20230325

 いったい、あの世があるものか、あるとすればそこにはどんな眺めがあり、なりわいがあるかということほど、人々の大きな関心をひくものはありません。それもこうした世なればこそですが、明朝が倒されて清朝になり、戦乱あいついで匪賊が横行し、目を覆うばかりの殺戮がなされる。商家が興り農民が安穏を得たと思えば束の間で天災蝗害などが起こり、たとえこの世からあの世に行ったとしても、いわばそうした世変わりに過ぎず、あの世とても官僚が腐敗しきって、賄賂など行われるのが当然と考えていたのかもしれません。
(森敦『私家版 聊齋志異』)



 12時半起床。腐れ大寝坊。背中が痛い。第五食堂で炒面を打包。食し、コーヒー飲み、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年3月25日づけの記事を読み返す。青山真治の訃報に触れた日。

千葉 政治活動は、主体化にとって非常に大きな場だということですよね。ただ、政治活動以外でも、アーティストが芸術活動で主体化するように、人は何かに熱中することで主体化される。そうするとポイントは、目的志向的な活動は何か主体化を取りこぼす面があるということですよね。
 目的志向的に動いていると、何かが疎外される。つまり、目的志向活動の外部にこそ、主体化があるわけです。さらに言うと、この主体化という言葉は、主権化とも言い換えられると思うんです。國分さんはさきほど、目的志向的に活動すると、ある方向性に一致する人々は喜ぶけど、犠牲が出ると言いました。つまり、そこで振り分けが起こる。そこで取りこぼされた人たちは、自分たちの居場所がないという不満を持ってしまう。そうではないようにするためには、いかに主体化あるいは主権化の場を、目的の外部で確保するかが重要になるわけですよね。
國分 その場合、「主権化」というのはどういう意味だろう?
千葉 何が言いたいかと言うと、主権化を、いま言ったような意味での主体化というものに定義変更すべきだということです。いままで主権という言葉は、目的志向的な行動の強者の側に割り当てられるような響きを持っていましたから。
國分 主権というのは最終的な決定権のことだからね。いまの千葉さんの定義変更は大竹さんの議論ともつながるように思う。合目的ではない政治は、いままで決して政治的な主体とみなされなかった無力な者たちも包摂するような政治であると大竹さんは言っていて、非人間的なものや事物の政治の構想が語られている。
千葉 たとえばネグリが議論しているようなある種の開かれた主権性というものも、いま言った主体化の問題につながっていて、まさに無力な者たちがいかに主体化するかという話だと思います。さらにひねった展開をすると、トランプ支持者やブレグジット支持者の議論ともつながりますよね。
 あの人たちは、自分たちがある目的志向性から排除されて、主体化できないことを不満に思っていて、主体化させてくれと言ってるわけですよ。そのときに与えられるソリューションが、排他的なレイシズムと結びついてしまうことに今日の問題がある。だから、そうではない仕方で、その主体化あるいは主権化の要請にどう応えるかということが、政治の次の課題として問題になっている。
國分 非常に面白いですね。主権を求める人たちの声がなぜレイシズムに引っ張られてしまうかというと、主体化のモデルが敵に基づいているからだろうと思うんです。
千葉 そうです、そうです。
國分 敵をやっつけることで主体化するというモデルしかないから、主体化への要求が敵を打ち立てるレイシズムに結びついてしまう。すると、いま議論しているような目的を持たない遊びとしての政治は、アドホックには敵はあるかもしれないけれども、それが主体化のモメントになるのではなくて、参加して活動していることそのものが主体化につながっていくような政治であるのかもしれませんね。
千葉 根本的に敵対関係によって動機づけられるものではないような主体化、ということですよね。そのような政治は可能か。まさに反シュミット的な政治ですね。
 でも、それこそがコミュニズムだと思います。コミュニズムが言っている「コミューン」とは、敵友関係がない、遊びの共通地平を拓くということですよ。歴史的な共産主義運動は、はっきり敵を作ってやってきた。その歴史から言えば、いま言ったような遊びとしての共通平面を立てるというのは、どちらかというとアナキストが考えてきたことだと思います。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

(…)くんから微信の友達申請。「大人」の定義について「詩と遠方がない人」と書いて寄越したのに、以前はてなマークをつけて返却したのだったが、それについての説明。元ネタの歌詞があるという。“生活不止眼前的苟且 还有诗和远方”というもので、ググってみたところ、许巍というミュージシャンの《生活不止眼前的苟且》という楽曲らしい。YouTubeにMVもあがっている(https://www.youtube.com/watch?v=Uk_UG1zjvpU)。詩の意味は、生活(人生)には目先の由無し事だけではない、遠くに目をむければそこには詩と遠方(理想、夢)がある、みたいな感じらしい。
 わざわざ説明してくれたのはありがたいのだが、作文でこのような身内ネタ感バリバリのものを書いてくる学生は、根本的に外国(語)というものを理解していないよなとも思う。中国の流行語を日本語に直訳して使う——そしてそれが通じると思いこんでいる——学生などもそうなのだが、根本的に他者の観念が欠落している。これは中国国内でしか通用しない身内ネタ(文化、語彙、表現)であるなという反省がまったく働かない感じ。

