20230406

 欲求が要求に変わる瞬間、ひとつの離接が導入される。私たちは自分自身を言語によって表現しなければならないという事実のため、欲求が要求のなかで十分に表現されるということは決してない。私たちの欲求は、他人に向けられた要望や要求のなかで、決して完全には表現されない。その要望や要求は、つねに、欲望されるべき何かを残す。つねにひとつの残り物があり、ラカンはその残り物を「欲望」と呼ぶ。(…)
 解釈されたものとしての私たちの要求は、私たちが欲するものすべてをもれなく説明したり、カバーしたりしない。また、〈他者〉が私たちの要求への応答のなかで与える様々な対象が、私たちを十分に満足させることもない。幼いクマは、母グマに食べるべき蜂蜜を与えられれば、自分自身でがつがつと食べ、居眠りし、満ち足りる。私たちは、要求する毛布を母から受け取っても、車や、人形や、世界支配を夢見る。私たちにはつねに、さらに欲望すべき何かがある。私たちは、自分自身がさらなる何かを欲していることを見いだすが、しかし、その欲を満たしてくれるもの、その欠如を埋めてくれるものは何だろうか。(…)
(…)
 その問いに対するラカンの最初の答えは次のようなものだと思われる。すなわち、ひとりの主体として私が欲するのは、〈他者〉による承認であり、この承認は〔〈他者〉によって〕欲されること、というかたちをとる。私は欲されたい。欲されるために、私は〈他者〉が欲するものを知ろうとする。それを知れば、私は、〈他者〉が欲するものになって、欲されることができる。私は、私に対する〈他者〉の欲望を欲望するのである。幻想を表すマテームのなかの対象aは、ある程度まで、私に対する〈他者〉の欲望として理解することができる。かくして、私は、私の幻想のなかで、私に対する〈他者〉の欲望との関係における自分自身を、想像するのである。
 どうすれば私は、〈他者〉に欲してもらえる、あるいは欲望してもらえるのか。〈他者〉(たとえば両親)が欲するものを知ることができれば、私はそれになろうとすることができるだろう。私の両親は何を欲しているのか。この問いが、〈他者〉の欲望を探求し続け、探り続けるよう私を導く。私は、自分自身の欲望(それが何であれ)を知ることでは飽き足らず、〈他者〉に、「あなたは何を欲するのか」と尋ねる。私の考えでは、このように尋ねることは、欲されるために「私は何をするべきなのか」、「私は何であるべきなのか」という問いに答えるのを助けてくれる。
 〈他者〉が欲するものを発見しようとするこの試みは、しばしば分析のなかでも起こるが、分析家はその問いを主体へと差し返さなければならない。そんなことをしても最初から何か良い効果が見られるということはない。そもそも欲望が〈他者〉の欲望であるなら、主体が何を欲するか——あたかもそれが〈他者〉が欲するもの以外であるかのように——尋ね返すことが、何を意味するというのか。しかし、やはりそれは、主体を自我理想すなわちI(A)から離れさせるための一種の計算された試みなのである。分析家は、この二つを分離するために、すなわち、主体が欲するもの(…)を〈他者〉が主体に欲するもの(…)から分離するために、「お前は何を欲するのか」(…)という問いを掲げる。(…)
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)



 眠りが浅かった。10時半ごろにおのずと覚めた。朝昼兼用のメシを第五食堂で打包。食堂の入り口近くで(…)さんと(…)さんのふたりから声をかけられた。快递で荷物を受け取り、果物屋でドラゴンフルーツを買った帰り道のようす。
