20230413

 私たちはおそらく、動物が決してしないことを行っている。私たちは自らの享楽を、そうあるべきと考える基準に照らして、すなわち絶対的な基準、規範、ないし標準に照らして判断する。基準や判断は、動物の王国には実在しない。それらは、言語によってはじめて可能となる。言い換えれば私たちは、言語によって、自らの獲得する享楽がそうあるべきものではないと考えることができるようになるのだ。
 言語によって、私たちは次のように言うことができる。自分たちには、種々様々な仕方で獲得する、取るに足らない満足がある、と。そしてまた別の満足、より良い満足、すなわち決して裏切らず、物足りなさや失望を感じさせない満足がある、と。だがそのように信頼できる満足を経験したことがあるだろうか。ほとんどのひとにとっておそらく答えは否である。しかしそうであっても、そのような満足があるに違いないと信じることは妨げられない。より良い何かがあるに違いない。おそらく私たちは、他のひとびとの集団のうちにそうした満足の兆しを見いだし、それゆえにそのひとびとを羨望し、憎む。おそらく私たちは、そうした満足がどこかに実在すると信じたいがために、それを何らかの集団に投影する(むろん私はここで、人種差別や性差別などのすべての側面を、このきわめて単純化された定式によって説明しようとしているわけではない)。
 いずれにせよ私たちは、何かより良いものがあるに違いないと考え、そう口にする。何かより良いものがあるに違いない、そう私たちは信じるのだ。私たちは、自分自身や友達や分析家に対して、繰り返しそう述べることで、この別の満足に、すなわち〈他なる〉享楽に、ある種の一貫性を与えようとする。結局のところ、過度な一貫性を与えるあまり、実際に私たちが獲得する享楽は、ますます不適切なものに見えてくる。私たちの持つわずかな享楽はさらに少なくなる。私たちが実際に期待し掲げる享楽の理想、すなわち自分たちを決してがっかりさせることのない享楽と比べるなら、私たちが手にしている享楽は色褪せてしまうのだ。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.219-220)



 11時半過ぎ起床。第五食堂の一階で炒面を打包。食堂の入り口にあるスペースで輪投げが行われていた。飲料かヨーグルトかわからんが、たぶんそういうメーカーの販促イベント。完全な推測でしかないが、モーメンツで宣伝を打ったら輪投げに一回チャレンジできる、成功すれば商品ゲット! みたいな感じではないか。相当数の学生が列をなしていた。
 帰宅して食す。蒸し暑くてたまらないので、この春はじめてのことであるが、ほんのひとときではあるもののエアコンを入れた。起床したのが遅かったこともあってか、だらだらメシを食っているうちにいつのまにか出発時間が近づいていることに気づき、あわてて身支度を整えた。コーヒーを飲むひまはなし。帰りのバスに乗るころにはカフェインの離脱症状に悩まされるんではないだろうかと心配になる。
 自転車で南門のそばまで移動。バス停に移動してほどなくバスがやってきたのだが、こちらが乗り降りするバス停は始点である。しかるがゆえに道路の対岸のバス停は終点であり、そこに到着したバスは路駐してひととき待機、出発時間になったところで道路をUターンして始点のほうにやってくるはずなのだが、今日はその対岸で路駐しているバスが一台も見当たらなかった。そしてバス停に到着したバスは、あきらかにどこか別のルートからやってきたものだった。しかしバスの番号はいつものように33番であるし、バス正面の電光掲示板には(…)の文字もみえる。妙だなと思いつつ乗車しようとしたところ、こちらに先んじて乗車をこころみた男子学生ふたりが運転手となにやら言葉を交わすなり、乗車をとりやめた。さらにバス車内にのっていた乗客の男性もやはりいささか困惑したようすで運転手になにやら訴えかけている。これはなんかおかしいぞと思ったので、このバスは(…)に行くのかと運転手にたずねると、むこうに渡れと道路の対岸を指してみせる。急な路線変更でもあったのかもしれない。言われたとおりにする。33番のバスの電光掲示板には(…)广场みたいな文字もあった。