20230323

 およそ三年前、ある都市の教育局が地元の教員の質を向上させ、大学入試を受ける高卒生に競争力をつけるため、一つの措置を講じた。全市の高校教師に資質試験を義務付けたのだ。合格者は引き続き教育に従事できるが、不合格者は淘汰されてしまう。これと同時に、教育局は人道的立場から、一部の教師が配偶者と死別もしくは離婚して、一人で子供を育てている状況に配慮した。教育の仕事と子育てに忙しく、生活が苦しいことを認め、「配偶者と死別もしくは離婚し子供を育てている教員は試験を免除する」という例外規定を設けたのだ。
 私の息子が中学に入ってから、私は中国の教育体制における試験の残酷さを知った。私の息子はほとんど毎日、試験に追われている。朝の朗読練習、集中講座、小テスト、月例テスト、さらに中間テスト、期末テストなど。中国の中学高校では、テストの種類がとても多い。進学校に入った生徒は、即座に試験問題を解く機械として養成される。ところが、毎日生徒に受験のノウハウを教えていた教員たちは、突然自分たちも試験を受けることになったのだ。誰もがうろたえ、試験場に入る前から、両足の力が抜けていた。
 その後、この規模の小さい都市の教師たちは、大規模な忽悠(フーヨウ)の行動に出た。「配偶者と死別もしくは離婚し子供を育てている教員は試験を免除する」という規定のおかげで、教師たちは自分の結婚を梃子にして、教育局の教員資質試験を忽悠することができた。彼らは次々に離婚手続きを済ませ、偽の離婚で教員資質試験を免れた。そして試験が終わると、婚姻復活の手続きを取ったのである。地元の市民は、教師たちがドラマチックな離婚と再婚によって政府を忽悠するのを見て、心からの讃辞を送り、口々に言った。
「これこそ、大衆の知恵だな」
 街角でも学校でも、教師たちは顔を合わせるとまず相手に、離婚したかと尋ねた。そこで、この町ではそれが流行の挨拶言葉となった。
「離婚したかい?」
 最終的に教員資質試験を受けた者は、三割にも満たなかった。しかも、大部分は未婚の教師、あるいは既婚でも子供のいない教師だった。もちろん、試験に合格する自信のあった教師も少しはいる。試験が終わったあと、大規模な婚姻復活の行動が始まった。教師たちが顔を合わせたときの挨拶も変化した。
「再婚したかい?」
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 朝方に印象的な夢をみた。覚めたあとに、これはちゃんと記録しておいたほうがいいと思い、枕元のスマホに手をのばしてメモしたが、それもまた夢だった——というのを三度くらいくりかえしたのち、ようやく現実にスマホを手にとり、しかるべきメモをとったのだが、細部がけっこうあやふやだ。
 まず、母方のいまは亡き祖父宅にいた。そこには「(…)くんたち」がいたらしい。しかしこの「(…)くん」がどの(…)くんなのかがわからない。メモは「(…)くんたち」になっているが、印象としてはむしろ一年生の(…)くんたちがいたような気がする。場面が実家に転じる。こちらの姿を見てよろこびうれションする(…)をなでているのだが、(…)として接している犬は現実の(…)では全然なく、毛のすべて抜けたガリガリの子犬である。さらに場面が転じる。田舎の駄菓子屋みたいな店の中にいる。通路があり、その通路の左右に商品棚が置かれている。通路の前も後ろも扉はなく、外に直接つながっており、そこから入ってくる外の光で店内は照らされている。砂っぽく、ほこりっぽく、行ったことがないからわからないのだが、インドとか、あるいは中東とか、そういう文化圏の市場のような雰囲気もある。商品棚に並べられているものもいろいろで、生活雑貨から食糧からたぶんなんでもとりあつかっている田舎の売店みたいなアレだと思うのだが、そのなかに本が混ざっている。日本語の本とウイグル語の本。それで、店の店主がウイグル人であることに気づく。実際、日本語の本もあるよとこちらに(日本語で? 英語で? あるいは中国語で?)話しかけてきた店主の顔の彫りは深く、肌も白く目も青い。以前にも来たことがある本屋だと不意に思い出す。店の外に出ると、その先には海が広がっている。カメラをもった(…)さんといっしょに石段を駆けおり、海藻やクラゲの死骸がうちあげられている浜を走り、やがて浅瀬に達する。(…)さんが同行者の女性がいないといって後ろをふりむく。われわれは三人連れでこの海に遊びにきたらしい。◯◯さん! と名前を呼ぶ(…)さんの声をきいて、(なぜか、まったく無関係であるはずの)(…)くんの彼女である(…)さんの顔が思い浮かぶ。

