20230513

 次に、対象aのもう一つの機能である幻想という転移を同じく分析家の欲望との関係で考えていこう。
(…)
 「転移が要求を欲動から遠ざけるものだとすれば、分析家の欲望は要求を再び欲動へと連れ戻すものです。この道を介して、分析家は「a」を切り離し、それを、彼がその具現者になるべく主体から求められているもの、すなわち「I」から可能なかぎり離れたところに置くのです。「a」を分離する支えとなるためには、分析家はこの「I」との同一化という理想化から失墜しなくてはならないのです」(…)。
(…)
 「精神分析家の欲望——これは一つのxとして留まっているのですが——が同一化とはまさに逆の方向に向かう限りでこそ、分析経験の中での主体の分離を介して、同一化という平面の乗り越えが可能になるのです。こうして主体の経験は、無意識の現実によって、欲動がその姿を示しうるような平面に再び連れ戻されます」(…)。
 ここで分析家の欲望に注意を向けよう。上記の二つの引用からはともに、分析家の欲望が主体を欲動へと導くのに重要視されていることがわかる。そして、後者の引用からわかるのは分析家の欲望はxでなければならないということである。分析家の欲望が「x=謎」であるには分析家の欲望が非明示的である必要があるだろう。つまり、それは分析家の意図や意志が分析主体側にはっきりとは伝わらない形を取ることである。このことは第四章での「幻想の臨床」の議論や前章での考察で見たように、分析家がスカンシオンや沈黙という「空白をもつ解釈」をすることで実現される。そのような分析家の行為によって、分析主体は同一化する対象を失い困惑するものの、分析家側の幻想が混ぜ合わされることなく、自ら思うところのシニフィアンを数え上げていくことが可能となる。こうした脱同一化に基づく幻想の反覆(itération)を経て、主体は最後に欲動と関わるのである。
 「対象aとの関係による主体の標識づけの後には、根源的幻想(fantasme fondamental)の経験が欲動になります。それでは、根本的に不透明な欲動とのこの関係を経験した人は何になるのでしょう。根元的な幻想を通り抜けた主体は欲動をどのように生きるのでしょうか。分析の彼岸とはこのことなのです」(…)。
 主体が対象aとの出会いにおいて根源的幻想を構成することで欲動と関わるこの地点は、「分析の彼岸」として語られる分析の一つの出口となる。この意味で幻想という転移は効果的な転移なのであり、幻想とは精神分析の根幹に関わる重要なものである。ラカンは「精神分析の価値、それは幻想に作用することである」(…)と述べている。
 以上より、幻想という転移と分析家の欲望の関係をまとめると、対象aが幻想として機能するには、分析家の欲望が謎のままに留まることが必要であり、そのためには分析家はスカンシオンや沈黙という「空白をもつ解釈」によって分析家の欲望を非明示的なものとしなければならない。それによって、対象a[a]と自我理想[I]との隔たりが維持され、脱同一化を通して、主体は根源的幻想の構成へと向かうことになる。
 繰り返しになるが、最後にもう一度、対象aは愛という囮・ルアー——同一化の臨床における問題点——として機能して分析を停滞に導き、分析家の欲望が非明示的であれば、対象aは欲望を支える幻想——幻想の臨床において中心的な役割を演じる無意識の派生物——として機能して分析の一つの出口を提供するのである。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第六章 共時的なものとして存在する二つの臨床形態」 p.139-141)



 正午過ぎ起床。食堂に出向くのが面倒なので食パン一枚でメシ誤魔化す。洗濯。さすがにボチボチ衣替えしてもいいかもしれない。明日か明後日か、時間のあるときに冬服をまとめて洗って、クローゼットにしまおう。
 Ovalの新譜『ROMANTIQ』をくりかえし流しながら、きのうづけの記事の続きを書く。卒業生であり現在(…)大学で院生をしている(…)さんから翻訳コンクール用の作文を添削してほしいという依頼が昨日届いていたのだが、指導教師にすでにチェックしてもらったものを重ねてこちらに訂正してほしいという話だったので、応募時の指導教師の欄に別人の名前が記載してあるものにこちらがさらに手を加えるのは気がすすまないと断る。指導教師の許可はすでに得ているという返信があったので、そもそもこの手のコンクールには指導教師の名前を記入する欄があるはず、その欄に別人の名前が記載・登録されている仕事にこちらが関与するのはおかしいでしょうというと、今回のコンクールにはそうした欄が存在しないという。ほんまかよと思いつつ、それだったらと引き受けるが、まあめんどうくさくて仕方ない。進学先の教師にお願いしてほしいというのが正直なところだ。(…)くんの修論修正でもうこりごり。学外の学生からの依頼はあまり引き受けたくない。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年5月13日づけの記事を読み返す。2013年5月13日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。車にはねられた件で病院だの警察署だのあれこれ移動しまくっている日であるが、「面倒なことはさっさとすませてしまってはやいところ紋切り型の日常にもどりたい。代わり映えのしない日々にそれでも鮮度を求める性根こそが認識の解像度を鍛えあげる。日記というのは書かなければ忘れてしまいそうな事柄を書いてこそ光るものだ。思想も箴言も批評も分析も必要ない。天気と景色と取るに足らない出来事となんでもない会話、それにささやかな思い出話を添えればそれでいい。」とあって、わかるでその気持ち。
 作業中、四年生の(…)さんから卒業写真の件について連絡。月曜日の午後に図書館前に来てください、わたしたちはみんな先生が来ることを期待していますというので、きのう(…)さんから聞きました、かならず向かいますと応じる。さらに二年生の(…)くんからスピーチコンテストの原稿修正依頼が届く。彼はクラスでもっとも日本語学習にやる気のない、しかしムードメーカーという意味では貴重な存在である学生なのだが、なぜスピーチコンテストに参加しようと思ったのか? 去年もやっぱり参加していた記憶があるのだが、これも持ちまわり制のアレだろうか? それともただ単にお祭り男的なノリか?