これは大学の西側にあたる開発地区の名前だったはずで(きのうおとずれた(…)や(…)もこのエリアの区分される)、なるほど、開発にあわせてバスの始点および終点もあそこに変更になったのだろう。なかなか気合の入った開発ぶりだ。大学もわざわざ開発業者が費用をすべて負担するかたちで西門を開設するわけであるし、バスの始点および終点も変更するわけであるし、冬休み中には(…)もオープンしたし、噂によればローソンも近々オープンするらしいし、きのう一年生の(…)くんから聞いた話ではマクドナルドもオープンした。これからますます栄えていくことだろう。そしてそのタイミングで日本語学科が取り潰しになり、こちらはこの地を去ることになるかもしれないわけだ。辺境を享楽するものにふさわしいあらましだ。
 対岸に渡る。バスがなかなか姿をみせないのにやきもきする。(…)广场は大学の西側にあるわけだが、このときこちらのあたまのなかでは地図がうまく展開されておらず、(…)广场を大学の東側に位置づけていた。しかるがゆえに、大学の東側にある(…)广场が始点および終点になるのであるとすれば、さっきほかでもないその東側から終点にむかうバスがやってきたのはおかしいではないか、そして始点から来るバスがまもなく西側からやって来るというのもやっぱりおかしいではないかとやや混乱しており、結果、バス停のベンチに座っている男子学生ふたりに声をかけて、ここに(…)行きのバスは本当にここに来るのかとたずねたのだった。ふたりは来るといった。そう言ったふたりはしかしじきに滴滴で呼んだらしい車に乗って去った。本当に来るのかよと思いながらひきつづきやきもきしていると、13時40分をまわったところでようやく33番のバスがやってきた。乗車の際、(…)に行くのかと運転手にたずねると、行くというたしかな返事。運転手はこれまで見たことのない、若くて顔立ちのきりっとした、ちょっと俳優みたいな雰囲気のある男性だった。中国で男前とされるタイプの顔立ちだと思う。
 バスはそのまま東進。次のバス停ではいつも乗り合わせる妖怪スマホ演歌鳴らしも乗車。バスはその先の交差点で南に折れた。どういうルートをたどるのか気になったので今日は書見せず、ずっと窓の外の景色をながめていたのだが、ぼんやり理解できた、老校区と后街からなる長方形の区画の、以前であれば北側→西側→南側と迂回してから市内を東進する格好だったのだが、変更後のルートでは同じ区画の北側→東側と移動して市内を東進するのだ。迂回しなくなった分、もしかしたら五分程度は終点までの到着がはやくなったかもしれない。
 途中、車道のど真ん中に停まっている車のせいで、バスがひととき動けなくなる時間があった。車は後部座席のドアをあけっぱなしにしていた。ほどなくして歩行者がひとりのこのこと歩いてきて、その後部座席に乗りこんだ。たぶん知り合いかなにかを拾うためにドライバーが一時停止したのだと思うが、後ろからバスがきているような状況でよく車道のど真ん中に停まるよなとびっくりしたし(しかもけっこう長い時間)、さすがにこれは中国の片田舎でもなかなか見られないハイレベルな自己中心的ふるまいだったのだろう、こちらの前の座席に座っていたおばちゃんもその前に座っていたおばちゃんも、くだんの車をバスが追い越す際には窓からその車のほうをおそろしい形相でにらみつけていた。
 (…)第一中学校というのを見た。小豆色のジャージとブレザーの合体したような制服を着ている女子学生を見た(上はブレザーやセーラー服の影響を感じさせるデザインなのだが、下はスカートではなくパンツスタイル)。LAWSONを見た。先学期か、先々学期か忘れたが、(…)さんと(…)さんと一緒に街をぶらぶらしたときに待ち合わせしたバス停と広場を見た。
 妖怪スマホ演歌鳴らしははじめのうちこそおとなしくしていたのだが、終点に近づき乗客が少なくなるにつれて、いつのまにか例によってスマホからだっせえ音楽を鳴らしはじめ、そのリズムにあわせて手のひらでひざを叩きながらリズムをとりだして、マジで正気を疑う、こいつほんまに大学教員け? 身だしなみもえっぐいくらいまずいし(よれよれのジャケット、ドロドロのスニーカー、あきらかに紐の長すぎるショルダーバッグ、いますぐ剃れといいたくなるさびしい毛髪)、ふるまいもまったく洗練されとらんし、おれよりあかんタイプの教員やんけ!