 11時前に活動開始。朝昼兼用のメシを第五食堂で打包。帰宅して食し、コーヒー飲み、きのうづけの記事の続き。一年生の(…)くんから微信。明日公開開始となる『すずめの戸締まり』(新海誠)をいっしょに観にいく約束をおぼえていますか、と。おぼえている。しかし(…)くんにしても(…)くんにしても彼女ができたわけであるし、そっちを優先しなくてもいいのではないかと思って——というのも、中国の恋人たちというのは、遠距離恋愛でもないかぎり、本当に四六時中、ずっといっしょに行動するのがデフォルトみたいになっているからなのだが——たずねてみると、(…)くんの彼女は明日「コンピューター試験を受ける」、(…)くんの彼女——というのはクラスメイトの(…)さんであるが——は「社会的恐怖のために行きたくない」とのことで、これは最近の若者たちがよく使う「社交恐怖症」というやつだろう。ちなみに一緒に映画に行くことになっているのは彼らふたりのほか、(…)さんと(…)さんと(…)さんと(…)さんとのことで、(…)さんと(…)さんのふたりは場合によっては同行する流れになることもあるだろうなとうすうす予想していたが、(…)さんと(…)さんのふたりは意外だった。(…)さんはいまだに顔と名前が一致しない学生のひとりであるのだが、これを書いているいま、先学期つけた成績表をチェックしてみたところ、わりと及第点ぎりぎりというアレだった。(…)さんは今学期から日本語学科に移ってきた学生であるが、はやくもクラスに馴染みつつあるのかな? 授業でアクティビティをしているあいだもわりとクラスメイトらと積極的に言葉を交わしているふうであるし、うまくやれているようでちょっと安心。チケットは23元。明日はみんなで映画を観たあと、そのままそろってメシを食うという流れらしいので、また日記がクソ長くなる可能性がある。めんどい。
 時間になったところで寮を出る。今日もまた雨降り。これで一週間ほど連続で雨降りになるわけだが、週間予報を見るかぎり、さらに一週間雨が続く模様。アホ死ね。バスに乗って(…)へ。移動中は『ラカン入門』(向井雅明)の続きを読み進めるつもりだったが、あまり集中できず、しかたがないのでイヤホンを耳穴にぶっさして『Afterglow』(She Her Her Hers)を流した。先取りして書いてしまうが、一年前の日記に「バス移動中は『Afterglow』(She Her Her Hers)をきいた。『location』をはじめて聴いたときのよろこびには全然いたらない。しかし何周かききこんでみるつもり」とあって、またシンクロしやがったなとのちほど思った。何度かくりかえしきいているうちに、『Afterglow』もやっぱり大好きなアルバムになったのだった。
 終点でおりる。売店でミネラルウォーターを買って教室に入る。全然見覚えのない学生らが数人席についている。おそらくほかの学部の学生が自習しているのだと思う。こちらの存在に気づくなり、みな続々と席を立って教室を出ていく。地獄の便所で小便をする。
 14時半から(…)一年生の日語会話(一)。第13課。先週、(…)一年生の授業でやったところ、アクティビティをする時間が全然ないことに気づいたので(五つ用意したうちの一つしかできなかった)、もともと四つあった学習文型をおもいきって二つに減らすことで、後半をまるごとアクティビティにあてるつもりだったのだが、おれは! マジで! もう! 二度と! 無駄口を! 叩くなッッッ! 信じられないことに、授業でとりあつかう内容をまるっと半減させたにもかかわらず、アクティビティをたった二つしかこなすことができなかった! なぜならッ! 例によって! またッ! ベラベラベラベラとッ! しょうもない冗談ばかり口にしてしまったからだッッッ! 笑いが生じるたびに気持ちよくなってしまうこの体質をどうにかしてくれッ! くちびる縫ってくれッ! ロボトミーしてくれッ!