 卒業生への手紙をちょっとだけ書く。17時過ぎになったところで中断し、第五食堂でメシを打包。食し、寝床で仮眠をとろうとするも、四年生の(…)さんと卒業生の(…)さんからたてつづけに質問が届き、冴えてしまう。(…)さんからは日本語に関する四択問題の解説依頼(「お目にかかれて」という表現について)。(…)さんからは中沢臨川の「愛は、力は土より」という文章の翻訳をしているのだが、一部わからないところがあるという相談。まったく聞いたことのない作家だが、Wikipediaによると、明治の文芸評論家らしく、小説もただひとつ「嵐の前」というのをものしているらしい。質問は「更に驚くべきはその醜き堆積の中より育て上げられしし今宵の清き華よ」という一節の「育て上げられしし」という箇所について。ここの「しし」はどういう意味なのかというので、「育て上げられし」であれば「育て上げられた」と過去形で理解すればいいだけだが、たしかにこれは文法的にはどういう理解になるのだろうと思い、それで先日日本語版が公開されたBardでさっそく質問してみることにしたところ、「この「育て上げられしし」というフレーズは、ラ行変格活用の未然形「育て上げられ」に、尊敬語の接尾辞「し」と、過去の助動詞「き」の連用形「し」が付いたものです」との説明がある。で、「尊敬語の接尾辞」ってなんやねんと思ってググってみたところ、現代でいう「様」「さん」「殿」などがこれに当たるという情報が出てくる。うん? となって、「古語+し」みたいなかたちでさらにググってみたところ、接尾語の「し」として、孔子孟子などの「子」が紹介されており、なるほど、クソAIがまた知ったかぶりやがったな、hallucinationだと思った。ちなみに質問の方法や角度をいろいろに変えてみたのだが、どれもこれもやはりしっくりこない返事ばかりだったので、「育て上げられしし」はおそらく誤記であるだろうと返事した。ただ、じぶんが仮にこの文章を読んでいてもつまずかなかったと思う、なんとなく違和感なしでスルーしてしまっただろうという感じもあるので、もしかしたら(小説というよりは漫画やゲームに頻出する)擬古文調の文章でこうした誤用が案外たくさんあったりするのかもしれない、こちらもそれに慣れてしまっているのかもしれないとも思った。
 シャワーを浴びる。軽くフリースタイルする。「実弾(仮)」の続きを書きたい気分だったが、さすがに先にやるべきことをやっておいたほうがいいかというわけで、まずは卒業生への手紙を書きはじめた。なんとなくの絵図はあったつもりなのだが、書き出してみるとけっこう右往左往し、できあがったものはなかなかの長文になってしまったのだが、その後、冒頭から整形手術をほどこしてぐっとスリムにした。後半の論旨がまだちょっとあやしいが、ひとまずかたちにはなったので、あとは二日か三日ほどかけてチマチマ修正する。
 0時半過ぎに作業を中断。途中、二年生の(…)さんからスピーチコンテスト用原稿の添削依頼があった。彼女が参加するのであれば、代表は彼女に決まりになるかもしれない。シャイで緊張しやすいという弱点はあるが、文章はそれほどまずくない。高校時代から日本語を勉強しているというアドバンテージもある。
 トースト食す。筋トレはしていないがプロテインも飲む。歯磨きし、部屋の照明を落としてフリースタイルを30分ほど楽しみ、その後、スピーチ用原稿の添削を二人分ちゃちゃっと片付ける。返却は明日する。それだけで時刻が2時半をまわっていることに絶望する。マジでなんで毎日こんなに時間がないんや。授業準備もしていない! 執筆も語学もしていない! それなのに一日がこれほどはやく過ぎ去ってしまう! なにものかに騙されている気がする!