 (…)くんのくだり、うちの学生あるあるだよなと思う。みんながみんなこんなふうではないが、「根本的に他者の観念が欠落している」と感じる子たちはけっこう多い。日本でもそういう人間は多数いるだろうが、それでも若い世代であればある程度の想像力は持ち合わせているはず——と書いていて思い出したのだが、こちらが(…)をはじめて実家に連れていった日の夜だったと思う、テレビを観ていた父親が画面にオードリーの春日が登場するやいなや、(…)に向けてトゥース! とやった瞬間があったのだが、あれこそまさに完全無欠なまでに「他者の観念が欠落している」ふるまいだった。というかもっといえば、当時は(…)のみならずこちらも(オードリーの存在はぎりぎり認知していたものの)春日のギャグにトゥース! というものがあることなど知らなかったわけだが。食卓に同席していた弟は、そうした父のふるまいに対して共感性羞恥と怒りのないまぜになった舌打ちをして顔をしかめたが、そのいらだち、そのいらだちと同種のものを(程度こそ異なるものの)一部学生の課題におぼえることがこちらにはある。それにしても父はなぜ日本語さっぱりかつ初来日直後の西洋人にクソローカルなお笑い芸人の一発ギャグが通じると思った——あるいは通じずともウケると思った——のか? 父を見ているとときどきボーダーコリーやトイプードルやシェパードのほうがまだ空気が読めるんではないかと思うことがある。
 それから2013年3月25日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。プライバシーもクソもない暮らしと花粉の飛散量にうんざりした記述に続けて「四月から同志社の学生がアホみたいに増えて近隣が騒がしくなるであろうその見込みも含めて、すでに若干引っ越したい。というか京都を出たい。次に小金と無職の二大条件がそろったあかつきにはぜったいに京都を出よう。というか日本を出よう」と書きつけられていたので、ちょっとびっくりした。このときはたぶん本気でそう書いていたわけではないと思うのだが、まさか本当に日本を出ることになるとはという感じだ(ただし二大条件のうち、満たされたのは「無職」のほうだけであったが!)。

 翌朝、私はゾルバについて村までいった。私たちは、真剣で、実際的な人たちのように、亜炭鉱の仕事についてあれこれ話をした。斜面を下りて行く時だった。ゾルバが石を蹴ると、その石は、坂をコロコロころげていった。ゾルバは、まるでこんな驚くべき光景は生涯で初めてみたとでもいうように、しばらくびっくりして立ち止まっていた。そして私を振りかえると、その表情には胆をつぶしたような表情を浮かべていた。そして、やっと口を開いた。
「親方、みましたかい? 斜面じゃ、石だって生きかえるんですな」
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

分節=文体の局所的反復とそのつど固有な布置の描出によるたえまなき構造変換を体現する構成、間に合わせの語彙という性質(たとえば恍惚体験がユダヤ・キリスト・イスラム教者にとって神の御業として表象・理解されるように)を活用した主題の二重化、わたしという固有性・わたしという事件・わたしという出来事をわたしのものではない言語で表象せねばならないという仕組みを逆手にとった人称操作など、来るべき次作についてぼんやりと考えを進める。

 この小説の素案、ぜんぜん覚えていない。どんなものを想定していたのだろう? 主題としてはムージルを踏まえつつ、語りとしてはヌーヴォー・ロマン的な操作を加えるみたいなアレだと思うんだが。