 まあええわ。おもろかったらなんでもええっちゅうことにしとく。しかしこのクラス、なーんか闇を抱えているよなとあらためて思った。そもそもクラスの三分の一が一気にほかの学部に移ったなんて前代未聞であるし、残った学生らはみな熱心なのかというと必ずしもそうではなく、まだ一年生後期であるにもかかわらずすでに四分の一ほどの学生は熱意を完全に失っているようにみえる。何度でも書くが、(…)の学生でこんなことは過去に一度もなかった、(…)の学生は学力こそ(…)におとるものの基本的にみなやる気があり、授業中の空気もかなりよく、わきあいあいとしている感じであるはずなのだが、このクラスはまだ一年生であるにもかかわらずすでにすれているような子が目立つし、なにより学生同士の関係がそれほどよくないようにみえる。こちらがまだ授業を担当していない先学期のあいだにこれはきっとなにかあったんだろうなと思う。めちゃくちゃ気になるのだが、デリケートでナイーヴな話題になる可能性もあるので、まだそれほど関係のできあがっていない現状、だれに問うわけにもいかない。クラスでひとり浮いている(…)さんのこともあるし、相当ややこしい事件がクラス内で生じたんではないか? 三分の一がほかの学部に移動した件にしたところで、専攻がどうの将来がどうのというだけではない、別の力が働いた結果なんではないだろうかという気がひどくする。基礎日本語を担当している(…)先生と揉めた可能性もなきにしもあらずだが、いやしかし、(…)の歴代の学生らがこれまで(…)先生の悪口をいうところを聞いたことは一度もない、(…)で学生と揉める可能性のある教師といえば、かつて(…)の学生に手をあげた結果(…)に左遷されたという前科の持ち主である(…)先生がいるわけだが、そもそも彼女が現在(…)の一年生の授業を担当しているかどうかこちらは知らない。うーん、気になるなァ。学習委員の(…)くんとこちらとつねづね積極的にコミュニケーションをとろうとする(…)さんのふたりとは、このままいけば夏休みまでにそれ相応の関係も築けそうだなという予感もあるし、いずれそのあたりのことを軽くつっこんでみようかな——というあたまも授業中ちょっと働いたので、今日はこのあと(…)の学生たちと食事の約束がありますとわざと口にしておいた。これによって、外教を食事や散歩に誘うという選択肢が大学生活の中に存在することを(…)の学生らも認識するわけであるし、しかるがゆえにいずれ彼女らが相応に自信をつけたタイミングで先生いっしょにごはんにいきましょうという話になるはず。そのタイミングでちょっといろいろ聞かせてもらいましょうかという作戦。ゴシップを嗅ぎまわる週刊誌記者みたいだが、まあでも、だれとだれがどうのこうのみたいな話はやっぱりおもしろい、言語の壁と立場の壁があるからこそ外からはなかなかうかがいしれない内部事情が可視化される瞬間の、兆候や違和感やしるしとしてしか感受することのできないものに答えがあたえられる瞬間の、あるいはそもそも感受することすらできていなかった事実が突然暴露される瞬間の、おどろきとよろこびが一ミリもずれることなく重なり合って全身をつらぬくあの恍惚——と書いていて気づいたのだが、そうか、これも結局、(他者を介した)自由を目の当たりにすることのよろこびなのだなと思った。世界に死角があること、じぶんが無知であること、他者が他者であること——そのことを痛感する瞬間にこそ自由の風が吹くのだ。2023年2月14日づけの記事にまとめた引いたものを、くりかえしをおそれずここで再掲しておこう。