 帰宅して食す。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きにとりかかる。一年生の(…)くんから微信。「先生 坂本龍一作る有名な曲「Merry Christmas Mr. Lawrence」はいいね 聞いてみようか」というメッセージとともに、楽曲へのリンクが貼られている。いやこの曲のこと知らん日本人なんておらんわという感じであるので、「これは坂本龍一が作曲した曲のなかでも一番有名なものだね」とひとまず受けたところ、『戦場のメリークリスマス』(大島渚)を観たことがあるかという質問であったり、中国外務省が発表した坂本龍一訃報に対する哀悼メッセージの動画であったり、そのメッセージの日本語訳であったりがガンガンひっきりなしに送られてきて、こちらは基本的に作業中にメッセージのやりとりをするのがあまり好きではない、やりとりせざるをえない場合はかなりスローペースでやる、つまり、たとえば日記を書いている最中であったら、段落変更するたびに返信するとか、なにかしらのきりのいいところまで書き進めた時点で返信するとか、そういうふうにやるのだが、(…)くんはいつもそうしたこちらのペースに付き合わず、返信を待たずに別の話題に飛んだり質問を重ねたりする、そしてそのたびにこちらのスマホがブッ! ブッ! と震動する。こちらをせかすように、ブッ! ブッ! ブッ! ブッ! ブッ! ブッ! と何度も何度も震動する。それがこちらにはめちゃくちゃストレスであるし、ふつうにイラついてしまうので、以前も似たようなことがあったが、悪いけれどもいまちょっと忙しいので返事できませんとやりとりを力ずくでぶったぎった。もうちょい落ち着けといいたい。
 時間になったところで部屋を出る。自転車にのって南門付近へ。そこから徒歩でバス停に移動。bottle waterが切れかけていたので新規注文しようとしたのだが、これまでは問題なく注文できたその画面で注文することができない、携帯電話番号と住所を登録せよと表示される。しかしどちらの情報もすでに会員登録の際に登録してある。なぜもういちどあらためて登録しなければならないのかわからない。おおかたまたミニプログラムの見切り発車的マイナーアップデートのようなものがあり、それで不具合が生じたということではないか、アップデート以前には問題なく参照されたデータが参照されなくなり、あらためてデータを登録しなおす必要が出たということではないか。知らんけどな。注文は無事できた。
 バス移動中はいつものように書見。『水死』(大江健三郎)の続き。これマジでクソおもろいわ。これまで読んだことのある大江健三郎の作品のなかでいちばんいいかもしれん。車内ではいつものようにハゲの教員がスマホから直接、广场舞にうってつけのクソダサイ音楽を大音量で流していて、おまえな、なんで地元の老人でもしとらんようなふるまいを、よりによって大学教員のおまえがしとんねん! と内心で毒づかざるをえない。しかもその教員、スマホから流れる音楽にあわせて、そのスマホを持った手をまるでステージからのうながしに応じるかたちでサイリウムをゆっくりと左右にふるファンみたいにふらふらさせていて、なんやねんこのおっさんはとなる。こいつの結婚もどうせ失敗の巻なんやろな。
 終点でおりる。売店でミネラルウォーターを借りる。地獄の便所で小便をし、教室に入る。14時半から(…)一年生の日語会話(二)。第14課。改稿の甲斐あって、なかなかうまくいった。しかしアクティビティでやったジェスチャーゲームの最中、はりきりすぎた(…)くんが額をどこかでぶつけ、軽く出血するというアクシデントがあった。授業後、だいじょぶかとあらためて微信を送ってたずねてみたところ、問題ないという返事。ジェスチャーについては、たぶんこのふたりであったら率先して盛り上げてくれるだろうなという事前のこちらの予想通り、(…)くんと(…)さんがめっちゃがんばってくれた。ありがたい。こういう学生がクラスにひとりいるだけで、授業はずっと楽になる。ほんま宝物みたいな学生や。