 終点到着。売店でミネラルウォーターを購入。売店の入り口で授業で使う資料を印刷しにきたらしい女子学生ふたりに声をかけられたが、名前も顔もさっぱりわからん。教室へ。ナイロンジャケットを脱いでTシャツ一枚になる。14時半になったところで授業開始。(…)一年生の日語会話(二)。第15課。先週(…)でやってうまくいった教案をそのまま使う。(…)にくらべるとやはり多少は活気に欠けるが、後半のアクティビティはかなり盛りあがった、人数が少ないという事情もあるのだろうが、(…)よりテンポよく進み、用意していたお題を使い尽くすいきおいだった。すばらしい。以前も書き記したが、このクラスは(…)くんと(…)さんのふたりが良すぎる。このふたりがクラスの明るさの半分以上をになっているんではないかとすら思う。特に(…)くんはこちらをいじってもだいじょうぶだと学習したらしく、ちょいちょい仕掛けてくるようになった。それがたいそうありがたい。
 授業が終わったところでふたたびバス停へ。The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読み進めたが、眠気でろくにあたまが働かなかった。さらにカフェインの離脱症状のきざしもうっすらと感じはじめていた。つまり、かるーい頭痛がはじまっていたのだ。終点が近づくにつれて、こちらのとなりに座っていた女性客がうろたえはじめた。席を立ち、フロントガラス越しに町の風景をたしかめたり、車内の路線図を確認したりするそのようすを見て、あ、路線変更後のバスに乗るのがこのひともはじめてなんだな、老校区と后街からなる一画の南側を通らずその東側を通っていることに動揺しているのだなと察した。
 終点の手前の手前でおりた。終点は(…)广场。終点の手前はこれまでこちらが乗り降りしていた(…)前。そのさらに手前が、これは路線変更のおかげで33番のバスも通過することになったのだが、(…)前という停留所で、ここは南門の目と鼻の先にあるのだ。しかるがゆえにここでバスを降りるのがいちばん便利!

 自転車に乗って第五食堂へ。夕飯を打包。そのまま瑞幸咖啡に立ち寄ってココナッツミルク入りのアイスコーヒーも打包。体が冷たくて甘い飲み物とカフェインを同時に求めていたので、そういうときはこれを飲むしかない。帰宅して飲み食い。腹いっぱいになったところで仮眠はとらず、そのまま浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチ。頭痛がまだおさまらないふうだったのでさらにコーヒーを追加してがぶがぶ飲みながら、明日の授業で必要な資料を印刷。そのままきのうづけの記事にとりかかる。
 作業中、二年生の(…)くんから微信。「申し出る」と「申し入れる」と「申し込む」の違いについて。卒業生の(…)くんからも微信。土曜日に会えないかという。明日(…)に到着する予定らしい。夕方以降であれば問題ないと受ける。(…)先生も誘って三人で食事をしたいというので、これはもちろん了承。ついでに日本語学科存続危機についてちょっと確認しておくか。
 その存続危機について、日本語学科の教員からなるグループチャット内で新情報らしいものが共有されていた。詳しいことはよくわからんのだが、大学レベルではなく政府レベルの話だと思う、教育部とか国家発展改革委員会とかそういう文字が認められるニュース記事のスクショを(…)先生が投稿していたのだが、2025年までに学科の改革がおこなわれるというもの。文面をざっと見た感じ、これからの社会でますます必要となる理系分野の学科新設をおしすすめるともに、経済や社会発展に対する良い影響の認められない学科を淘汰していくという方針が語られている模様。外国語に関しては、主要なものについてのみひきつづき力をいれるみたいな文言があることにはあるのだが、そこに日本語が含まれているのかどうかはさだかでないし、仮に含まれているのだとしても、現状ほど多くの日本語学科は必要ないだろうと(…)先生も(…)先生も考えている様子。つまり、うちの大学の日本語学科が取り潰しになる可能性がこれでますます高くなったというわけだ。うーん、これマジで年内にさよならバイバイもありうるな。まああれこれ考えても無駄だ。