 まず2009年2月10日づけの記事より。

(…)マクドで本を読んでいて、途中からとなりの席に着いた大学生男子二人組の、その片割れが興奮すると声が大きくなるタチだったらしく、十分に一度くらいの割合でぎゃーぎゃーとわめかれ、率直にいって少々うざかったのだけれど、ホットコーヒーのおかわりが無料だということを知らなかった相方にむけて発した、「これ永遠の飲み物だぜ!」という発言には不意をつかれたというか、もうすこしで吹き出すところであぶねーという感じだった。語の組み合わせが斬新すぎる。
(2009年2月10日づけの記事)

 それを受けたのが、以下。2020年2月14日づけの記事。

「これ永遠の飲み物だぜ!」には当然笑ったが、しかしそれ以上に、この「大学生男子二人組」が現在三十代半ばであるというその事実のほうにぐっとくるものがあった。あるいはまた、そのように彼らの現在のことを想像しているこちらがいることを、彼らふたりのほうではきっと考えたこともないだろうこと——そのことになんともいえないほどの風通しの良さをおぼえる。「これ永遠の飲み物だぜ!」という、発言者当人も忘れている可能性のきわめて高い馬鹿馬鹿しい言葉が、赤の他人によって日記に書きつけられていること、そしてその記述をきっかけにおよそ11年後、おなじ赤の他人によってみずからの現状が想像されていることを、当の本人らは絶対に知ることがないという事実――ここに自由がある。じぶんにたいする言及がじぶんのまったくあずかりしらぬ予想だにしない一画でなされている彼らの立場に立つとき、じぶんにもまたそのような死角があることをありありと感じる。死角、それは他者だ。この世界には他者がいる。他者とはこちらの支配をのがれ、想像をうらぎり、視界をふりきりその外へ外へと逃げ去るものだ。そのような他者の存在だけが、どういうわけかこちらには自由を担保してくれるものとして映じる。あるいは自由とは——少なくともこちらにとっては——じぶんの予測や常識をうらぎるすべての事象にあたえられた名前なのかもしれない。そしてくりかえしになるが、それこそ他者の存在によって担保されているものなのだ。
(2020年2月14日づけの記事)

 さらにこれを受けたのが、以下。2021年2月14日づけの記事。

「他者とはこちらの支配をのがれ、想像をうらぎり、視界をふりきりその外へ外へと逃げ去るものだ。そのような他者の存在だけが、どういうわけかこちらには自由を担保してくれるものとして映じる。あるいは自由とは——少なくともこちらにとっては——じぶんの予測や常識をうらぎるすべての事象にあたえられた名前なのかもしれない。そしてくりかえしになるが、それこそ他者の存在によって担保されているものなのだ」という箇所、けっこう大事だ。「予測や常識をうらぎるすべての事象」というのは、現実的なもの(出来事)であるが、それこそが「自由」である、と。そしてそのような「自由」を担保するのが「他者」である、と。現実的なもの(出来事)をもとめる傾向を仮に(死の)欲動とすれば、(死)の欲動とは「自由」をもとめる力であるということになる。そしてこの場合の「自由」とは、象徴秩序の対義語ということになるだろう。自由とは危険なものだ。そして主体はその自由を享楽せずにはいられない。
(2021年2月14日づけの記事)

 で、これらの内容とかすかに響き合うものとして、以下。初出は2019年2月12日づけの記事。

(…)先生のレジュメにはところどころ(…)さんの書き込みの痕跡があった。一年生当時の、まだ全然日本語ができなかった彼女のお世辞にもうまいとはいえない筆跡だ。(…)先生は(…)先生で、レジュメは基本的にはもちろんWordを用いて作成しているのだけれども、ところどころに手書きのイラストや手書きの文字を添えている。そんなふたりの筆跡を相手取りながらこちらはこちらでまたメモをとっていたわけだが、そういうことをしているあいだ、たびたび、はげしくてするどい、ほとんど痛みにも似た感動をおぼえることがあった。(…)先生のことは(…)さんや学生から何度か聞いたことがある。ただ直接会ったことはないし連絡をとったこともない、そういう意味で、知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者である。(…)さんはいま現在もっとも親しい学生のひとりであるが、このレジュメにたどたどしい日本語を書きつけていた当時の彼女とは面識がない、そういう意味でやはり、知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者だろう。そしてそれらの半端さこそが、この世界にはじぶんではない他人がいるのだという当然の事実をあらためてみずみずしくつきつける、ほとんど啓示じみた瞬間のおとずれのきっかけとして作用したらしい。「知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者」のものであるふたつの筆跡――それは指紋としての文字、他者の他者性(他者の特異性=単独性)のあらわれとしての文字だ――が、飛び石や踏み石のようなものとして、「(まごうことなき)他者」の実在を身体で理解するための筋道をつけてくれたのだ。結局、十数年の長きにわたってこのようにして毎日あほうのごとく長文日記を書き記しているのは、この世界にはじぶんではない他者がいるという当然の事実を、そしてその他者ひとりひとりに固有の記憶があるという当然の事実を、確認して指摘するためでしかないのかもしれない。実際、日常生活のなかでしばしば啓示に打たれたと感じるときというのは、だいたいいつも「他者」にたいする認識が十全に果たされたときではないか? そしてその「他者」にたいする十全な認識が、こちらの論理では、そのままある種の解放感/開放感、風通しの良さ、身体の軽さ、すなわち、「自由」の確保に短絡することになる。他人を見るたびにいちいち「他者」を感知していては、現実的な生活はほぼ不可能である。であるからひとは通常、そのような「他者性」を括弧に入れて処理する。イギリス留学時代の漱石が裸婦画を鑑賞するのは決してなまやさしいことではなかったというようなことを柄谷行人がどこかで書いていたが、あれはとどのつまり、裸婦像の性的側面を括弧に入れることでしか芸術としてのヌードは成り立たない(そしてそのためには特別な訓練が、そのような文化的背景を持たない当時の日本人には必要だった)ということだろう。あるいは、谷川俊太郎のお悩み相談室的な書籍だったかで、患者が死ぬたびに悲しくて泣いてしまうという医療関係者について谷川俊太郎がけっこう突き放した回答を寄越していたおぼえがあるのだが、あれも患者の実存(特異性=単独性)をまずは括弧に入れるのが医療に従事するものの覚悟であるのではないかと諭すようなものであったはずだ(ただし、おなじ医療でも、精神分析の現場においてはこれとまったく正反対の態度がもとめられるわけだが)。それにからめていうと、こちらはおそらく他者の他者性(他者の特異性=単独性)を括弧に入れることがあまりうまくない人間だということになるのかもしれない。こちらの括弧はおそらく箍が外れかけている。だからすぐに「他者」を見、「他者」を聴き、「他者」を感じ、そして法悦や啓示の敷居に立ち尽くしてしまう(こちらが筆跡フェチであるのも、その中に「他者」を見出しやすいからだろう)。こちらの生活の端々に顔をのぞかせるあれらの宗教的な感動は結局そういうことなのではないか?
(2019年2月12日の日記)