 授業は5分はやく切りあげた。それでいつもより一本はやいバスにも間に合ったのだが、いや、わざわざ急ぐ必要なんてなかった、終点の(…)に向かう女子学生の集団と乗り合わせるはめになったせいで、30分か40分ほどある道中ずっと立ちっぱなしになってしまったのだ。こんなふうになるんだったら一本遅らせるべきだった。立っているあいだもずっと書見を続けていたのだが、途中のバス停でおりるおばはんが、椅子からたちあがったあとの支えをもとめて、つり革に手をのばすでもなく柱に手をやるでもなく、なぜかこちらのわきばらあたりのセーターをその下にある肉ごと指先でぎゅっとつまむようにしたので、は? なんじゃこいつ? 新種の妖怪か? とびびった。ふつうにちょっと痛かったんやが。「いてっ!」とか言ってやればよかったんだろうか? そういえば、(…)には一時期、中学および高校時代だったと思うが、でかい音で屁をこくたびにバカ殿様を演じる志村けんみたいな高い声で「イテーーーーーッ!」と叫ぶという持ちギャグがあった。(…)は基本的にユーモアのセンスが壊滅的で、彼によるウケ狙いの行動および発言はことごとくそれがウケ狙いであることすら周囲から理解されないレベルでドン滑りするというのが日常だったので(と同時に、やつはあたまのネジが外れているタイプのヤンキーだったので、冗談でもなんでもない本人は本気のつもりのふるまいが、その突拍子のなさによって爆笑を誘うということはたびたびあった)、年に一度か二度、ウケ狙いの行動が一度でも成功すると、それを一日におよそ三十回、数年単位で続けるという最悪の悪癖があった(だいたい次のオリンピックまで続く)。だから、屁をこくたびにバカ殿様を演じる志村けんみたいな高い声で「イテーーーーーッ!」と叫ぶというふるまいも、当時はみんな飽き飽きしており、反応せず流すのが普通になっていた——というかそれを流そうとする意識すらなく流していたのだが(それは自衛隊のヘリコプターの音やセミの鳴き声や遠くを走る暴走族のバイクの音なんかと基本的に変わらないものだった)、しかし冷静に考えてみると、屁をこくたびに痛みを訴えるというのはクソおもしろくないか? これ書いとる最中、口の中にふくんだ白湯ふつうに吐きそうになったわ。
 バスをおりる。(…)で食パンを三袋買う。自転車を回収し、第五食堂に立ち寄り、夕飯を打包。帰宅して食す。食事中、YouTubeにアクセスしたところ、北野武の映画の暴力的なシーンばかり集めた動画みたいなものがヒットし、それでちょっと『アウトレイジ』シリーズをみなおしたくなった。『ソナチネ』は何度もみかえしているし、『あの夏、いちばん静かな海。』もたぶん三回か四回はみていると思うのだが、『アウトレイジ』は一作目と二作目だけみて、三作目はみていない(ちょうど映画をみる習慣が途絶えたころに公開されたのではないか?)。それでちょっと三作まとめて、食事の時間を利用してみてみようかなと思った。(…)ひとまず『アウトレイジ』を一時間弱ほどみた。『ソナチネ』の美学は捨象され、暴力の表象の百科事典的な羅列をリズムとしつつ、権力のゲームがそのままむきだしのあらすじとして運行する作品。『ソナチネ』は欲動の映画だが、『アウトレイジ』は欲望の映画だ。それで思ったのだが、欲動は芸術的であり、欲望は娯楽的であるという大雑把な見立ても、いちおう成り立つのかもしれない。
 それから明日の日語会話(一)の授業準備。第15課用のアクティビティを作りなおす。たぶんこれで楽しめるだろうというものを無事ひらめく。今学期だけで、日本語を使ったゲームを考えるのがめちゃくちゃうまくなったと思う。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年4月6日づけの記事を読み返す。2013年4月6日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。そのまま今日づけの記事もここまで書いた。

 時刻は0時前だった。腹筋を酷使し、プロテインを飲み、トースト二枚の夜食を食した。ひとつ書き忘れていたことがある。(…)さんから微信があったのだった。中国にもどる計画はいったん取り消すことにしたとのこと。日本での就職が決まったらしい。「正規の専任講師受かったよ」とのことなので、ひきつづき日本で日本語教師をするということなのだろう。以前は非正規だったわけだが、今後は専任講師、ひとまず東京で数ヶ月研修を受けることになっているので、荷物を送ってもらうのはそれ以降でよいとのこと。好的。
 歯磨きをする。0時半をまわったところで『本気で学ぶ中国語』をはじめるも、強烈な眠気に見舞われ、1時半過ぎにあえなくダウン。仮眠をとっていないからだろう。ベッドに移動してほどなく就寝。