これまでの人生、仕事に関しては基本的に受け身の権化としてやってきた。どこに働きかけるでもなくただただじっとする、そうこうするうちにおのずと妙な話が降って湧いてくる、そういうふうにして仕事を見つけて、そういうふうにして食いつないできた。だから、ここでも下手に動かず、滅びつつあるものをただただ愛でながら、すっとんきょうな話がもちかけられるのをどーんと構えて待つだけだ。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回。その後、2022年4月13日づけの記事を読み返す。現三年生の学生ら大人数とそろってキャンパスを散歩した夜。で、その際、見知らぬ女子学生とふたりで歩いている(…)くんとすれちがっているのだが、その「(…)くんからは、なかなかけっこう今更であるが、微信の友達申請が届いた。さっきのは彼女ではない、彼女はバスケットチームの一員でいろいろ助言を求められていたのだ、という弁明。どうでもいいわ!」とあるのだが、一年後のいま、どうして彼がこのようなどうでもいい弁明を寄越したか察しがつく。(…)さんだ。たぶん彼はこのときすでに(…)さんと付き合っていたのだ。しかしそのタイミングでほかの女子と一緒にふたりきりで歩いているところをこちらに目撃されてしまった、次の授業でその一件にこちらが言及するかもしれない、そうなったら(…)さんと修羅場を演じるはめになってしまう——そういうわけで、あわてて弁明を寄越した格好ではないか?

 2013年4月13日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。「昼頃(…)さんが鴨川で捕まえてきた川エビのはいった袋をもってあらわれた。先日より職場のおもてに置いてある鉢に水を張ってメダカとエビを飼いはじめたのだ。かわいい。人手がまるで足りずに忙しい日々を慰めてくれるわれらがマスコット。メダカは近々産卵する」との記述あり。最初メダカを飼いはじめたのは(…)さんだったはずだが、この時点ですでに(…)さんも(…)さんを真似て自宅で飼いはじめていたのだろうか? 鴨川に魚を捕まえにいった記憶もあるが(オオサンショウウオを間近で目撃した夜!)、あれはもうちょっとあとのことか?

変わった職場(業界)の変わった同僚たちを描くタイプの漫画なり映画なり小説なり、そういうものがひとつのジャンルというか形式としてすでにある程度の市民権を得ているように思われるけれども、いまのこの職場のこの面々ほどそういう類のものにうってつけのアレもないだろうなと思う。日陰者らの百科全書的全景。曲者たちの大饗宴。それでいて奇蹟的におだやかに過ぎ去る時間。客足の途絶えた日中など、洗い物をしながらこのひとときが愛おしいと感じることすらある。青山真治サッドヴァケイション』のあの運送屋みたいなものかもしれない。ドロップアウトしたものたちの最後の受け皿。よくもまあこれだけの面子がそろったものだ。明るく陽気な落伍者たちの日々。けれどもその手の物語がおりなす常道として、この穏やかさはけっして長続きしない。不吉にひかえる未来の印象が、それゆえますますいまの結晶化に拍車をかける。

 こうした感慨はたびたびおぼえたものだった。上のくだりに続けて、「年を経てからしみじみと思い返す視点にいま、なぜか、はっきりと立脚する瞬間があった」という記述もあったが、まさに十年の時を経たいま、しみじみとかどうかはわからないが、たしかに思い返している。一年前の記事に書きつけられている封校期間中の日々のこともきっと、これから先、折に触れては思い返し、思い出し続けるのだろう。
 三年生の(…)さんから微信。「(…)」の手本をこちらが演じた際に使用したPDF資料を送ってほしいという。参考にしたいとのこと。その後、発表はPDFではなくPPTでもいいだろうかという質問も届いたが、それについてはどちらでもかまわないとこちらは授業中に説明しているし、配布した資料にもその旨書き記してある。やれやれ。
 腹筋を酷使する。ジャンプ+の更新をチェックする。また出前一丁のシーフード味を食し、歯磨きをし、そのまま今日づけの記事にとりかかる。2時になったところで作業を中断。学生との誘いをこれほどしっかり断っているにもかかわらず、マジで時間が全然足りない。なんでや?