 ちなみに(…)さんは今日も教室に猫を連れてきていた。(…)のほう。しかも今日はバッグもなにもなく裸のまま。授業自体はだれよりもしっかり受けていたので問題なかったのだが、休憩時間中にその(…)とたわむれているわれわれの姿を、教室の前の廊下を通りがかった風紀委員的なポジションの学生が写真に撮っていったらしい。大学にチクられるかもしれないということで(…)さんと隣席の(…)さんのふたりはその後かなり心配しているふうだった。学生のだれかが(…)老师の猫ということにしておけばいいのではないかと中国語で口にするのが聞こえたが、アホか! なんちゅう責任転嫁たくらんどんねん! とりあえず、なにかいわれたらたまたま教室に迷いこんできた野良猫ということにしておきなさいと助言しておいた。
 授業を終えて教室を出る。大学の外で(…)くんとばったり出くわす。これからひとりで兰州拉面を食いにいくところだという。門の外で別れてバスに乗る。帰りのバスはほぼ満席。最後尾の座席にすわっていたのだが、こちらの左隣に座っていたおっさんが途中、普通にクソでかい音で屁をこいたので、おもわず「え?」と口に出してふりむいてしまった。その後、災厄のごときにおいが漂いはじめたものだから、やる気をなくして書見も中断。ほんまやってくれんな。きのう「実弾(仮)」でエレベーターで一緒になった他人が屁を置き残していく場面を書いたばかり。
 終点でおりる。(…)で食パン三袋購入。一年生の(…)さんから印刷する資料がいつものように二枚組ではなく一枚しかないのだがそれでかまわないのかと確認する微信が届いていたので、一枚でかまわないと一度は応じたものの、これまでスクリーンで表示するだけにしていたアクティビティのルールについて、あれもいちいち印刷して配布したほうがいいんではないかという気がしたので、あとでもう一枚追加しますと返信。すでに先の一枚を印刷済みであれば、二度手間になるわけであるし、もう一枚はこちらの手で印刷してあした教室に持っていくと伝えたところ、そんな必要はない、追加の一枚もあした教室に行くまえにじぶんが印刷すると(…)さんは言ったが、ここのところのやりとりがかなりわかりづらく、彼女のいわんとするところがほとんど理解できなかった。(…)さん、最近授業中もあまり集中できていないようすであるし、先学期に比べてあきらかにパフォーマンスもモチベーションも低下している、高校から日本語を勉強しているというアドバンテージもこのままでは今学期中に失うこともなきにしもあらずではないかというアレもあることであるし、ここらで一発かましておくか、ついでに鼻っぱしらを折っておくかというわけで、ごめん、ちょっとよくわからないので中国語で状況を説明してくれますか? というメッセージを送るなどした。
 文具屋でA4コピー用紙を購入して帰宅。今日は(…)さんと(…)さんのふたりとメシを食いにいく約束になっていたのだが、さっそくその連絡があったので、いま(…)からもどってきたばかりなのでちょっと待ってくれとお願いする。(…)さんに追加の資料を送信する。それから準備を整えて、18時になったところで徒歩で女子寮へ。(…)さんと(…)さんのふたりと合流。麻辣香锅の店をおとずれることにする。ゼロコロナ政策の終了にともない、(…)医院の中を通り抜けるルートもふたたび開放されたらしいので、南門は経由せず、地下道を抜けて老校区に入ったあと、病院のなかを突っ切ってそのまま后街付近に出た。道中、週末は(…)先生のおごりでスピーチ組での食事会があるでしょうと(…)さんにたずねると、そんな通知は受けていないという返事。(…)先生の担当学生は(…)さんであるし、となると彼女とほかボランティアでかかわった(…)さんらだけにごちそうするという予定なのだろうかと思ったが、それはいくらなんでも(…)さんがかわいそうではないか? (…)さんの担当者は(…)先生であるわけだが、当然、彼女は(…)先生と食事になど行きたくない。こちらも同様。実際、彼女から春節前に食事の誘いがあったが、だれが行くかよクソが! という気分で断った。という話をしていると、(…)先生とごはんに行ったことがありますかとふたりがいうので、ないよ、(…)先生から聞いたけど(…)先生はそもそもあまりほかの先生たちと交流しないようだよ、ぼくの前にいた外教の(…)さんも四年間ここにいたけどちょっと話したことがあるだけだって言ってたよというと、(…)先生はたぶん交流が苦手なひとですという反応。ここでも「社交恐怖症」か。(…)先生は今日の授業中先生のことをとても若くみえると言っていましたとふたりがいうので、それはたぶんぼくが帽子を脱いだところを見たことがないからだねと受けると、ふたりとも笑った。
 麻辣香锅を食うのは今学期はじめて。不辣不麻で注文。三人分で100元近くになったが、こちらが半分をもつので、のこり半分をふたりで割るようにいった。ふたりはけっこう執拗に抵抗したが、どう考えてもふたりよりこちらのほうが食う量が多いわけであるし、それに日本では年長者のほうが多く出すものだよといういつもの言葉で押し切る。メシは最高にうまかった。唐辛子なしでもだいじょうぶ? とたずねると、ふたりともおいしいといった。
