浴び、ストレッチをし、「実弾(仮)」第四稿執筆。20時45分から0時15分まで。プラス10枚で計338/996枚。シーン20、いちおう通してチェックしたが、途中で麻痺ってしまったので、時間を置いてもういちど確認する必要がある。
 夜食のトースト食す。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。0時45分から語学。『本気で学ぶ中国語』の第17課。通して音読すると時刻は3時。たった1課分すすめるだけでこんだけ時間がかかるんかとちょっとショック。すべての例文について、音源を用いつつ、テキストを見ながらリピーティング(3回)→テキストを見ずにリピーティング(3回)→シャドーイング(5〜10回)という流れでやっていくことに昨日決めたのだが、無理のない回数として設定したはずであるのにまさかこれほど時間を食うはめになるとはという感じ。しかしこれ以上回数を減らすのはさすがにアレだろう。あとは全体をどう回していくかだが、それについてはのちのち考える。英語をやったときは(…)が来日する直前の三ヶ月、執筆も書見もほぼすべてうっちゃって語学に集中したわけだが、今回はそういう方法をとるつもりはない。執筆も並行する。