(…)夜にもかかわらずおもてでは花粉がぷんぷんにおっていて、というかこのほこりっぽいというべきかそれともけむりっぽいというべきかわからんがとにかくこのにおい、このにおいの発生源が花粉であるかどうかはまったくもって定かでないのだけれど、かれこれ二十年ほど花粉に悩まされてきている身体が、空気がこのにおいをはらみもつ時期イコール花粉症の激化する時期として記憶しているので便宜的に花粉のにおいと表現しているこのにおい、このにおいが夜にもかかわらずぷんぷんにおっていて、ああ嫌だ、ああ嫌だ、これがあとひと月も続くのかと思うとげんなりする。スギだけで終わってくれればいいものを、京都に来て二年目か三年目だったかにヒノキまで発症してしまったものだから、通行人の大半がマスクをとりはずす時期になってもまだまだ目を真っ赤に腫らして鼻をずるずるやっていなきゃいけないし、なによりこれから先もう一生お花見を楽しむことができないという縛りを受けてしまった。もともと夜桜のほうが好きな性分ではあるし、マスクを装着した上で翌日の反動を覚悟しさえすれば楽しむことができないわけでもないのだけど。というわけで今年も平野神社に夜桜を見に出かけたい。そしてじゃがバターを食べたい。できればそばには酔っぱらった女の子がいてほしい。おたがいのことはそれほど知らないほうがいい。おれはアレで狂って、きみは酒で酔っぱらって、ろれつはとっくにまわらず、キラキラするものに魅入り魅入られながら、震える指先でたぐりよせた幻覚をちょうちょむすびにして、むすびそこねた約束から順にきみにささげる、それが詩になる、ぎりぎりの言葉となって垂直に立つ、めざめたらもう手元にはない詩、めざめたらもうそばにない人肌、いつかはきみもアレで狂って、そのくせおれは正気に返って、もうとっくに壊れはじめている脳、もうとっくに回復しきっている傷、蛇行する文字列だけが見覚えのない体験談を自白する、夜を、奇蹟を、凍てついた炎を、たしかに果たされた口約束のこだまを、ひろがりきったきみの瞳孔に宿るおれの馬鹿げた似姿を。

 当時ってなんかこういう、気取った自動筆記みたいな文章をたびたび、タイピングのいきおいのまま打鍵の衝動のままに日記に書きつけているのだが、そう考えると、いまのほうがよっぽど散文的な散文をものするようになってんな。さすがにいまの年でこういう文章を書きたいとは思わない。
 作業中はきのうにひきつづき、『Whistleblower (2022 Remaster)』(Vladislav Delay)を流していたのだが、やっぱりすごくいい。それでほかの音源も探してみようと思ったところ、Vladislav Delayは去年見つけてきいたけれどもいまひとつしっくりこなかった『Speed Demon』の制作者でもあることをいまさら知った(名義はRipatti Deluxe & Vladislav Delay)。それで『Speed Demon』もあらためてききなおしてみたが、やっぱりこっちはそれほどしっくりこない。

 今日づけの記事をここまで書く。時刻は15時半をまわっている。授業準備。日語会話(三)の第25課。もともと用意してあったものをバッサリカットする。ちょっとやりすぎかもしれないが、余った時間は中間課題の説明にあてればよい。途中、四年生の(…)くんから誘いがあるが、この週末は忙しいと断る。土日はなるべくひとりで過ごすと決めたのだ。
 17時過ぎに作業を中断。第五食堂で打包。(…)を含む(…)一家と門前でばったり遭遇する。(…)も(…)も紙袋をたくさんさげている。(…)にいたってはちょっとgorgeousな服を着ている。(…)はあいかわらずこちらに向けて吠える。なにをしていたのかとたずねると、(…)があたらしい服屋をオープンしたので遊びに行っていたのだという返事。(…)というのは(…)のex-wifeだという。たくさん買ったねと(…)にいうと、買ったのはひとつだけ、あとはぜんぶgiftだとのこと。
 部屋にもどる。メシ食う。なんとなくニュース記事をザッピングしていたところ、綿矢りさが北京で講演したという見出しが目につき、へーと思いながらのぞくと、去年の12月から北京に在住しているという内容にいきあたって、え? とびっくりした。去年の12月って、コロナがおもいっきり拡大しまくっていたあの時期に入国したのだろうか? あるいはそれ以前? いや、それ以前はむしろ超厳格な措置がとられていたわけであるし、田舎であればまだしも北京に外部の人間が足を踏み入れることなどほぼ不可能だったはず。しかし、びっくり。
 仮眠。浴室でシャワーを浴び、ストレッチをし、21時から23時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン21の途中まで。結局、このシーンは分割しないことにした。プラス20枚で計358/996枚。シーン21もやたらと長いし、苦手意識のある一種の鬼門なので、あせらず慎重に修正を重ねる方針。
 その後、『本気で学ぶ中国語』。合間に懸垂したり、プロテインを飲んだり、ジャンプ+の更新をチェックしたりしつつ、2時ごろまで。途中、(…)一年生の(…)さんから微信。書き忘れていたが、彼女からは昨日、クラスメイトの(…)さんと一緒に(…)のフェスに参加しているという微信が送られてきたのだった。このあいだ授業中にこちらがキクラゲが好きだと言ったその言葉を受けて、(…)でおいしいキクラゲの料理を食べたと写真付きで報告してくれたわけだったが、今日は今日で、野外フェスの公式微博アカウントが投稿した複数枚の写真のなかに観客を撮ったものがあり、そのなかにじぶんが写りこんでいたというよろこびの報告が送られてきたのだった。
 ベッドに移動後、My Oedipus Complex and Other Stories(Frank O’Connor)の続きを読んで就寝。