 メシのあいだ、例によっていろいろ話す。あしたは一年生と映画の約束になっていると話すと、(…)さんも(…)さんと一緒に観にいく予定とのこと(われわれとは別の映画館)。(…)さんは行かない。映画館は暗いから苦手だみたいなことを中国語でいうので、えー! (…)さんそんなかわいい女の子みたいなこと言うの! と驚くと、こわくありません、眠くなるからですという返事があったので、ただのおっさんやんけ! とたまらず関西弁が出た。
 その(…)さんと(…)さんは大学入学前からの知り合いであるという話も出た。ふたりとも高校を卒業後、少数民族の通う学校に一年在籍しており、その翌年に(…)に入学したという。この話は以前軽く聞いたおぼえがある。一種のアファーマティブ・アクションのようなものだろう。少数民族は高考で下駄をはかせてもらえるという話は(…)くんから聞いたが、ふたりが通っていた少数民族の学校というのがどういう役割をになっているのかはちょっとわからん。短大的な扱いであるのだが、成績優秀者は提携している大学に編入することができるみたいなアレだろうか? あるいは高考の点数が規定のラインに達していなかったとしても、その学校に通って一年勉強すれば、やはり編入することができるみたいな仕組みだったりするのかもしれないが、あまり深く追求するのもメンツにかかわるアレかもしれんのでやめておいた。(…)さんは回族だという。回族ってイスラム教徒でしょうとたずねると、じぶんたちは全然そうではない、先祖はそうだったかもしれないという返事。(…)さんは土家族。クラスではほかに(…)さんと(…)くんも少数民族であるとのこと(たしか苗族だといっていたはず)。
 食事中、(…)さんからN1の過去問に関する質問。最近毎日のように届く。(…)さんはほかの学部から日本語学科に移ってきた学生であるが、熱心に勉強をしているため、いまではクラストップレベルの実力がある。(…)さんによると、彼女は元いた学科で成績一番の超優等生だったらしい。しかるがゆえに本人が日本語学科に移ると言い出したとき、教員らみんなにひきとめられた。ちなみに、ほかの学科に移動するときは通常編入試験のようなものがあるらしいのだが、日本語学科にはそういうものが一切ないとのこと。Fラン扱いやな。(…)さんは7月にN1を(…)大学で受ける予定であるが、(…)さんもやはり受験する予定。ただし、試験会場は省外の大学であるとのこと。彼女の実力ではそもそもN2ですらあやういと思うのだが、うーん、どうなんだろ。
 インターンシップについて、(…)さんもまた大分で働くことに決まったとのこと。しかし(…)さんとは別々の旅館らしい。(…)さんは友人らと離れ離れになってしまったことを多少嘆いた。しかしインターンシップにかつて参加した先輩からは、同僚の大半が日本人であるという環境は、語学力向上を目指しているのであれば理想的な条件だと言われたという。それはそうなのだが、こちらとしてはやはりレイシストのクソババアどもから陰湿な嫌がらせを受けたりしないだろうかとそればかりが心配で仕方ない。ほかにインターンシップ生のいない職場にじぶんだけどうして配属されることになったんだろうというので、そりゃきみの発音がきれいだからでしょう、この子だったらひとりでもだいじょうぶと判断されたんでしょうというと、面接官からも褒められた、「はじめまして、わたしは(…)です」と言っただけで、「(…)先生」からももうひとりの面接官からも日本語が上手だねと褒められたというので、だから言ったじゃん、きみの発音はマジできれいだから、社交辞令じゃないってわかったでしょ? だからぼくはスピーチコンテストの審査結果にいまだに納得していないんだよというと、(…)さんはとてもうれしそうにそしてはずかしそうににこっと笑った。ただ発音がきれいだとそれだけでペラペラだと勘違いされやすいから気をつけたほうがいいよと補足すると、先生の中国語とおなじですねという反応があったので、そういうことと笑った。現在鹿児島にいる(…)さんと(…)さんのふたりが今日、ブックオフで漫画だのフィギュアだの買ったと写真付きでモーメンツに投稿していたので、それも見せてあげた。ブックオフという店にいけば、漫画一冊100円くらいで買えるよというと、大分にもブックオフはありますかというので、ぼくの故郷のようなクソ田舎ですらある、安心しなさいと答えた。
 店を出る。入り口でまた記念撮影。撮影はちょうどわれわれとおなじタイミングで店を出るところだった女子学生にお願いする。(…)医院を抜けて老校区に入り、そこから地下道を経由して新校区に戻る。道中、きみは中学校、高校、少数民族の学校、大学といろいろ出会いの場があったはずなのに、いちども彼氏ができたことがないんだなと(…)さんをからかってやると、最近食堂でかっこいい男の子を見たという。やたらと理想が高い彼女にしてはめずらしく、本当にかっこよかった! その友達もまあまあかっこよかった! というので、ちゃんと連絡先はきいたの? とたずねたところ、そばにいた(…)さんがはーっとため息をつき、首を左右にふってみせた。臆したらしい。

 今学期は三年生の授業を担当していない。しかるがゆえに三年生の学生らがどう過ごしているのか全然わからない。みんな元気にしているのかという話から、今学期は(…)くんともまだ一度も会っていないというと、ふたりはひどくびっくりした。伤心! 伤心! というので、誘いは二度か三度あったけど、いずれも先約があったから断ったんだよというと、じゃあ今度は(…)くんも誘っていっしょにごはんにいきましょうという。了承。最近、二年生の(…)さんから本物の東北料理の店を教えてもらったらしいので、そこで食べてみよう、と。それは楽しみだ。
 第五食堂そばの果物屋に立ち寄る。いちご一パックと串にささったパイナップルを買う。合計10元。やっぱり安いよなァと思う。九州は東京よりも地震が多いですかと(…)さんがいうので、まあ火山があるしなァと言いつつ、でも半年も日本に滞在するのであればどこにいても一度は地震を体験するんじゃないかなというと、こわいこわいという。地震も体験してみる一下だよというと、ふたりは笑った。(…)さんと(…)さんのふたりの造語というかピジン語の一種に「てみる一下」というのがあり、これは日本語の「〜してみる」と中国語の「動詞+一下(ちょっと〜する)」を組み合わせたもので、ふたりはたびたびふざけて口にする、それを踏まえて「地震も体験してみる一下」とこちらは口にしたのだった。
 寮の前でふたりと別れる。帰宅。メシを食ったあとの帰路はなかなか寒く、体も冷えていたので、すぐにシャワーを浴びた。あがってストレッチし、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きにすぐとりかかる。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年3月24日づけの記事を読み返す。

千葉 言語は状況に対する距離そのものですから、言語が失墜するということは距離がなくなることです。そうすると敵対する関係の間の距離もなくなるから、もう直接衝突になっていくわけですよね。
 別の言い方をすれば、言語の物質性が持つ、直接衝突を避けるための緩衝材という側面が浮かび上がってきます。この緩衝材という社会的意義が、文学あるいは芸術の存在意義と結びついてくるんじゃないですかね。
 文学や芸術は、言語を道具的に直接使うのではなく、言語を言語として取り扱います。そういうメタ言語的な取り扱いが日常の中にあるという状況が、直接情動的な方向に社会が向かわないための防波堤になる。
國分 ウィリアム・モリスが、日常の中には芸術が必要だと言っているのに近い感じがしますね。工業製品のカップではなくて、名も知らない職人が作ったカップを使い、それを愛でながら生きる。日常生活を飾りながら生きる。言語も同じように考えるならば、それは言語を遊ぶということだよね。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 それから2013年3月24日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

偶然発見した奥さんのブログの中に生まれ変わったらいまの旦那とは決して結婚しないと書かれているのを発見して離婚の危機感を覚えたので第三者をよそおって離婚などしないほうがよいとメールを送り続けているうちにその奥さんから会いたいとアプローチをかけられはじめて困っているというひとの話を聞いた。冷静に考えたらすさまじいシチュエーションであるはずなのにどうにも食指の動かないのはおそらくフィクションの中ではとっくに消費しつくされている物語構造をこのエピソードが担っているからだろう。

 これ、(…)の同僚の(…)さんのエピソード(「実弾(仮)」では(…)さんという人物として造型されている)。(…)さんはのちほど、新入りバイトとしてやってきた芸大生の(…)さんにセクハラしたり(洗い物をしている最中にひじをのばして胸をつつく)、神戸に夜景のきれいなホテルがあるのだけれどもどう? というアプローチをかけたりしつつ、かつ、フロントの(…)さん(「実弾(仮)」では(…)さんという人物として造型されている)にめちゃくちゃ虐められつつ、最終的には奥さんと別れて慰謝料のために車も手放し、職場には自転車で出勤するようになったのだが、じぶんから飛んだのだったか、クビにされたのだったか、ちょっと忘れてしまったが、いつからか姿を見なくなった。ちなみに彼はもともと滋賀県の工場かどこかで働いていたのだが、そこでも若い女の子にちょっかいをかけてクビになっている。小峠英二森本稀哲に似ている当時50歳近いおっさん。ちなみに10年前は「冷静に考えたらすさまじいシチュエーションであるはずなのにどうにも食指の動かないのはおそらくフィクションの中ではとっくに消費しつくされている物語構造をこのエピソードが担っているからだろう」などとすかしたことを書きつけているが、10年後のいまは授業中に披露する鉄板エピソードのひとつになっている。おれもたいがい俗世の塵芥を浴びに浴びたもんよ!
 あと、出勤中に部屋の扉が勝手に新調されていた事件が発生したのも、この日だったらしい。

仕事を終えて帰宅したら玄関の扉が真新しいものに一変していた。唖然とした。どういうことだよこれと思いながらとりあえず部屋にあがって部屋着に着替えていると、取り替えられたばかりのその扉を例のごとくガンガンやりだすやかましい音が聞こえだして、イラっとしながらおもてにでると大家さんがいて、引き戸のたてつけがとても悪かったことであるし大工さんに頼んで今日あたらしいものに取り替えてもらったのだと悪びれることなく言ってのける。プライバシー観念とかその手のものをいっさい持たないらしい世代のひとであるしガミガミいうのもためらわれるのでただ一言びっくりしましたねとだけ応じると、えらい勝手なことさせてもろうてすみませんと言うのだけれどぜったいすみませんとか思ってないし、大家さん単独ならまだぎりぎり許せるとしても得体の知れない大工さんが勝手に部屋にあがってガンガンガンガンやってたのかと思うと、やはりクソ不愉快であるといわざるをえない。せめて電話の一本でも入れるなどできないものか。いい加減勝手に部屋にあがるんじゃないと釘を刺すべきかもしれない。

 そのまま今日づけの記事にもとりかかる。明日は明日で長い一日になりそうなので、いまのうちに書けるだけ書いておくつもりでがんばる。麻辣香锅を食いすぎたのか、満腹感がずっと続いていたので夜食はもうとらない。1時半をまわったところで作業を中断。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませ、ベッドに移動してからFrank O'ConnorのMy Oedipus Complex and Other Storiesの続きをちょっとだけ読んで就寝。